8

父がテレビを見始めたころ、


俺は風呂に向かった。




脱衣所のドアを開けると、


湯気がふわっと顔に当たった。


タイルの床は少し冷たくて、


足の裏にひやっとした感触が走る。




浴室のドアを開けると、


風呂の蓋の隙間から湯気が上がっていた。


鏡は白く曇って、


自分の姿はよく見えなかった。




蓋をずらすと、


ふわっと湯気が立ちのぼった。


湯の表面がゆっくり揺れて、


天井の蛍光灯の光を歪ませていた。




肩まで浸かると、


息が自然に漏れた。


体の芯まで湯が入ってくる。




湯気の中にじっといると、


頭が少しぼんやりした。


湯の音が、


壁に反射してやわらかく聞こえた。




湯気の向こうに、


昔の光景が少しだけ浮かんだ。




冬、学校から帰ってきて、


雪で濡れた足のまま風呂へ入ったこと。


父が風呂で歌っていて、


母が笑いながら「うるさい」と言っていたこと。




湯船の縁に置かれたシャンプーのボトルの色、


小さく欠けたタイル、


壁に付いた白い水垢。


全部、子どもの頃から変わっていなかった。




湯の中で足を伸ばす。


その動きで湯が揺れて、


湯気が一瞬だけ薄くなる。


でもすぐまた白く満ちていく。




鼻に届くのは、


石鹸と、湯気と、木の香り。


冬の風呂場の匂い。




父がよく使っていたヒゲ剃りが、


まだ棚の上に置いてあった。


銀色が少しくすんでいる。


見るだけで、


ここで生活している年月が伝わった。




湯から上がって体を拭く。


古いタオルは少しごわごわしていた。


その触り心地まで懐かしかった。




脱衣所に出ると、


鏡がまだ曇っていた。


手で拭っても、


指の跡がついてまた曇る。


それが面倒で、やめた。




廊下に出ると、


ストーブの暖かい空気が


体にまとわりつくように広がった。




父はテレビを見ていて、


母はキッチンで片付けをしていた。


皿の当たる音、


水道の流れる音、


テレビのニュースの声。


全部が生活の音だった。

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