第2話 呪いの代償
「来ますッ──!」
メグルの鋭い警告と同時だった。
旧校舎の廊下を覆い尽くした
壁、床、天井。全方位から迫りくるのは、質量を持った呪いの壁だ。逃げ場はない。物理法則を無視した圧殺の檻が、二人を飲み込もうと迫る。
「なっ!?」
穂が短い悲鳴を上げた。
だがその瞬間、メグルの蒼い瞳だけが、この世の時間を置き去りにしていた。
(――視えた。『右』『上』『左下』)
彼女の網膜に、物理的な攻撃よりもコンマ数秒早く、蒼い光の
〈残響の
「しゃがんでてください、天利くん!」
彼に指示を飛ばすと同時に、少女は黒いステンカラーコートを翻した。
迫りくる泥の壁。その隙間を縫うように走り
凄まじい質量が叩きつけられる振動と音が響く。
彼女がさっきまで立っていた空間が、呪いの質量によって圧し潰された。
だが、メグルは既にそこにいない。彼女は人間離れした跳躍力で空中に身を躍らせ、蒼い光がまだ走っていない安全圏へと着地していた。
既にメグルは手にした木製バットを構えている。
空気を裂く轟音とともに、メグルが振るったバットが繰り出される。
それは一見すると、古びて歪んだ木製のバットに過ぎない。だが、その表面は
岩盤同士が衝突したような、低く重い破砕音がバットと鉛色の壁の衝突によって響く。
叩かれた呪いの塊は、霧散することなく「ぐしゃり」と潰れ、一時的に動きを止めていた。
「な、なに……今の動き……佐藤さんってホントに女子高生!?」
腰を抜かしたままの穂が、信じられないものを見る目でメグルを見上げている。
彼の目には、メグルが未来を知っているかのように、攻撃が来る前に避け始めているように見えたはずだ。
「説明している暇はないです。この空間は既に〈
廊下の奥へと引っ込んだ鉛色の壁を指差し、メグルはバットを構え直す。その手にあるのは、養父・佐藤 重六から受け継いだ遺産。
強力な法力が宿る経典の原本を極限まで圧縮・捻り上げ、メグル自身から漏れ出す呪いでコーティングして強度を高めた、特製の〈呪装〉だ。
だが、メグルの表情は優れない。
粉砕したはずの呪いの槍が、ドロドロと溶け合い、再び鉛色の壁へと戻っていくからだ。
(……硬い。それに、この粘り気と土の臭い)
メグルは辟易していた。あまりにも手応えが無い。
通常、学校で発生する呪いは生徒の情念が核となる。だが、こいつは違う。何百年も積み重なった地層のような重圧を感じる。
(これは、都市伝説の類じゃない。……自然から発生するような積層型の呪いだ)
本来なら、鬱蒼とした山奥でしか遭遇しないはずの自然発生型の呪い。それがなぜ、旧校舎と言え現役の校舎の中に?
学校のプールに、深海の魚が放り込まれているような異常事態だ。
誰かが『持ってきた』のか、それとも――。
思考を遮るように、再び視界が蒼く染まる。
今度は全方位。逃げ場のない飽和攻撃の予兆。
「チッ……! 数が多いです!」
メグルは舌打ちし、バットを旋回させる。
〈残響の魔眼〉は『来る攻撃』は完璧に見える。だが、『どこを叩けば死ぬのか』という
このままでは、再生する泥を叩き続けるだけの消耗戦になり、いずれ限界を迎える。攻撃の予兆が連続で発生し、メグルの視界に無数の蒼い線が走る。
「手数はそれ程でもないですけど、何処からでも攻撃が飛んでくるのは厄介──ですね!」
メグルは苛立ち紛れに叫びながら、背後から迫る攻撃の蒼い軌道に合わせてバットを叩きつけた。メグルの背後では未だに逃げようとすらせず床に座り込む穂がいた。そして、彼が小さく「アレが本体……?」と呟くのをメグルは聞き逃さなかった。
「天利くん!」
突然、名前を呼ばれて穂は弾かれたように顔を上げた。
目の前では、メグルが黒い残像と化すほどの速度でバットを振り回し、全方位から殺到する泥の槍を弾き続けている。
「
怒号に近い彼女の声に、穂の思考が強制的に再起動する。
そうだ、見えている。
穂の視界には、この空間を埋め尽くす鉛色の泥の中に、明確な異物が見えていた。
「……逃げ……てる……?」
穂は、震える指で虚空を指差した。
「ちがう! そっちじゃない! 佐藤さん、中身が逃げてる!」
「は?」
メグルは怪訝に眉を顰める。
彼女は迫りくる泥の触手を、〈残響の魔眼〉が捉えた軌道に従って最小限の動きで弾く。
メグルが泥を叩き落とす度に重い音が連続する。余裕はない。だが、彼女は手を止めずに叫び返した。
「説明してください! 『中身』とは何ですか!」
彼女は、穂の言葉の真意を探るため、あえて攻め込まず、その場に踏みとどまって攻撃を捌き続ける。
「さっき佐藤さんが叩いた場所から、コールタールみたいにドロドロした重たい塊が、天井の方へ滑って逃げたんだ!」
穂の叫び声。
その具体的な情報の提示に、メグルの思考が繋がった。
ボクの眼は、攻撃の
敵の正体──つまりこの呪いを成している核さえ分かればメグルにとって最早敵ではない。
「場所はッ! 正確に指差しなさい!」
メグルがバットで泥の壁を打ち払い、視界を確保する。
「あそこだ! 天井の隅に、一番色が濃くて、重そうなのが溜まってる!」
穂が指差した一点。
メグルの目には、何も攻撃の予兆がない、ただの空間。
だが、彼の目には、そこに確かな「重さ」と「質感」を持った
