第3章 空を飛ぶ少女
大地に寝そべって空を見上げる。
青い空。白い雲。風で流れていく雲の行方を追って視線だけを動かす。
そうするとふつふつと恐怖が芽生えてくる。
普段は立って見上げる空と違って、自身が空に向かって落ちている感覚に陥る。
怖い。恐ろしい。
落ちてないくせに落下時の浮遊感と、空気圧で身体を押し潰される感覚はしっかりと感じる。
※
姉は優しくて、明るい人だった。
いつも周りを笑顔にさせ、学校で嫌な事があった私を励ましてもくれた。とにかく太陽みたいな人。
母は私が産まれてすぐに亡くなった。
だから父は、男手ひとつで私達姉妹を立派に育ててくれてたと思うのと同時に、色々心配させて申し訳なかったとも思う。
いつも優しくて、かっこいい父。その中でも父は、特に姉に信頼を寄せていた。
明るくて、それでいて頼りにもなる姉は、母親が居なくなった家の代わりというに相応しい。
そんな姉が十年前に失踪した時、ついに私達の家が崩壊した。正確に言うと、父が壊れた。
妻を失って、悲しむ暇もなく遺された娘達を育て、弱音も吐かずそれでいて余裕のあった父。
実はそれが表面上の表情なのは、幼い私にも理解出来ていた。夜な夜な、母の仏壇の前に座る父は、涙を見せずとも不器用な作り笑いで母に話しかけるその声がとても悲しそうだったから。
限界だった父の心は、突然の姉の失踪で完全に崩壊した。
初めの一年は、諦めるかと私と一緒にチラシを配ったり街中を探し回ったりした。
でも、二年目にはやつれた父を見るのが苦しくて私も家に帰らないようになった。
そんな私を父は探そうともせず、ただずっと母と姉の遺影を抱いて公園のベンチによく座っていた。
あぁ、私じゃお父さんの心は埋められないのか。
理解できた真実はとても苦しくて、悲しくて。
まるで別人のように細くなった父を見て、私は静かに涙しただけ。
得意としていたはずの仕事も休みだし、家に引き篭るようになった。次第に生活もままならなくなり。結果、父は自殺し、独り遺された私は細々と生きるしかなくなった。
母は病死。
父は自殺。
そして姉はーーー奪われたのだ。
皆が知らないこと、私は真実を知っている。
『私の家族は、あの空の大地に奪われた』
この世界の現象で、皆が体験するであろう十年に一度の世界。
あの日姉が失踪した理由。止めることの出来なかった姉の失踪という事象を、私は否定したい。
だからこそ、私は自らを許さない。
だからこそ、私はあの空を許さない。
そう、全ては、あの空に写る大地への復讐のため。
「私は、あの向こう側の世界を壊してやる」
心の奥底で眠っていた黒い塊は、外へ漏れ出した。
1
夜が明け、目を覚ましたソラは、真っ先に昨夜の浮遊?について確認することにした。
と言っても、確認方法は無い。強いていえば鼻が痛いくらいか。
「夢……?にしてはリアルな感じだったなぁ」
休日であるにも関わらず、ソワソワして午前七時に起床。普段ならあと二時間は時間は眠っているはずなのに、と後悔する間もなく、思考は昨晩の事象へ集中していた。
「身体に異常は……無し。羽も生えてないし……むむぅ……超能力は目覚めてなさそうだなぁ」
某ハンドパワーを真似てみるが、目覚まし時計が浮遊するこはなかった。しかし、妙に胸元がぽかぽかしているのは、きっと朝起きたばかりの体温のせいではないだろうが、これもまた証明する術がない。
心做しかの興ざめ感を感じながらも、そうして昨夜の事を思い出す。
あの浮遊の理由は分からない。何がきっかけとなったのか、そもそもアレは夢?とも考えながらも、しかし明らかに夢ではないと思いはあれど、もう一度体験しなければ確信には至らない。
思い返す。
「確か……空飛ぶ人をイメージしてた」
夢現の境目で見たイメージ。十年前見た空飛ぶ人が脳裏に過ぎる。
「…………うぅん、なんか違うなぁ」
空飛ぶ人を見る自分。それを第三者目線で想像するが、やはり何かが違う。
であれば、と思考を巡らせるがコレ!というものは見つからない。そうこう考えている内にお腹のベルが鳴り始めた。
「ダメだ……朝ごはん食べよ」
未だふわふわと眠るソラリンを置いて、ソラはリビングへと向かう。
「あら、珍しく早いのね。夏休み初日なのに」
