3
夜、部屋の電気を消した。
テレビの音も止めた。
暗くなった部屋の中で、
自分の呼吸の音だけが聞こえた。
静かすぎて、
何かが終わったあとみたいだった。
窓の外では、風が吹いていた。
ビルの隙間を抜ける音が、
笛みたいに細く響いていた。
冷たい風なのに、
どこか熱のない冷たさだった。
触れても、何も感じない。
この街の空気は、
まるで自分の体を通り抜けていくみたいだ。
そのとき、
ふと故郷の冬を思い出した。
雪が降る音。
踏みしめるときの「キュッ」という音。
外に出ると頬が切れるように冷たくて、
家に入るとストーブの熱で眼鏡が曇った。
母が味噌汁を作る匂い。
その湯気の中に包まれる感じ。
あれが冬だった。
あれが「寒い」ということだった。
東京の冬には、それがない。
ただ温度が低いだけで、
どこにも人の気配がない。
寒いくせに、心が動かない。
それが一番つらい。
あの町では、
誰かと「寒いね」と言葉を交わせた。
外で雪かきをしている人に、
通りすがりで「おつかれ」と声をかけられた。
それだけで安心できた。
寒さの中に、ちゃんと人がいた。
今は違う。
誰も話しかけてこない。
誰にも話しかけられない。
俺がいなくても、
この街は何も変わらない。
そんな場所に、もういたくなかった。
帰ろう。
そう思った。
理由はなかった。
ただ帰りたかった。
母の声を思い出した。
「ちゃんと食べなね」「無理すんなよ」
あの訛りがまだ耳の奥に残っていた。
母の言葉を思い出すと、
心の中の冷たいものが少しだけ溶けた。
もう一度、
あの声が聞こえる場所に行きたいと思った。
何をするわけでもなく、
ただ雪を見て、
あの家のストーブの前に座っていたかった。
カーテンを開けて外を見た。
街の光がぼんやりと滲んでいた。
あの光のどこにも、自分はいない気がした。
ここにいる意味が、
もう見つからなかった。
パソコンを開いて、
新幹線のチケットを調べた。
日付を入れる指が少し震えた。
たったそれだけのことなのに、
何か大きな決断をしている気がした。
実家の最寄り駅の名前を入力したとき、
胸の奥に懐かしい痛みが走った。
その駅名を、
もう何年も口にしていなかった。
画面に表示された時刻表を見て、
少し笑った。
「変わってないな」と思った。
自分だけが遠くに行ってしまったような気がした。
次の日、
荷物を少しまとめた。
必要なものは特になかった。
着替えとスマホ、財布。
それだけ。
スーツケースに入れるほどのものもない。
部屋を出る前に、
少しだけ立ち止まった。
冷蔵庫の中はほとんど空で、
机の上には水のペットボトルが一本だけ残っていた。
冷たい光が、
部屋の中の何もかもを無意味に照らしていた。
電気を消す。
暗くなった部屋を振り返った。
生活の形をしていたけれど、
そこに生きている人間はいなかった。
ただの空間だった。
玄関のドアを開けた。
冷たい空気が流れ込んできた。
その空気を吸い込んだとき、
少しだけ体の奥が動いた。
もう、帰ろう。
心の中で、そうはっきり思った。
大げさな決意じゃない。
逃げでもない。
ただ、帰る。
それだけだ。
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