(ただ呪いを視認出来るだけでなく、核を捉えられている? 呪いのディテールが見えているということですか? いや分かりませんね──天利くんの眼は異質。今はそれだけ分かっていればいいです)
大きく振りかぶったバットを泥へと叩きつけ再び
「また移動してるぞ、佐藤さんッ!」
穂の指差す場所が変わる。
その時、メグルの中で冷徹な計算式が組み上がった。
(ボクが攻撃を捌き、天利くんの眼が「
メグルは濡れたような黒艶を放つバットを握り直し、口元だけで微かに笑った。
「……やっとぶっ飛ばす算段がつきました」
ただの守るべき足手まといから、利用すべき武器へと、穂への認識が書き換わった瞬間だった。
「天利くん。その『重い場所』から目を逸らさないでください。ボクがそこへ、
メグルはそう言い放ち、穂の方を向いた。
「いやいや! 今さらだけど、佐藤さんって何者?」
「ただのカワイイ現役JKですが? 都会の女子高生の間では最近流行ってるらしいですよ、化け物退治。
メグルが無表情のまま空いた手で所謂〝ギャルピース〟をしてみせる。当人はカワイイと自称しているが、穂の目からはカチコミをかけに行くヤンキーにしか見えない。黒いコートとバットの威圧感が凄まじいのだ。
「う、ウソつけぇ! そんな女子高生がいてたまるか! うぅ、クソ俺の平凡な生活はどうなる……」
穂が頭を抱えて俯くと同時に鉛色の槍が穂目掛けて飛来する。
メグルはノールックでバットを振り上げそれを粉砕した。
「悠長に話してる場合じゃないですよ、しっかりしてください天利くん」
「えっ、俺のせい……って、ちょっ、待っ――!」
「ボクがやりますから、天利くんはしっかり見ていてください」
メグルは地面を爆発的に踏み込んだ。
コンクリートの床がひび割れるほどの踏み込み。黒いコートが翼のように広がり、少女の身体は砲弾となって垂直に飛び上がる。
迫りくる泥の津波。その全てに蒼い残響が走る。メグルはそれを紙一重で躱し、弾き、突き進む。その矛先は、穂が指差した天井の隅。
そこには、メグルの眼には何もない空間に映っている。
だが、メグルは構わず、全身のバネと遠心力を乗せて、バットを振り抜いた。
「――消えろッ!!」
金属音ではない。巨大な木槌で大鐘を叩いたような、腹の底に響く重低音。
経典を圧縮したバットが空中の「見えない核」を捉え、粉砕した感触が掌に伝わる。
次の瞬間、部屋中を埋め尽くしていた鉛色の壁が、ガラス細工のように一斉にヒビ割れ、砕け散った。
同時に、メグルの身体が空中でガクリと揺らぐ。
破壊された呪いのエネルギーが、バットの黒いコーティングを伝って彼女の身体へと逆流し、強制的に取り込まれていく。そしてバットを覆う艶のある黒も柄を握るメグルの手へと収束していた。
穂は見た。
着地したメグルの姿に変化はない。黒い髪も、白い肌もそのままだ。
だが、彼女が顔を上げ、窓の外を見た瞬間、その鮮烈なコバルトブルーの瞳が、どこか虚ろに沈んだように見えた。
〈力場〉が晴れ、旧校舎の廊下に、鮮やかなオレンジ色の夕日が差し込んでくる。
穂にとっては、安堵をもたらす美しい茜色。
しかし、メグルは眩しそうに目を細めることもなく、ただ淡々と呟いた。
「……ああ。
彼女の見ている世界からは、その
だが、その言葉の響きに含まれた喪失感だけは、痛いほど伝わってきた。
彼女は乱れた呼吸を整え、重いバットをスクールバッグに仕舞うと、呆然とする穂を振り返った。
「これで、旧校舎の案件は処理完了です。……さて、天利くん」
その瞳は、先ほどよりもさらに冷たく、感情を映さないものになっていた。
「あなたはもう、平凡な日常には戻れませんよ。ていうか戻れないでしょうね。あなたの眼は特殊過ぎます」
「俺の眼が特殊……? どういう事?」
「さっきの、見ましたよね。あれは〈呪い〉というもので普通の人には見えず、触れることも出来ない存在なんですが一定の強度・濃度に達した呪いは見えない人にも干渉出来る空間〈力場〉を形成するのです」
メグルは淡々と説明する。まるで、教科書を読み上げるように。
「隣町の高校が続け様に被害を受けたのも、恐らく〈力場〉のせいかと思います」
「それが、さっき俺たちが夜の旧校舎に閉じ込められた原因って事?」
「察しが良くて何より。そして、それらの〈力場〉は徐々に向又谷へと収束していってるみたいなんです」
「は、はぁ!?」
穂は理解が追いつかない。ただ、とんでもない事に巻き込まれたという予感が、実感を以て確信に変わっていく。
「だから、天利くん。あなたも
メグルは逃げ場のない事実を突きつけるように、静かに微笑んだ。
その笑みは、慈愛など欠片もない、獲物を追い詰めた捕食者のそれだった。
穂は思う。
夕陽を背負い、逆光の中で弧を描く薄い唇と、全てを見透かすような冷たい蒼。
地味で目立たないはずの少女が、この瞬間だけは、この世の理から外れた魔性の存在に見えた。
それは、触れれば壊れる硝子細工のように危うく、同時に触れた者を切り裂く刃のように鋭い。
――綺麗だ。
不謹慎にも、死の恐怖すら忘れ、その破滅的な微笑みに一瞬、穂は魅入っていた。
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