短編集 ヱス

庄司 篁

オペラの仮面

 煌びやかな照明は、辺りを仄暗く照らす。

 皿やグラスがぶつかり合う音と、僅かな人の話し声。

 その一つによく耳を傾けると、自分に視線が向けられているのを背中に感じた。


「いやしかし、貴女の活躍は本当に目覚ましいものですね」


 己に向けられた視線をそのままに、隣に座る男を見る。


「今やその活躍は、歌劇団のみに収まるものではないでしょう」


 彼女は口元に常に浮かんだ微笑をそのままに、目を細めた。


「私を見出してくださる方々のおかげです」


 当たり障りがなく、かつ本心を表す言葉を吐いて、目の前に置かれたグラスを口元に傾けた。

 甘い酒である。その飲み心地の良さに騙されるが、とても酔いやすい酒だ。


「それは、ファンのことで?」

「ファンの子たちに限らず、私の魅力を見つけ、引き出してくださった方々は多くいます。その方々もですね」


 己の姿勢、所作、瞬きに至るまで、神経が通っている。

 足は横に流すのではなく、組み。体は前に傾けるのではなく、立て。指先は強く伸ばさず、緩やかに。

 こうして、少女歌劇ナンバーワンスター『嘉賀かがかおる』は完成する。


「では、せっかくなら僕も、その一人に名を刻ませてもらおうかな」

「ふふ。私をどのように見出してくださいましたか?」


 冗談交じりにそう言うと、男はわざとらしく顎に手を当て、彼女の姿を頭からつま先まで見た。


「君の今日の格好、まさしく君らしくて素敵だ。パンツドレスなんて、とても目新しいものを見つけてきたものだ」


 パチッと小さく指を鳴らしつつ、かおるが身に着けている服を指さし、格好をつけるようにウインクした。


「君のために作られたような……女を毒蛾のように集めてしまうようなフェミニンな服装だね」


 そう言って、彼は自分の前に置かれたグラスを手に取った。

 そのグラスの中には、少量のワインが揺れている。


「でも……それは、本当の君なのかな」


 揺れる赤紫の液体を見ながら、彼は言う。


「僕は、僕は君のその"内側"が見てみたい。着飾らない、君をね」


 グラスにかおるの顔を映し出すように、男はそのワインを差し出してきた。

 その黒く、がらんどうにも見える瞳にかおるがどう映っているのか。

 その景色を、自らの瞳に映し返す気はさらさらなかった。

 努めて柔和に、しかし、欠片の様な鋭さを少し纏って笑う。

 円やかな女の顔ではない。宝石を纏った"女性"でいなければいけないのだ。


「私はいつだって、着飾ってなどいませんよ。ドレスを着ようが、スーツを身に纏おうが――」


「嘉賀かおるに、違いありません」





***





 アンティークにベルベット、ダークブラウンにはワインレッド。

 草花模様の絨毯では、ヒールの音は響かない。だが、耳心地のいい音は鳴る。

 アコースティック蓄音機から発せられる音楽は、煙草の匂いを彷彿とさせる。


「そんなわけで、帰りが遅くなったんだ」


 椅子の背もたれを抱えるように後ろ向きで座り、かおるは不貞腐れるようにそう言った。

 その視線の先には、水を変えた花瓶を持ったモダンガール。

 その花瓶をどこに置こうかと試行錯誤して、ようやくラジオの横に置いた。


「そう。随分としぶとかったのね」

「全くだよ。気がないことくらい、とっとと気付けってんだ」


 かおるがやれやれと肩を竦めるのを、モダンガールは横目で見た。


「全く見る目が無いよなァ。高貴さってのはにじみ出るのに。女男問わず」


 そう言って、かおるは彼女に目を遣る。


「なあ? 靜子お嬢様」


 煽るような表情を受けたモダンガール――宮西靜子は、目を細めてにこりと笑う。

 その赤味を帯びた口元が曲線を描くと、否が応でもその端にある黒子に目がいってしまう。

 そうすると、その表情の揃えられていることに気づく。次第に人は、彼女の目元を、耳元を、首筋を見る。

 それらの線は全て、琴の弦の如く整っていて、美しいと感嘆する。

 かおるが今座っている椅子に用いらたベルベットの様な質を、彼女に感じるのだ。


「そうね。貴女の"野性味"に気づけなかったその人は、全く見る目がなかったということね」


 彼女は花を一輪撫でる。

 艶のあるカサブランカを撫でるその指は色白で、傷の一つもない。凹凸も少ない。


 まるで自分とは違うと、かおるは思う。

 座り方、歩き方、仕草。着飾らないのだ、彼女はいつだって。

 しかし自分は着飾っている。歩くときはピンと背筋を張り、座る時は広げたい気持ちを抑え足を組む。

 手の動かし方は指導の賜物で、もとより得ていたものではない。言葉遣いは、最も気を遣う。


「そりゃあ、まさか嘉賀かおるが娼婦の腹から生まれたなんて、思ってもいないだろうな、あの男は」


 己の口角が歪んでいると自覚しながらも、かおるは笑った。