何とも遺憾な返事をくれたのは母である。
確かにこれまでの夏休み経験では、初日こそ昼まで睡眠!なんて意気込んでた訳で、母からの反応は正しい。
「おはよ…………」
返事をしながらリビングを見る。
どうやら父は既に出勤しているようで、午前八時のリビングにはあまり見かけないニュース番組が放送されていた。
「お父さんならもう出たわよ。全くもう……」
「…………」
食パンを焼きながら、ソラの心境を悟った母は言った。
それなら、と安心するソラであるが、どうせ夕方にはまた顔を合わせると考えれば胃が痛くなる。
「お父さんだって、ソラが嫌いであんなこと言ってる訳じゃないんだからね」
「分かってるよぉ……でも、頭ごなしに否定するのは違くない?私だって勉強大事なのは分かるけど」
「それなら一度くらいちゃんと話してみたら?どうせ理解されないって拗ねるのは、大人としてどうかと思うわよ」
はぁ、とため息混じりに語る母は正しい。
この数年間、ろくに父と話をした事が無く、否定されては臍を曲げるの繰り返し。
一度、会話をしようとしたけれど、やはり何か気に食わずにチャレンジは失敗した。
ソラ自身、父が嫌いなわけではない。優しい人だし頼りにもなる。約束だって、どんなに小さな事でも覚えていてくれるし、お小遣いだってくれる。
しかし、今自分の興味を最高潮に惹く空写について否定されるのは気に入らない。
話題を出しただけで、あの反応は必ず何か隠しているだろうし、それについて話してくれない父にも問題があると感じる。
どうあれソラと父の溝は深まったままで、この先きっかけでも無ければ修復はしないだろう。
「……そいえばお母さんはさ」
朝から暗い話題はお断りだと、ソラは話題を変えることに。
「人が空を飛ぶってどう思う?」
変えるつもりだったが、結局空写の延長線上の話題。
まあしかし気にしない。
突飛押しもない内容に、何か驚き目を見開いた。そして母は困ったような顔を浮かべながらシンクの食器を洗っている。
「何?急に?パイロットにでもなりたいの?」
「違うよ……友達にさ、昔空を飛ぶ人を見たって言う子が居て、それで気になったの」
まさか自分の体験です。とは言うのも恥ずかしく。脳内にリサを思い浮かべながら、母へと説明。リサごめんね。
「お母さんだって、空なんか飛んだことないから分かんないけど、もし仮にそういうことが出来るのなら、それほど楽しそうなことはないわね」
「楽しそう?」
「そりゃあ勿論よ。空飛べたら仕事行くのだって車使う必要無いし、お父さんと喧嘩しちゃったら気晴らしに空飛べばいいし。あぁ……でもちょっと危ないわね、下着とか気を付けないとだし」
それはソラにとって想定すらしていない回答だった。
てっきり父と同じく否定されるものかと思っていたが、こんなにも楽しそうに語られるとは思ってもみなかった。
そしてそれ以上にソラが気になったのは、
「お母さんとお父さんって喧嘩するの?」
「するわよそりゃ〜!」
「……まじか。てっきり万年ラブラブのおしどり夫婦かと思ってたのに」
ソラの知る限りで父と母の喧嘩は見たことがない。勿論、寝ている時やソラが不在の時は分からないが、だとしても二人は何時も仲睦まじく見えていた。
「ソラはまだ経験ないだろうけど、例えラブラブでも喧嘩はするものよ」
「そうなの?」
「恋人って言っても、他人と他人。必ず全ての歯車が合うわけじゃないんだし、意見だって食違うもの。お父さんにとって最善でも、私から見た時は最悪なんてことはしょっちゅうよ」
まだまだ子供ね。と母はソラに向かってイタズラな笑みを見せて続けた。
「でも、だからこそ話をするの」
「会話ってこと?」
「そう。面と向かってでも、同じ布団に並んででも、何でも良いから話をする。話題は小さな事でもいいわ、そこから笑ったり、意見をぶつけ合ったりして、そうすれば気付いたら話したかった事を議論してて、また気が付いたら解決してるの」
「……へぇ」
「まあ、一方的に話すだけだとただの口喧嘩だけどね」
食器洗いを終え、エプロンで手を拭きながら椅子に腰かけた母。
食パンを頬張るソラの頭を優しく撫でた。その手が不思議と温かく、大きなモノに包まれている感覚を覚える。
