【短編】花咲姫は、魔導師様に嫌われています
malka
第1話 ”凍てつく瞳、徒花(あだばな)の熱”
王女リラ・アルテミスは王宮の温室で一人、蜂蜜色のふわふわとした髪を揺らし。自身の呪いのような魔導と向き合っていた。
「……咲いて」
祈るように囁き、固い蕾に触れる。
爆ぜるように薔薇が開花し。しかし、瞬く間に茶色く腐り落ちた。
足元には残骸の山。腐臭と甘い香気が混ざり合い、胸の悪くなる匂いが充満する。
「また……制御すら難しいなんて」
リラは汚れた指先を見つめた。
この国は今、魔獣の脅威に晒されている。民が求めているのは敵を焼き払う炎や、身を守る盾。花を咲かせるだけの能力など、平和な時代の見世物でしかない。
口さがない陰口はリラの耳にも届いていた。
『役立たずの姫君』
『花咲の道化』
その言葉は正しい。けれど、リラの胸を最も深く抉るのは、そんな有象無象の言葉ではなかった。
“あの御方に……シャノ様に、こんな姿を見られたくない”。
脳裏に浮かぶのは、氷で作られた刃のような女性の姿。
その名を思い浮かべるだけで、リラの胸の奥が熱く疼く。羞恥と、憧憬と、そして絶望的な恋慕。
自身の無力さを突きつけられるたびに、リラはあの方の『強さ』を思った。
シャノ・アストライア。
王国の筆頭魔導師であり、『氷の魔導師』と畏怖される麗人。王の愛を一身に受ける、リラの専属護衛の任をも授かった王国最強。
彼女は、リラとは正反対だった。
無駄なものを一切削ぎ落とした、機能美の極致。彼女が纏う魔力は絶対零度であり、彼女が歩いた後には霜が降りる。
そして、何より残酷な事実は――シャノが、リラを心底嫌っているという事。
◇ ◇ ◇
それは、数日前の回廊での出来事だった。
政務会議へ向かうシャノと、偶然すれ違った時。
カッ、カッ、と硬質なヒールの音が大理石の廊下に響く。その規則正しいリズムだけで、リラは心臓を鷲掴みにされたように立ち止まってしまった。
長い蒼銀色の髪を揺らし、漆黒のローブを纏ったシャノが歩いてくる。
その顔立ちは、神が氷から削り出したかのように端正で、人間的な温かみが欠落していた。
切れ長の瞳は、凍てつく湖面のようなサファイア色。
密かなコンプレックスと聞く低身長すら、完成された美の中にあっては、人知を超えた美しさを強調するに過ぎない。
リラは壁際に寄り、震える膝をドレスの下に隠して頭を下げた。
「ご、ごきげんよう、シャノ様」
精一杯の挨拶。無視されてもいい。ただ、同じ空気を吸えるだけでいい。
だが、シャノは立ち止まった。
リラの目の前で。
周囲の気温が急激に下がる。肌を刺すような冷気が、リラの薄い皮膚を撫でた。
「……臭う」
高く聞き心地の良いソプラノの声が、リラの鼓膜を震わせた。
かすかに寄せられた眉根。
「姫殿下。貴女の纏う爛れた花の香気……耐えがたい」
「あ……」
「傍に在るだけで、私の魔導式にノイズが走る」
冷徹な言葉の礫。
普通であれば、涙を流して走り去るところだろう。
だが、リラは違った。
まっすぐに、他の誰とも違って、自分をしっかりと見据えてくるシャノの瞳。その瞳孔の奥に、怯える自分の姿が映っている。
この国最強の魔導師が、ただの『役立たず』である自分を認識し、感情を動かし、言葉を紡いでいる。
たとえそれが『嫌悪』であっても、その鋭い視線が自分を貫いているという事実に、リラは背筋がゾクゾクと粟立つような悦びを感じてしまったのだ。
(ああ、なんて冷たくて……綺麗な瞳)
リラが何も言い返せずにいると、シャノは『時間の無駄でしたね』と吐き捨て、再び歩き出した。
彼女のローブが、意識せずに、追いすがるかのように伸ばしていたリラの腕を掠める。
それだけで、腕が凍傷になりそうなほどの冷たさに襲われた。
残されたリラは、一瞬で冷え切った腕を、自身の手で抱きしめるように摩った。
相反するように、熱い。顔が、身体が、芯から熱い。
「申し訳ありません、シャノ様……」
もはや誰もいない廊下で、リラは熱に浮かされたように呟いた。
嫌われている。疎まれている。
それでも、リラにとってシャノはこの世界で唯一、目が離せない『憧憬』そのものだった。