***





 私娼街の片隅、銘酒屋の不良娘の胎から、かおるは生まれた。

 どうしてそんな女の胎から生まれたのかは分からない。惚れた男との子供だったのか、何なのか。

 もはや生まれたのかも分からない人生を歩んでいたのに違いはない。

 炭売りのおじさんからわずかながらの飯を分け与えてもらい、何とか生きながらえていた。


 しかしある日、自分に食事を分け与えてくれたおじさんがいなくなった。

 聞けば繁華街に出かけているとのことで、もとより嫌気がさしていた私娼街を離れ、明るい街へとかおるは出た。

 頭に蠅を集らせた彼女に気を遣う人間などいなかった。まるでそこに存在していないか、石か草木程度にしか思われていないことは、幼いかおるにも理解できていた。

 ありつけた都会の残飯は、非常にまずかった。


 そんな、誰も気にも留めないような存在を、一人の少女が指差した。


「いけません、靜子」


 母親に手を引かれていた少女は、ただまっすぐとかおるを指さして言った。


「どうしてですか、お母様。犬は飼っても良いのに、なぜ人間をおうちに呼んではだめなのですか?」


 黒曜石のように、深く黒く輝く瞳を向けて、靜子はそう言った。


 そうして、かおるは宮西家に招かれた。




***





『どうか、その顔を上げるんだ。太陽は今も、君を照らしている』


 横隔膜を揺らすほど深くから声を張る。

 目は指先をとらえて、その先を見るように。


『君がこんなにも輝いていることを、僕はあの太陽よりも知っているんだ』


 差し出す手はゆっくりと、彼女の鼻先へ向けられる。

 たった一人のプリマドンナの彼女に。


『さあ、立ち上がるんだ、戦乙女ワルキューレ!』


 その迫真の演技に、プリマドンナであり観客の彼女は手を叩いた。

 静寂に響くその小さな喝采に、手を胸に当て西洋風にお辞儀をする。


「良い出来よ」


 その細められた目は、まるであの時から変わらない。

 深淵の黒が艶めいている。


「でもそう、戦乙女ワルキューレ。次の題材はジャンヌ・ダルクか何かかしら」

「お生憎と、守秘義務だ」


 凛とした表情を仕舞い、悪戯っぽくかおるは笑う。

 着飾らない彼女は、そうやって笑うのだ。

 そんなかおるのことを知るのは、靜子ただひとり。

 アンティークに囲まれたこの屋敷に住むのは、かおると靜子ただ二人。

 静寂に響くのは、いつもかおるの科白と、クラシックレコードだけ。


「そう、守秘義務、ね」


 目を細めて笑う靜子。それを見たかおるは、思わず身体を強張らせた。


(しまった)


 そう思ったのも束の間、襟口をぐいと引っ張られ、かおるは絨毯の上に膝をつく。

 途端に己より背の低くなったかおるの頭を、靜子の細い手は包み込んだ。


「あ……」


 かおるは顎を持ち上げられ、上を向く。

 左右対称の笑みを浮かべ、自分を見下ろす靜子の顔が目に入る。

 細められて黒く染まった目は、あの男のがらんどうの瞳に酷く似ていた。


「いい子。わざわざご報告をしてくるなんて」


 そう言って、白磁の様な指がかおるの短く切りそろえられた髪を撫でる。

 その手を振り払うことも、立ち上がることも、かおるにはできない。


「どこの馬の骨とも知れない男に触れられて……さぞ厭だったでしょう?」


 まるで寝癖を直すように、靜子の手は頭の上をなぞる。

 軽く触れられているだけなのに、身体は重しを乗せたかのように動かなかった。


「ちがっ……なにも、してない。本当に。ただ、酒を飲まされただけで」


 先ほどの科白とは打って変わり、口ごもるように言葉を羅列させた。

 言葉を聞いた靜子の手が止まり、緊張の糸が張り詰める。


「本当に?」

「本当、本当だ。だって、私は……」


 言いかけた言葉を吸いとるように、キスで口が塞がれた。

 辺りは、全くの沈黙に包まれる。


「でも残念。は信用していないの」


 舌なめずりをする彼女に、かおるは釘付けになる。

 口からは、言葉を失ったように、吐息のような声しか出なかった。


「さあ。どうすればいいか、分かるでしょう?」


 靜子はそう言って、かおるに触れていたすべての手を離し立ち上がる。

 その細い指を、首筋を、口元を、目で追わずにはいられない。

 魔法にかけられたように、彼女から一切目が離せなくなる。


「……っ」


 見えない首輪に繋がれたかおるは、天蓋から垂れ下がるワインレッドのベルベットカーテンを掴む。

 赤らんだ頬に、潤んだ瞳。

 全く"女"の顔をして、ベッドに腰かけた。


「いい子。いい子ね」


 同じ表情をした彼女の瞳に映るのが、本当の"かおる"であった。

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