「ソラだって、本当はぶつけたい気持ちがあるのも知ってる。そしてソラが色んな事を考えてるのも。でもだからこそ話をする事が大事なのよ?」
「……」
気付けば話題は、父との問題へと。
「大丈夫よ。どんな内容でもお父さんはソラを嫌ったりしない。ソラはただ、色んな人に愛されてる事を知ればいいの」
優しい澄んだ青空のような言葉がソラを包み込む。
母は偉大というが、まさにこの事かと初めて理解した。こんな話を聞けば父と話す気にもなるが。
「……うん、でもタイミングは自分で見付けたい。私も何時までもお父さんと溝があるのはヤダし、また昔みたいに一緒に遊びにだって行きたいもん」
心の整理は必要。何時になるかは分からないが、その時は自分から行動すると決めている。
「……分かった」
「お母さんありがとう。大丈夫、何とかするから」
未だ解決後の自分を想像出来ず、自信無さげなトーンになったが、必ず仲直りの約束を結んだ。
そこから母との日常会話、朝食を済ませてソラは私服に着替えて部屋に戻った。
ちなみに今日のコーデは白シャツにジーパンと、カッコイイお姉さんスタイル(ソラの脳内より)
部屋に戻ると、ソラリンが退屈そうに室内をクルクル回りながらふわふわと浮遊していた。
「ごめんね、忘れてたわけじゃないんだけど、話に花が咲いちゃって」
えへへ、と謝るソラにソラリンは気にしてないと言わんばかりのモフモフ攻撃。危うく息が出来ないところだった。
「さってと!!今日はお散歩しよっか!」
「(ふわふわ)」
夏休み初日。せっかく早く起きたのだから膨大な宿題の前に、気分転換の散歩は必須だ。
ソラリンを頭に乗せて階段を駆け下りる。リビングに居る母に「散歩してくるね!」と一言伝え、返事を待たずに玄関へ。
ガチャリ、と扉を開ければ夏の暑い日差しがあっという間にソラを包み込む。
「今日も晴天だな〜」
夏を象徴する空に浮かぶ大きな入道雲。そしてその後ろに薄らと写る広大な大地。
朝のニュースで言っていたが、気温はひるにかけて30度近くまで上がるそうだ。
「ソラリン暑くない?」
「(ふわふわ)」
「頭の上に居たら余計暑いような気もするけど。まあいいか」
この猛暑に対してソラリンは特に何も感じていない様子。
ソラもまた特に気にすることなく、一階へ降りて歩き出す。
「あらソラちゃん!おはよう」
最近聞き覚えのある派手な声。同じ団地に住む渡辺さんである。
「おはようございます!今日も暑いですね〜」
「昼になったらもっと暑くなるわよ〜。ソラちゃんもお肌のスキンケアしっかりしないと、大人になってシミになるわよ」
「大丈夫です!日焼け止めは塗ったので!渡辺さんは今日はどこへ?」
「そうそう!実はねーーー」
そう言って渡辺さんは、いけない事をしている子供のようにヒソヒソとソラへ耳打ちで話し始めた。
「昨日話した、女の子一人遺して家族が居なくなったって話。あの女の子がこの街に帰って来たみたいなのよね」
「へ、へぇ〜」
相変わらず、そんな情報何処から手に入れてくるのか。しかも昨日の今日だなんて。まるで街中に監視カメラでも設置しているのか?と思うくらいの情報収集能力である。
「それでね、私これからその家に行ってみようと思うのよ〜。ってことでね、バイバーイ」
ヒラヒラと手を振って渡辺さんは消えて行った。まるで台風のように過ぎ去る時はあっという間に消えてしまい、ソラは手を振って見送るだけだった。
「相変わらず凄いな〜渡辺さん………………?」
そこで言葉が止まった。
何かを忘れている。
「ーーーーー」
当たり前のように外へ出てきて、当たり前のように人と接して、その中でソラは何かを忘れている感覚を覚えた。それ即ちーーー
「ーーあっ!ソラリン!!!」
すっかり忘れていたが、ソラの頭にはソラリンが鎮座している。
当然のように母と話をして、当然のように渡辺さんと会話をしてすっかり忘れていたが、ソラリンという謎生物について誰も触れていないのである。
見えていなかった?と考えるが、それはソラリンのサイズ感が否定する。両手で抱きしてめも漏れてしまうふわふわだから、間違いなく気付くはずだ。
「ってことは、もしかして他の人にソラリンは見えてないの?」
