左のつぶて
朝吹
ホニャララの帽子
冬の抜け殻の面影を残して桜が下界から飛び去り、若葉がやがてくる暑さを眩しく予告するそんな休日におきた出来事でございます。
ふらふらと街歩きをしていたわたし、閉店セールに出くわしました。
ホテルに隣接したその店舗、駅に向かう道筋にあるので長年なんとなく視界に入ってはおりましたが、縁のないお店の一つでした。
そうか、閉じるのか。
気まぐれを起こしたわたし、そのインポート店に入ってみることにしました。閉店セール中ということもあって店内には大勢の人がいて、常よりは入りやすい雰囲気だったのです。
観光地や繁華街ではよく閉店セールを謳いながらも年中営業している店がありますが、それとは違い、倉庫から在庫を出し切っている感がありました。棚に張られた値札をみると、ブランド品がけっこう大胆に割引されています。
完全なる閉店セール、出来るだけ売り切って店をたたむ、そんな気合がひしひしと伝わります。
わたしが店に入った時刻は夕方近く、その日が営業最終日、店側は本気の売り尽くしラストスパートに入っておりました。
ブランド品というものに対して、皆さまはどのようなイメージをお持ちでしょうか。わたしは、「作りがしっかりしていて、趣味のいいものなら、あれば嬉しい」という程度でございます。特定のブランドに沼ったこともございません。小沼程度ならば、昔、毎月の給与から一定の金額を割いて北欧の陶器人形を集めることに凝っていたことがあるのですが、それらの大半は東日本大震災の際の横揺れで割れてしまい、以来、さらに縁遠いものとなっております。
さて、お店です。棚の多くが既にがらんとしております。狩り尽くされた寂しい隙間を埋めるようにして置かれているのは仕入れの際にまとめ買いをしたと思しきセカンド・ブランドの小物類。そんな雑貨には眼もくれず、店内を訪れた客はわずかに残っているブランド品を片端から物色しております。隣りのホテルから来たのであろう、明らかに地元民でもない観光客の姿も混雑にまじります。
鞄、財布、コートが人気のようでした。
値を書いた札が下がる店内を眺めていたわたし、ふと、棚の上に残されている帽子に眼がとまったのです。
あ。
あの帽子。
雑誌でもよく取り上げられることのあるその外国産の帽子は、百貨店のセール時期でも決して値を下げないのです。そっくりな帽子は沢山あれど、わざわざそれを指定して買うといったたぐいの帽子です。
それが半額になっている。
そこへ、俳優の竹中直人に顔の似た男性店員がつかつかとやって来ると、わたしの眼の前で豪快に帽子の値札を書き変えました。
彼のマジックの先から出てきた数字。半額からさらに値が落ちました。それだけではありません。閉店時間まで残り二時間、最終勝負に出た竹中直人(似)、忙しそうに次の棚に移りながら、
「その帽子、お買い上げ下さるなら、さらにホニャララ円にしますよ!」
棚の上から帽子を降ろすだけでなく、トルソーに飾ってあった帽子も取ってきて並べ、わたしに声をかけていったのです。
わあ。
それは破格。
それでは、とばかりに、わたしはあらためて帽子の吟味を始めました。
帽子は三つ。残り物ということもあり、いつもなら選ばない形の帽子ではありましたが、奇抜すぎるというほどでもありません。かたちはどれも同じで、色違いでした。
どちらの色にしましょうか。
悩んでいるわたしの許に、「そちらのお帽子、素敵でしょう」今度はラメ入りのマスクをつけた女性の店員さんがにこやかに近づいてきました。マダム感漂う初老の女性です。帽子を手にしたわたし、ラメマスクの女性店員と会話を始めます。
「この帽子がこの値段なので、つい」
「どこの帽子かお分かりになる」
「はい」
「ではぜひどうぞ」
女性店員は愛想よく鏡を差し出してあれこれ世話をやいてくれます。
昔ながらの手作りの帽子です。サイズ表記があっても微妙な個体差があるのです。頭に乗せて様子をみてからでないと決して買ってはなりません。欧米人の頭のかたちに合わせた帽子、日本人がかぶると大事故を起こすこととて、よくきくところであります。
最終的に色違いの二色で迷い、どちらにしようかと決めかねておりました。わたしの脳裏に先刻の「ホニャララ円にするよ!」の声かけが甦ります。
ええい、二つとも買ってしまえ。
決断したわたし、同じ形で色違いの帽子を二つを手にして、決然とレジに並びに行きました。値段を書き変えていた竹中直人(似)といえば、その時はレジのところで接客中でした。彼にもう一度、本当にホニャララ円にしてくれるかどうかを確認するつもりでした。
