帰ってきた縁戸津不動産

青木桃子

第1話 アキハ、縁戸津(えんとつ)不動産へ

 東京猫メトロ日々爪ひびづめ猫目黒ねこめぐろ駅の改札口から出た佐藤アキハ。期待と不安で震える手をギュッと握っている。駅に着いてようやく安堵の表情を浮かべた。


(とうとう憧れの都会にやってきた……)


 猫目黒にはお洒落なカフェがある。川沿いの桜並木を軽快に歩いてみた。


 アキハの実家は田舎だ。見渡す限り田畑が広がる。狭い人間関係――そして母。この春から猫目黒にある大学に通うので、春休みを利用して逃げるように家を出てきた。本来なら大学受験前に部屋を仮契約した方が効率いいのだが、直前まで一人暮らしか、親戚の家にお世話になるかで揉めていたので仕方ない。


(ネットカフェに泊って、お部屋探しだ)

 目星をつけている物件がある。問題は空きがあるかどうか。


 空を見上げると日没近い黄昏時。アキハはスマホを鞄から取り出し、良さそうなネットカフェを検索すると、地図アプリで目的地に「ナビ開始」をタップして、道案内してもらいながら、辺りをキョロキョロしながら歩きだした。


 案内途中で、着信音が鳴る。

 ディスプレイにかけてきた相手の名前が表示される。


 母からだ――。


 ゾワッ。虫酸が走る。アキハの体が震え、動悸が止まらない。頭が混乱した。


 その時――。急に霧がたちこめ、しばらくして消える。するとスマホの電波が弱いらしく母からの着信音が途切れた――。


 再び地図の表示に切り替わり、ナビが薄暗い細い道を指している。寂れた商店街の中に古びたビルの一角に不動産屋があった。人通りの少ない店舗が何軒も閉店しているシャッター通りの中、その不動産屋だけがポッと温かい明りがついていたので、アキハは救われた気分になった。


「ここって、TVCMで見たことのある〈chimneyチムニー〉の店舗かな?」

 チムニーは不動産販売や賃貸物件の仲介会社で、賃貸物件を中心とした情報サイトがある。特に学生など単身者向けの物件が豊富だ。


 古い看板の名前がかすれていてよく見えない。


「えーと、縁戸津えんとつ不動産? なんだ、チムニーじゃないのか……」


 しかもこの不動産屋は外見が古い。間取り図のチラシがガラス一面にたくさん貼ってある。その窓ガラスに貼ってある一枚が目に留まった。


「1LK、敷金・礼金ゼロ、ペット可、家賃が三万五千円⁉ うっそ!」


 新着物件と書かれたセピア色の手書きの間取りの張り紙。このアパートはいつの情報なんだろう。都会にしてはこの商店街だけ時代に取り残されたように昭和レトロっぽい。アキハは首をかしげる。


「――道に迷われたのですか?」


 気が付くとアキハの横に二十五歳くらいの背の高いスレンダーな女性が立っていた。白いシャツに黒のパンツスーツ。長い髪を後ろで束ね、目は切れ長で涼やか、モデルのようなはっきりした顔立ちの美人だ。


「あ……いえ、とりあえずネットカフェに入って、春入居可能なアパートを探そうかと思って。この場所ってどこですか?」

「まあ! 女の子お一人でお部屋探しですね! わたくし縁戸津不動産で受付をしております、お部屋案内担当の小路こみちと申します。物件ありますよ。よかったらどうぞ♡」


 ガラガラ……。建付けの悪い扉をスライドさせガラス引き戸を開けた。女性はにっこり微笑む。もう扉が開いている。断る雰囲気になく、アキハは縁戸津不動産で学生向けの安いアパートを探してみることにした。


 店に入ると、カウンターにはサルのぬいぐるみの〈モンチチー〉が置かれていた。アキハをカウンターに座らせる。


「モンチチーだ! かわいい。70年代に流行ったって聞いたー。今ね、友だちとお揃いで持っているの」

 鞄についたキーホルダーのモンチチーを見せた。


「ええ、キュートですよね」

 女性は一個ずつ包装された一口あられと、オレンジ色の大きな花柄の湯呑のお茶をアキハの前に置いた。


「この湯呑もかわいい。店内も昭和レトロ雑貨でいっぱいですねー。経営者か誰かの趣味なんですか?」


 入り口にはシャム猫の陶器の大きな置物、壁にアンティークな振り子時計がかけられ、棚には黒電話やレコードプレーヤー、木製のラジオ、陶器製の貴婦人の回転式オルゴール、天狗のお面等が雑多に飾られていた。

 山吹色のタイル風クッションフロア。白い壁にはオレンジ色の花柄、全体的に暖色系の店内だ。


「ええ、不動産の神さまは国土神クニノトコタチノカミですが……わが社は趣味ではじめた猿田彦…」

「なにかいいました?」

「あー……いいえ。何でもありません。こちらのタブレットにアンケートをお願いします」

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