「(ふわふわふわ)」
ソラリンはふわふわとソラの髪の毛で遊んでいる。
そうとなれば。とソラはズカズカと歩き始め、少し人通りがある道に出た。車両の通行と通行人が数名。この中で歩いていれば必ず皆が気づくはずーーー
「ーーーーー」
暑さのせいか額に薄ら汗が滲み、心做しか心臓の鼓動が早い。
「………………」
「はいもしもし?」
「昨日のドラマがねー」
結果は渡辺さんと同様だった。
「皆、ソラリン見えてないんだ……!」
これでソラリンがソラ以外に認識されていない事が証明された。
ソラの横を通る人は、頭上のソラリンなど気にも止めずに素通りして行く。
魔法?それともソラの幻覚か。
様々な可能性が脳裏を過ぎるが、ソラリンは間違いなく存在している。それはソラ自身が頭の重みで感じている事であり、触れた触感だって本物だ。
「ソラリン、あなた何者なの?」
頭に乗っていたソラリンを両手に持って、ソラは今更ながらと若干の恐怖を抱く。
昨日夕方に出会ってから、空写のことで頭がいっぱいだった為に最も重要な視点が欠落していた。
それが今この場において文字通り身に染みて理解。
目の前の正体不明のふわふわへの疑念が過ぎる。
「あなた一体、何処から来たの?」
回答が無いことは百も承知。だが確認せずにはいられない恐怖がソラを支配していた。
「ーーーーー」
「っ!!」
その黒い視線は恐怖で固まるソラの背中を真っ直ぐに突き刺した。
「……!」
ソラの正面視線の少し先、年齢はソラと同い歳くらいか、黒いストレートの女性がこちらを見つめている。
当然だった。
傍からは見えない何かと会話をする女の子なんて、周囲からは変人と思われるに違いない。
ソラリンへの恐怖が消えて羞恥が湧き上がってくる。
「!!!」
ソラは迷うこと無く走り始めた。
無意識にソラリンを脇で抱えて全速力で駆け出す。それはまるで、得体の知れない恐怖、それに覆い被さった羞恥と共に振り払うようにして風を切る。
炎天下の下など関係ない。ただ一刻も早くこの場から、この複雑な心境から逃れたいが為に走り続けるーー。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
どれくらい走ったのか。
気付けばソラの足は、昨日ソラリンと出会った公園で足を止めていた。遊具と砂場には数名の早起きな子供達が遊んでおり、ベンチには昨日見た老夫婦の姿も。
「(ふわふわ)」
息を整えるソラをソラリンは浮遊しながら見守る。
流石に真夏の中全速力はしんどいものがある。Tシャツは汗で濡れて肌にへばりつくし、ズボンだと足に溜まった熱が中々逃げない。
「これなら、、スカートにすれば良かった……はぁ、はぁ」
公園入口に設置してある水飲み場で水分を補給して、ある程度体力が戻ったソラは、浮遊するソラリンに目をやる。
くりくりとしたソラリンの丸い瞳を見つめ返した瞬間、胸の奥で昨日感じたあの温かな光がよみがえった。
眩い白い光に包まれ、その中の温かい何かに触れた。そこで感じた“お願い”という感覚。
これが誰のものか分からない。だが、ソラはメッセージを受け取り、ソラリンと対峙することで認識した。
「私はソラリンが何者なのか分かんない」
右手でそっとふわふわへと触れる。
「きっとこの世界の生物じゃないんだろうし、何か訳があってここにいるんでしょ?」
触れたふわふわは柔らかく、どこか温かい。
「きっとこれは運命なんだろうね。他の人には見えないあなたが、私の所に来たのは、何かの巡り合わせなんだと思う」
全速力で走ったせいか、それもと炎天下の運動による発汗のせいか、いつの間にかソラの恐怖心は体から流れ出ていた。
そのおかげか、今は思考がクリアになり、心の底から感じる言葉が口から発せられる。
「あなたが家に帰れるように、私手伝うよ。だからこれからよろしくねソラリン」
ニコッと、フルスマイルでソラリンへと笑いかける。それを受け取ったふわふわは、どこか嬉しそうな面持ちで宙でくるくると回りだした。
「あはは、そんなに嬉しいの??」
「(ふわふわ!)」
帰路への希望が見えた為か、それとも別の意味合いなのか、ソラリンは嬉しそうに回り続ける。
