呪いの器は平凡を許さない

ガリアンデル

第1話 暴力的回向 

 向又谷さきまだに


 G県の西部にあり、深い山と谷囲まれた山間にある小さな都市。俺こと〈天利あまり みのる〉はこの土地で神社の息子として育ってきた。


 特別な事なんて何もない田舎の町が俺は、好きでも嫌いでも無い。かと言って東京みたいな大都市も好きじゃない。


 平凡に生き、平凡に終われれば俺の人生としては充分。そんなささやかな願いを持つ俺だったが、ある日視界に妙なものが映るようになった。


 黒いもやの様な形の無い異質なモノが時折視界に現れる。決まってその靄は人の背後に付いていたり、トイレやトンネルの中央など特定の場所にたまっていたりする。


 平凡に生きる事を目標にしている俺の直感が〝あれは良くないモノだ〟と告げていた。


 あれに関われば俺の平凡な人生設計は容易く崩れ去る、と想像に難くなかった。



 そして、月日は俺の高校の入学式の日にまで進む。


 G県立向又谷高校。向又谷で唯一の高等学校であり、令和の今でも古き良き立派な木造校舎を維持している(教室に来るまでに何度か床が軋んでたけど)。


 生徒数は全学年合わせて200人ほど。


 田舎の高校にしては随分な数だとは思うけど、それには理由がある。それは昨年の事だ。向又谷に隣接している町や市内の高校のいくつかが土砂や地震などの災害で校舎の修繕が追いついておらず、そちらへ進学予定だった生徒が一時的に向又谷高校へと来ているからだ。


 そのせいもあり、向又谷の制服とは違う生徒も多々見かける。一年生の教室の半分くらいは本来は他校の生徒である事が一目で分かるくらいだ。

 

 ちなみに、その原因となった災害での死傷者は奇跡的にゼロだったらしい。しかも実際に修繕が必要なくらいの被害を受けたのも近隣の2校だけだったとのことだ。


 故にか、違う服装の生徒たちはこの束の間の非日常感を楽しんでいるようだった。



「よし、じゃあ自己紹介をしていくぞ」


 

 教壇に立つ清潔な身なりをした若い男の先生が名簿を開いてそう言った。


 自己紹介。僕の順番は、青木、相田、浅葱、の──次の四番目か。なぜ知っているかと言えば、この三人は教室に入ってすぐに席が近かったので先んじてお互いに挨拶して知り合いになっていたからだ。



「はじめまして天利 穂です。よろしく」



 俺としてはこれで自己紹介を終えたつもりだったが、先生が〝それだけ?〟という目で見てくる。取り立てて俺自身の事を言うのは嫌なので、ひとまず実家が学校の近くにある神社だという事を告げておいた。


 そして、自己紹介を終えると内容は聞き取れないものの一部女子生徒がヒソヒソと話す声がしていた。願わくば悪口でないことだけを祈って僕は瞑目する。


 俺の自己紹介が終わってから少しして、〝さ行〟の生徒の自己紹介になった。


 ちなみに俺は〝さ行〟が好きだ。何故なら平凡を願う俺にとっては欲しくてたまらない称号の一つがある。


 それは佐藤という苗字。


 日本で最も多いとされる苗字。


 勿論、佐藤の中にも何かに突出した人間はいるけど、佐藤はどこにいても違和感がないところが非常に良い。憧れる。口には出すまいが、自分が佐藤になるためだけに俺は佐藤性の人と結婚したいとまで思ってるくらいだ。


 

「じゃあ次、佐藤──あー、佐藤……よし、自己紹介頼む」



 先生が歯切れ悪く言って、僕の隣の女子生徒がゆっくりと立ち上がった。


「佐藤メグル……よろしく」

 

 眠たげに目を擦りながら気だるげな一言を発し佐藤メグルさんは自身の名を告げた。


 おお、憧れの佐藤さんだ。


 俺はふいに隣の席に視線をやって、その女子生徒の顔を見た。


 俺の抱いた第一印象は、彼女はひときわ地味で目立たない少女だと思った。


 全体的にくすんだ印象で、一見すると風景に溶け込んでしまいそうなほど存在感が希薄に映る。まさに理想の佐藤とも言える雰囲気に見えるが──どこか暗い印象を抱かせる。


 背丈は平均より少し低め程度だが、どこか肩を内側に入れがちな姿勢のため、実際よりも小柄に見えた。


​ 髪は、光沢を欠いた漆黒の長い髪を低いツインテールにしており、手入れが行き届いているようには見えず、その髪自体が、まるで負の感情の残滓を吸い込んでいるかのように、深い闇を湛えているかのようだ。


​ 着用している高校の制服は、向又谷の制服であるセーラーだが、サイズを間違えたのか丈が長い。そのせいか身体の線を拾わないデザインが彼女の姿をさらに地味に見せている。