帽子だけでなく他にも色々あったんだろうな。選べるうちに来たかったな。けれど今よりも早い時間に来ても、こんなに値下げはしていなかったよな。
すっかり空になった棚を横目にしながら、順番がくるのを待ちました。そこへ、ラメ入りマスクの女性店員が列に並んでいるわたしの許に再度やって来て、「あら、スカーフはいいんですか?」と云うのです。
実は、お店に入って最初のうちは、スカーフをハンガーごと手にぶらさげていたのです。三割、五割、七割引きと、段階的に値段を変えた痕跡のあるスカーフが、誰かの手により別の場所に置き去りにされたことで一枚だけ売れ残っていたのです。しっとりとしたシルク製、こんなものは何枚あったっていいものだから、これ買っとくか~くらいの気持ちでした。
ところが、閉店日ということで、支払いは現金オンリーとのこと。
「実は現金をあまり持っていなくて」
ラメマスクにわたしは伝えます。
「あのスカーフを買うと、こちらの帽子が二つ買えなくなるので、スカーフは諦めました」
「いくら現金をお持ちなんですか?」
会計の順番を待っている人たちの後ろで、ひそひそと言葉を交わします。わたしは正直に「これくらい」と財布の中身をラメマスクに告げました。
それはちょうど、「さらにホニャララ円にするよ」のお値段の、帽子二つ分の金額なのです。
いえ、正確には百円ばかり不足でした。
しかし、わたしには確信がありました。
現金払いのこの閉店せール。不足分が百円くらいなら、まけてくれるだろう。
「あそこの、あの竹中直人に似た方が」
「ぷっ」
「似てませんか」
「本人に伝えたらよろこびますよ。あの人が店長なんです」
「さっきあの方が、札に書かれている値札からさらにホニャララにするよと云ってくれたので、それなら色違いで二つ買えるなと」
有り金をはたくかたちにはなりますが、帽子二つ合わせても一つを半額にしたよりもさらに安いというわけのわからないことになっていたのです。そして諦めたスカーフは、ホニャララの値よりも高いのです。
レジはまだ混んでます。サングラスを爆買いしている人がいて、一点一点、検品の上で渡しているからです。
すると一旦離れたラメマスク、わたしが売り場に戻したスカーフを手にしてまた戻ってきました。
「混んでるのでこの場でわたしが会計します。このスカーフもつけて、お手持ちの金額でいいですよ」
「えっ」
「店長には後でわたしから伝えておきますので」
いいの? 愕きつつも、店側にいたこともあるわたし、閉店なら最後の最後は九割引きになったりすることを知っております。とにかく売り切って現金が欲しいのだろうと、その場で財布からお札を抜き出して彼女に渡しました。青空市のようなやり取りです。するとラメ、
「よければこれもどうぞ」
ゴブラン織のハンカチ、イタリア製の靴下、タイツ。七割引きになっているとはいえ大物狙いの客は素通りしてしまい、ちまちまと売れ残っていたそれらを棚から無造作に掴むなりわたしの持っているバッグの中にばさっと入れてくれるのです。ベネチアガラスのアクセサリー、毛皮のキーホルダー。
「こちらもどうぞ」
和菓子の入ったエコバッグの中にも、ぽいぽいっ。
そのあたりでわたし、怖くなりました。
つまりこういうことです。
この女性は本当にこの店の店員さんなのか……?
……。
…………。
でももうお金渡しちゃったし!
世の中頭のおかしい人はいるけれど、そんなに広くない店の中で店員のふりをして接客をしてたら、さすがに竹中直人(似)にもバレるだろう。だからこの人はちゃんと正規の店員さんだよきっと!
磨き上げた茶色の革靴でターンを決めた竹中直人(似)の登場から時間にしてわずか半時間。
「こんなにも沢山、ありがとうございます」
心の動揺を抑えてラメマスクに礼を云い、多すぎるおまけの入ったバッグを抱えたわたし、コソ泥が逃げるようにして店から飛び出しました。
通りはまだ明るいながらも空は薄暗くなっています。どこか後ろめたいのは帽子を二つも買ってしまったせいなのか、それとも実質タダとなったスカーフの重みのせいなのか。駅に向かう一本道、新緑までもが不安げに風に揺れております。
「あたくし無料であなたの処に行くんですか」
革で出来たペンギンの人形が傷ついた顔をして鞄の中からこちらを見上げているのを宥めながら、わたしは速足になって電車に乗り込み、あとは「いやー、疲れたなー」と眠ったふりをするしかなかったので、ございます。
とてもいい買い物が出来たのですが、ちょっとホラー味も残ったよという小話でした。
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