一通り歓喜の舞を繰り広げ、ソラリンは思い付いたようにしてソラの髪を口で挟み上へと引っ張る。
「え?なになに?どしたの?」
いいから見て!と言わんばかりの行動にソラは戸惑うが、誘われるまま満天の青空を見上げた。
ソラは息を呑んだ。視界いっぱいに広がる青。
それはただの空ではなく、どこか“遠い世界への入り口”のように見えた。
「……ぁ」
その時、ソラの脳裏にあの日の記憶が蘇った。
十年前の空写最終日。紅蓮の空を駆け上がっていく人影。まるで空に吸い込まれていくようにして消えたソレは、ソラが空写を意識するきっかけとなった出来事。
「そうだ、私あの日感じたんだよ」
記憶と共に蘇るのは、鮮明で新鮮な好奇心と確信。
「……私はあの空に行けるって。あの空に手が届くって、確かに感じたんだよ」
右手を空へ掲げて手を広げる。物理的に近付けない空だが、何故か手が届く。今ならその確信があった。
ドクンッーーー
再び、昨夜と同じく心臓が高鳴った。
だがひとつ違うのは、その鼓動に苦痛など無くて、代わりにその心臓高鳴りはソラへ知らせる為の鐘だった。
「ぁ………」
脳裏に駆け巡る情報。数分のようで一瞬。まるで瞬きみたいな時間の中、知らぬ誰かから与えられし力を、ソラは直感で理解した。
それはまるで、誰かに背中を押されたような感覚によく似ており、思わず身体が前によろける。
「………これって……まさかソラリン、そういうことなの?」
直感で理解。続いて身体も理解したその情報に、ソラは戸惑いながらソラリンを見つめる。
対する空からの使者は、ふわふわとしたまま浮遊し、今か今かとソラを待っていた。
「分かったよ、私ーーーーー」
握りしめた指先が微かに震える。ソラはゆっくりと息を吐いた。
そして静かに瞳を閉じた。
瞳の向こう側の暗黒。そのさらに先にある光へ手を伸ばすイメージ。
姿勢を正して、より深く深呼吸。
身体に触れる風を受け入れて、右手を胸に当てる。
ドクンッ、ーーードクンッ、ーーー
大丈夫。そう心に言い聞かせて、ソラはカッと目を見開いた。その瞳ー瞳孔の縁が水色の光で囲われ、今まさにソラの力として振るわれる。
「ーーーーーーー」
心に浮かんだ言葉。これがきっと合図となる。その情景は綺麗な青空を飛び回る鳥のように自由で、愉快で、美しいーーー自身もそこへ向かう為の翼を今、広げる。
さあ飛べ!行くんだ、あの空へーーー!!
その瞬間、世界が止まったような静寂がソラを包み込んだ。誰も居ない、何も居ないただひとりの世界。
ソラは息を吸い込み、凛として声を放ったーーー
「フライハート!!!」
反響音のように響いたその声に共鳴して、ソラの身体に浮遊感が襲い掛かる。
「ぁ、、えぁぁ!!!!?」
突然の衝撃に思わず叫んでしまう。
当然だ、何せ先程まで立っていた大地が一メートル程下にあるのだから。
「と、飛んでる!?私、ぇえええ!??」
思考が追い付かないどころか過ぎ去っているみたい。
先程まであった地面の感覚が無くなり、今はあの空へと向かって進みそうな勢い。
脳は何を考えても正常に機能していないのが分かる。バタバタと手足を動かし、何とかバランスを保つ。
ようやくの試行錯誤の末、何とか空中で直立することに成功。だが、未だにこの浮遊感には慣れていない。
「これ、一体どうして………」
自らで発動したはずの力だが、それに対してソラの現実性がまだ否定をしている。
人が空を飛ぶなんて有り得ない。かつて目撃したあの女の子の姿はあれど、心のどこかで否定していた現実を今この瞬間に突き付けられて、どうしていいか分からない。
だと言うのに、ソラリンはふわふわとソラの目線の高さまで浮かび、またもや嬉しそうに喜びの舞を披露している。
「ソラリン、私大丈夫なのかな?」
大変嬉しそうなソラリンを見て、心が落ち着いたソラは、小さく笑いながら自らの変化を確認した。
そうして、先程脳裏を過った力の説明書を思い返し、ソラの身体からフッと力が抜ける。
「これが、フライハート」
“フライハート”
ソラが名付けた訳ではないこの魔法は、遥か昔より存在する古の魔法。飛ぶことを許されない人間に与えられた唯一の翼であるが、しかしその真価は別にある。
「(ふわふわ)」