​ しかし、その地味な外見の中にあって、一つだけ、見る者の目を強く惹きつける特徴がある。


 彼女の目はガラス玉のように澄んだ、鮮烈なコバルトブルーの瞳をしていた。


 感情の機微をほとんど見せないその瞳は、深遠な海の底か、あるいは澄み切った冬の空の色を思わせる。


​ 口元は薄く閉じられ、表情の変化に乏しいため、何を考えているのかを読み取ることは困難だ。


 まるで世界に対して無関心であるかのように、彼女の顔には常に冷徹で淡々とした空気が漂っていた。


 そして、彼女の背後から例の黒い靄が立ち上がるのを見て、俺は〝関わるな〟という本能に突き動かされるように驚いた拍子に椅子から勢いよく後ろへと飛び退いていた。



「人の顔を見て飛び退くなんて失礼では?」



 佐藤さんは顔を向ける事なく、黒髪の下から彼女の蒼い瞳だけが俺をじっと見下ろしていた。その小柄な体躯に似合わない冷たい威圧感を纏っていた。

 そして、視界に捉えた黒い靄が、背後で低く、重く揺らめいているのが見えた。驚いて飛び退いたのは、その〝悪いモノ〟の異様な濃度に本能が危険信号を出したからだ。

 だが、佐藤さんからすれば、俺が彼女の顔を見て怯えたと勘違いしてしまうだろう。



 さっきまでは見えなかった黒い靄が突然現れたので驚いてしまったが、佐藤さんからすれば自分に何か原因があると勘違いしてしまうかもしれない。 



「ご、ごめん! 足元に虫がいてつい……」 


 

 適当な嘘を吐いて両手を合わせて謝罪してみせると、佐藤さんは再度俺のことをじっと見たあと、つまらなそうに顔を背けて着席した。



 やばい。嫌われたかな? 初日から女子に嫌われたとしたら、平凡な高校生活を望むにしては最悪の滑り出しだ。


 

 一抹の不安をよそに自己紹介はその後も淡々と続き、やがて終わった。今日は授業はなく、このあとは様々な部活の見学を強制される。



 各々、目的の場所へと動き出し、知り合いも皆散り散りになった結果、現在僕はボッチになっている。


 そして、教室には俺と佐藤さんだけになっていた。しかも席は隣同士だし、なんか気まずくて動くに動けない。彼女は見るからに文化系っぽい雰囲気だけど、どこか見に行ったりしないのだろうか?


 

 気になって、横目でチラリと佐藤さんの方を見ると、彼女の蒼い瞳とバッチリと目が合ってしまった。またしても、彼女はじっと俺を見つめておりその意図が分からず余計に困惑する。 



 さっきの自己紹介の時のことが余程癇に障ったのだろうか……?



 意を決して、彼女の方へと体を向けてみた。



「あの佐藤さん、さっきの事まだ怒ってます……?」



 恐る恐る聞いてみる。



「気にしてないですよ。それより、天利くんは部活見に行かなくていいんですか?」



 こちらを見つめたまま、彼女は聞いてきた。

 なんで恥ずかしげもなく人の顔をそんなに見つめることが出来るんだ!?


 

 地味な風体だけど、佐藤さんはかなり顔が整っている。ボリュームのある黒髪のせいで暗い雰囲気を纏っているが、白い肌に大きな蒼い瞳、薄い唇。窓際で本なんか片手に黄昏ていたら、まさしく深窓の令嬢の様に儚げで美しく見えるだろう。


 

 そんな女の子に見つめられている自分としてはめちゃくちゃドキドキしてしまう。ていうか、もしかして俺のこと好きなのかな? 


 とか考えてしまっているが、正直言ってここまで個性的な女の子はいくら〝佐藤〟でもその異質さを中和しきれない。つまり彼女は〝佐藤〟の特殊個体、レア、突然変異なのだ────



「天利くん」



 そんな失礼な事を考えていたところ、佐藤さんに呼ばれて我に返る。



「は、はい!」



 不意に名前を呼ばれてついキョドってしまった。恥ずかしい。佐藤さんはその暗く澄んだ瑠璃色の瞳をそんな俺に向け続けていた。



「ボクは部活を見に行くのでそろそろ失礼しますね。サービスタイムは終了ってワケです」



「さ、サービスタイム? 何が?」



 思わず聞き返すと佐藤さんは眉を曲げてため息を吐く。そして、やれやれと肩を竦める。



「分かりませんか? ボクの顔に慣れて、次に会った時に驚いかないように、今、訓練してあげたんですよ」



 そう言い残し、彼女はスカートの裾を揺らして、淡々と教室から出ていった。後に残されたのは、彼女が纏っていたような冷たい空気の残滓だけだった。やはり彼女は平凡とは乖離した人物なのだと確信する。