◇ ◇ ◇
温室の扉が開かれた。
激しい雨音と共に吹き込んできた冷たい風が、温室の湿気を切り裂く。
「……やはり、ここにいましたか」
リラは弾かれたように振り返った。
そこにいたのは、シャノだった。
彼女が足を踏み入れるたび、床の植物たちが恐怖するように葉を閉じていく。
「シ、シャノ様。どうしてこちらへ……」
「近道を通っただけです。……ン、不快な湿度です」
シャノは眉をひそめ、温室内を見渡した。
彼女の視線が、リラの足元――腐り落ちた薔薇の残骸で止まる。
「相変わらず、そのような事を。貴女はただ護られていればいい」
シャノが歩み寄ってくる。
逃げなければ、と本能が警鐘を鳴らすが、足が動かない。蛇に睨まれた蛙のように、リラはその場に縫い留められた。
床の残骸を避けるように、朽ちた花畑を凍てつかせながら。
「一瞬の彩りのために命を搾り取り、後には腐敗しか残さない。あなたの『花咲』は……ええ、見るに堪えない」
「私は、ただ、役に立ちたくて……」
「役に立つ?」
その冷たい疑問は、あまりに美しく、あまりに残酷だった。
彼女は手を伸ばし――リラの顎に触れた。
ひやり、とする冷たい指先。リラは思わず、小さく息を呑んだ。
「あなたのその『熱』が、私には毒なのです。不安定で、形がなく、まとわりつくような熱。……私の氷は永遠であり、完全なる静寂。あなたの存在は、その静寂を乱す穢れ」
シャノの指先が、リラの顎から頬へ、そして首筋へと滑る。
愛撫などではない。それは、獲物の急所を探る捕食者の手つき。
触れられた箇所に、火がついたように熱を感じる。
(殺されてもいい)
ふと、そんな狂気じみた思考がよぎる。
この美しい氷の魔導師の手にかかって死ねるなら、糧となれるなら、それは『役立たず』の自分にとって、最高の死に場所なのではないか。
リラは潤んだ瞳で、シャノを見つめ返した。
その視線に、シャノがピクリと反応する。
彼女のサファイアの瞳が、微かに揺れた。
嫌悪ではない。怒りでもない。
何か、もっと昏い――動揺のような光。
「……っ、その目をおやめなさい」
シャノは感電したかのように手を引っ込めた。
彼女は自身の右手を、左手で強く握りしめる。まるで、リラの肌の感触を拭い去ろうとするかのように。あるいは、残った熱を閉じ込めようとするかのように。
「……不愉快です。二度と、私にその媚びるような視線を向けないでください」
シャノは吐き捨てるように言い、逃げるように踵を返した。
黒いローブが翻る。
バタン、と扉が閉ざされる音だけが、温室に残された。
リラは、その場に崩れ落ちた。
心臓が早鐘を打って痛い。呼吸が荒い。
首筋には、まだシャノの指先の冷たさが、焼き印のように残っている。
「……動揺、なさっていた」
リラは、震える手で自分の首筋に触れた。
あんなにも冷徹で、完璧な氷の魔導師が。
リラの視線を受けた瞬間、確かに表情を崩したのだ。
ただの嫌悪なら、無視して踏み潰せばいい。けれど、シャノはリラに触れ、そして逃げた。
(私のせいで……あの方の氷が、乱れた)
その事実に気づいた瞬間、リラの胸に暗い炎が灯った。
それは清らかな恋心などではない。どうしようもない執着。
もし、私の存在があの方の『邪魔』になるのなら。
あの方の完璧な世界に、私という異物が爪痕を残せるのなら。
「……ふふ」
リラは涙を流しながら、歪んだ笑みを浮かべた。
温室の窓の外では、雷鳴が轟いている。
魔獣襲来の警報が、遠くで鳴り響き始めていた。
あの方を追いかけなければ。
たとえ嫌われても、拒絶されても。
この命を燃やし尽くしてでも、あの方の氷の中に、私の熱を刻み込んでやる。
リラは立ち上がった。
その瞳には、もはや怯えの色はなかった。あるのは、魔導師を愛しすぎた姫の、覚悟という名の狂気だけだった。
※※※ ※※※ 作者後書き ※※※ ※※※
拙作をお読みいただき、ありがとうございます。
本作は3話で完結します。
続きが気になる方、是非、作品フォローをいただけますと幸いです。
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