ソラリンは澄み渡る青空を指差し、行くぞ!と意気込んでいる。
「………まさか、行けるの!?あっちの世界に!?」
良かった、今まで色んなSFファンタジー小説を読んでて!ソラリンの行動と、今浮遊しているこの現状が、一気に結ばれる。
「あ、、でも待って!これって皆に見られたりーーーー」
人が空を飛ぶなんて有り得ない。普通の人間なら、そう思いソラを追い回すに違いない。
だが、周囲を見渡しても、公園内の人々は皆、ソラに見向きもしていない。
それどころか、ソラの存在すら認識していない雰囲気だった。
「ぁ、これってソラリンと同じ感じのアレってことか!」
アレが具体的に何かはソラ自身も分からないが、とりあえず人に目撃される心配は無いそうだ。
つまり、フライハートの状態では人から認知されないということが分かった。
それならばと安心したソラは、空を足場に全身に力を込める。
ソラは数秒間の浮遊の中、少しだけ分かった事があった。浮遊ーもとい空を飛ぶことは、水泳と似ている。
水中では水の抵抗があるのと同じように、空気にも同様の抵抗がある。普段は重力により縦の移動が出来ないが、フライハートによる飛行は、その重力を限りなくゼロにしている。
それにより可能となった飛行は、薄く広がる空気の壁を押し退けて空高くへ押し上げさせているのだ。
それはまるで、水の中で前に進む為に手足をもがくのと同じである。
その感覚を一度でも掴めば、あとは身体で覚えるだけ。だが、これこそがソラの潜在能力を限界まで発揮させることとなる。
「……行くよ」
グッと、身体に力を込めて、一気に解放ーーー
ヒュンッ、と耳を掠めた風を切る音は刹那的で、ソラの視界に映るのは高速に早送りされた世界。
身体と共に心臓を突き上げられる感覚は、多少の気持ち悪さを感じるが、それよりも視界を過ぎ去る膨大な青が、ソラの思考を絶頂させた。
頬を掠める風は冷たく、不思議と目は開けたままいられる。呼吸をすることを忘れて、ソラは飛行へと没頭する。
先程までの些細な恐怖はまさに地上に置いて来た。
ここまで空を駆け上がるのが、ここまで青を切り裂くのが爽快だなんて、一体誰が教える事が出来ただろう。
気が付けばソラの身体は、文字通り空高く青空と白い雲の狭間まで突き抜けていた。
「やばぁ!!!」
第一声は大興奮の歓喜。
いつの間にかソラの頭に掴まっていたソラリンも、停止した宙で浮遊してくるくる回っている。
「すごい……ここが……」
辺りを見渡す。
一面の青空。足元に広がる薄い白はまるで柔らかな絨毯。太陽の光が一際強く感じる。
「これが、あの人が見た世界なんだーーー!!」
十年前、ソラが捉えた空飛ぶ人。彼女が見たであろう景色を、時を経てソラ自らが体験している。
これ程までに感動的なことがあるだろうか。
これ程までに心躍る爽快なことがあるだろうか。
美しい青空の大海原。
手を伸ばしても届かなかった世界が、今目の前に広がる。
「私、空飛んでる!!!!!」
太陽の下、無限に広がる青でソラは歓喜を大声で叫んだ。
◇
夏休み初日。子供達が賑わう公園から飛び立った彼女を、長い黒髪の少女は公園入口から見ていた。
……有り得ない。そう思った。
真夏の青空へ飛び立つ姿は、彼女ー黒羽ミオにとって文字通り目を疑う光景だった。
“人が空を飛ぶなんて有り得ない”
否、そんなありきたりな事じゃない。
何故、何故だ。
なんであの子は、姉と同じ力を手にしているのだ。と。
あの力の波長と彼女の瞳に映った水色の紋様。そして極めつけはーーーー
「アレだ……アイツが、お姉ちゃんを奪ったんだ」
あの日から、あの白いふわふわが姉を奪ったーーそう信じて疑わなかった。
何せアイツは十年前、姉と共に行動し空写最終日に姉と共に姿を消したのだから。
恨み辛み、憎しみを瞳に宿してミオは右の拳を握りしめて空を睨みつける。その先に広がる青空は今日も綺麗で壮大な青。
ミオの右手の中には、ソラと同じ翼の紋様が刻まれた琥珀が握られていた。
握りしめた琥珀の奥で、同じ翼の紋様が淡く光を宿していた。
それはまるで、失われた過去と今を繋ぐかのようにーー
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