 なるべく関わらないようにしたい。

 けど────



 俺は佐藤さんの後を追っていた。

 勘違いしないで欲しいが、決して一目惚れしてストーカーになったわけじゃない。



 彼女の背後で揺れていた黒い靄。

 〝悪いもの〟と俺が呼んでいる何か。

 あれは推定悪いものではなく正真正銘の〝悪いもの〟だと俺は知っている。過去に何度かあの黒い靄が付いた人が事故にあったり怪我をするような目に遭うのを見たことがある。



 だが、今日の「あれ」は、いつもの靄とは明らかに違っていた。



​ 廊下を歩く佐藤さんの背後を見つめながら、俺は眉をひそめた。



 普段の靄は、煙のように頼りなく漂うだけだ。しかし、今彼女に纏わりついているモノは、妙に粘り気があるように見えた。



​ まるでコールタールか、水を含んだ泥のようだ。



 彼女が歩くたびに、その背中の闇がボトボトと床に垂れ落ち、また吸い込まれていくような、不快な粘性を感じる。



​ それに、重い。



​ 実際には音もしないし、床に傷もつかない。けれど、俺の目にはそれが質量を持った鉛の塊のように見えて、見つめているだけで眼球が物理的に押し潰されそうな、奇妙な圧迫感を感じていた。



 どういう原理か分からないが、あの黒いのが付いている人には何かしらの不幸が訪れるのだ。



 あの黒い靄は怖いが、手の届く場所で防げる不幸があるならそれは防ぎたい。平凡で平穏な人生を望んではいるが、自分だけが平穏なら良いわけじゃない。周りの人達にも平穏に生きて欲しいと思っている。だから、多少怖かろうが不幸は取り除いてみせる。



 そうして佐藤さんの後をつけ始めた矢先、彼女は今は使われていない旧校舎の方へと歩み出していた。そんな所で活動している部活があったのか、と考えながら尾行を続ける。



 旧校舎は取り壊されずにただ残っているだけの場所のため、あちこちが腐食し、いつ倒壊してもおかしくない。よくよく考えればそんな危険な場所で活動している部活などあるわけが無い。



 旧校舎の廊下は窓ガラスが何枚も割れており、埃と湿気、そしてカビの臭いが鼻を突いた。外界のオレンジ色の光が途切れ途切れに入り込み、廊下の奥は常に暗く、まるで深い海の底のようだ。



 その時、床が軋み、ぎぃぃぃと大きな音を立てた。


 

 ──まずい!


 

 佐藤さんもその音のせいで立ち止まっていた。

 ゆらり、と彼女は体を揺らすと肩越しに瞳だけを俺の方へと向けた。その瞳は、教室で見たコバルトブルーよりも一層冷たく、濃い色を湛えていた。いつの間にか、彼女の右手には歪に捻れた木製の野球バットの様な物が握られていた。



 その威圧感に曝されて俺の体は硬直してしまっていた。とても十五歳の女の子が出すような空気じゃない。



 彼女と自分を挟んだ廊下の空気が、張り詰め、重く凝固していくのが分かる。



 猛獣、いや、それよりももっと恐ろしい。得体のしれない化け物がそこにいるのだと錯覚するほどの恐怖そのものが少女の形をして立っている。彼女の蒼い瞳は、こちらを冷徹に見定め、まるで〝獲物〟としてロックしたかのようだ。



 なんでこんな違和感、異質さを自分は見落としていた────?



 この時、​平凡で平穏という自らの人生のルールが、耳元で軋むような音を立てて砕け散るのを感じた。そして、自分が致命的な選択を誤ったのだと、直ぐに理解した。


 

 同時に彼女はこちらへと駆け出して来る────彼女についていた黒い靄。あれは、俺に不幸が訪れる兆しだったのか。そして、それは死という結果を以て訪れる。



 死にたくない!



 絶望的な速度で迫るメグル。その時、彼女の背後と、廊下の奥の暗闇が融合し始めた。



​ 「…ぁ、あ…」



​ 黒い靄が、色彩を持つ。圧倒的な非日常と恐怖が目の前にある。平凡と平穏に生きてきた俺ではどうにも出来ない現象。



「──早く逃げなさい!」


 

 佐藤さんがこちらへ駆け寄りながら叫ぶのを聞いて、俺は混乱の極致に達した。今、俺を殺そうとしていると思っていた少女が、なぜ俺の安全を願うのか?



 黒い靄は、濃密な鉛色コバルトグレイへと変色した。その質量が、旧校舎の廊下全体に広がり、空間を粘土のように重くしていく。佐藤さんが向かってくる廊下の奥の床、壁、天井が、歪んだ粘性の塊となり、俺と佐藤さんをこの〝旧校舎〟という空間に閉じ込めようとしている様だった。



「間に合いませんでしたか……〈力場〉が出来上がってしまいました」



​ 深い闇を背にして、俺と闇の間に滑り込むようにバットを握った彼女が俺の前に立つ。



 そして、そのバットを構えた佐藤さんの口元が、微かに、冷笑のように動いた。彼女の表情はすぐに無表情に戻ったが、その一瞬の暴力性を孕んだ笑みが、俺の目に焼き付く。



​「こうなったら付き合ってもらいますからね、天利くん」



 

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