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会社を休業してから、何日が過ぎただろう。


カレンダーを見なくなって久しい。


窓の外の光で朝と夜をなんとなく判断するだけで、


曜日の感覚はとうに失われていた。




外に出ない日が増えた。


最初のうちは罪悪感のようなものがあったが、


それすらも、今はもう薄れている。


玄関の靴がうっすらと埃をかぶっていた。


それを見たとき、自分が“止まっている”ことをようやく実感した。


誰かが置き去りにしたような時間の中に、俺だけが取り残されている。




夜になると、布団に入り、テレビをつける。


番組の内容には興味がない。


人の笑い声やBGMが部屋の隅でこだまするのを聞きながら、


ただ、時間が過ぎていくのを待つ。


画面の光が天井に反射して、ゆらゆらと揺れる。


それをぼんやり眺めていると、


自分が誰か他人の生活を盗み見ているような錯覚に陥る。


布団の中の空気はぬるく、


それでも外に出る気にはなれなかった。




スマホを触ることも少なくなった。


会社からの連絡はもう来ない。


アプリの通知も止まっている。


画面を見れば、仕事をしていた頃の記憶が蘇る。


誰かの笑顔、会議の雑音、


そして、あの無機質なオフィスの空気。


それは決して嫌な思い出ではない。


ただ、もう二度と戻れない世界の記憶だった。


思い出したくない――その一点だけで、


スマホという小さな矩形の光が恐ろしく感じられた。




その夜も、いつもと同じように時間が過ぎていた。


テレビの音が遠のき、意識が沈んでいく。


布団の中の呼吸がゆっくりと浅くなり、


眠りと覚醒のあいだを漂っていた。




そのときだった。


机の上に置いていたスマホが、不意に光った。


暗い部屋の中で、その白い光だけが異様に際立つ。


蛍光灯の消えた空間に、一瞬だけ夜明けが訪れたようだった。


光に遅れて、スマホが震える。


ブゥ……ブゥ……と、規則的な振動。


心臓が、それに呼応するように脈打ち始める。


脈拍と振動がぴたりと重なり、


やがてどちらが自分の鼓動かわからなくなる。


布団の中で、息が少し速くなった。


指先が汗ばんでいる。




恐る恐る、スマホを手に取る。


通知の文字がぼやけて見えた。


誰だろう、と一瞬だけ考えた。


友人だろうか。会社だろうか。


画面をスワイプして、震える指先で確認する。




そこに表示されていた名前を見た瞬間、


胸の奥がきゅっと縮んだ。




――母からの電話だった。

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