ラブ・ロボット
iAiiAi
Out of sight.
十の目でひとつの敵を見ていた。
いや、十どころではない。
翼のない鷹のように滑るミサイルの先端カメラ、尾翼の振動を拾う広角、地表を舐める赤外、熱で揺らぐ輪郭を縫い合わせる合成視界。
機体のコクピットで僕は目を閉じ、脊椎に繋がるインターフェイスを通じてそれらすべてを“目”開く。
視界の外は、僕の得意分野だ。
コールサインは「ニードル」
機体は企業標準の中量級フレームに主武装のマルチスペクトル誘導ミサイルを軸に、自身で構築した機能を詰め込み、改造を施した寄せ集めをステルスグレーに塗った機体だ。
対する敵はカロニア重工の「ターマイト」
外装は白磁のように滑らかだが、内部は噛み砕くための歯でびっしりだと伝え聞く。
観客席は空の上だ。
ティル・ナ・ノーグの貴人たちが中空に浮かぶ観覧舎から、僕らの地表の戦いを見下ろしている。
「左後方。二時の方位に砂塵。相手、サブアーム展開」
オペレーターの声が脳に直接触れる。
背骨に刻まれた短いステム。
その下に埋め込まれた銀灰色の端子群が、僕の世界に介入してくる。
脳の縫い目に砂糖水を流し込むような微かな甘さ。
ドーピングの波が、神経の線路を一斉に開く。
「大丈夫。見えてる」
僕は答えながら、飛んでいるミサイルの一つを選び、少しだけ旋回させる。
ターマイトの足先が砂塵に沈み、駆動輪が滑る。その瞬間、別のミサイルの視界から装甲の継ぎ目がきらりと光った。
そこだ
三つのカメラを三つの手のように扱い、角度、風、距離、熱源それぞれに別々の命令を与え、同時に実行する。
頭の中に十本の糸巻きがあって、糸が絡まらないようにほどきながら、すべてを結ぶ感覚。
爆ぜる音が遅れて届く。
ターマイトの外殻に小さな穴が咲き、その下で回路が黒い花びらみたいに開く。
駆動部からオイルを吹き出しながら、膝から崩れて砂に沈んだ。
歓声がまた遅れて空から降ってくる。
九連勝目だった。
—
地球は汚れていった。
テラフォーミングの技術が当たり前になって、人は海や砂漠や氷を好きな形に変える術を覚えたけれど、汚染が進んだ地球だけは為す術がなかった。
大気は分厚く、灰色の海は藻で固まり、酸性の雨が鉄骨を溶かした。
人々は宇宙へ出た。
火星のコロニー、木星の衛星基地、空洞をくり抜いた小惑星の町。
地球は捨てられ、残された。
しばらくすると、地球から巨大な富を得た人間たちが戻ってきた。
テラフォーミング企業の重役、特許で財を成した資産家たち。
彼らは築き上げた財や技術を使い、地球の一部を浄化した。
巨大な膜で風を切り分け、樹木の塔で空気を濾過し、壊れた河川の流れをつなぎ直した。
その土地に彼らは「ティル・ナ・ノーグ」と名付けた。
永遠の若さの国、彼らの永遠。
宇宙へ上がった準富裕層や庶民達は二十歳で企業に属した。
選べる企業は多いが自由は少ない。
施設の空気はおおむね安全だが、外に出れば酷い咳が出る。
僕はユグドラシル・システムズの一般エンジニアだった。
両親は中毒症で早くに死に、叔母の志乃に育てられた。
彼女は肺が弱くきれいな空気を吸わせたいと何度も思った。
その年、選考AIが僕を選んだ。
公式には「不手際」だと言われた。
僕は戦士でもパイロットでもなかった。
ただの三十一歳の設計屋だ。
抗議はどこにも通じない。
選考は不可逆だった。
音もなく降りてくる医療ドローン、救急の匂いのする個室、合意書に似た告知書。
僕は改造を受けた。
肉体的、精神的にも。
脳の枠を広げる薬が点滴で入ってきて、一夜ごとに三つまでだった思考の糸が、四つ、五つと日ごとに増えていった。
ある朝、目覚めると、壁時計とベッド脇の端末と窓の外の雲行きと自分の呼吸を、別々に監督しながら同時に感じ取れることに気づいた。
世界が並列に並び直す感覚。
その日から空を飛ぶ鉄の塊は僕の“目”となった。
「九勝、あと一つだ」
シャワーを浴びながら、僕は指の関節の間に埋められた薄い磁気コインを揉んだ。
十連勝すれば、莫大な金と身内一人と共にティル・ナ・ノーグに住む権利。
望むなら叔母を連れていける。
軽いことのように貴人は言う。
現金の代わりに空気を渡す、そんな軽やかさだ。
控え室に戻ると、小さな影が椅子に座っていた。彼女はまだ子どもの背丈だった。
髪は短く刈り込まれ、首筋には白いテープが見えた。
名札には「ミユ」とある。
「あなたが榊遼?」
「ああ」
「今日、私の相手だって」
彼女の目は、まだ世界を疑っていない目だった。外を知らないまま、施設の空気を誇りのように吸い込む年頃。
ミユは十二歳で選ばれたのだろう。選考AIは年齢を問わない。
十二から五十まで、AIが選ぶ。
理由はブラックボックスだ。
結果だけが人を引っ張り出す。
「怖くないのか」
「怖いよ?でも、十勝したらお母さん連れてティル・ナ・ノーグに行けるんだって!空が青いって、本当?」
「……青いよ、多分ね」
僕は一度も見たことがない青を、嘘のように言った。
昔の写真で知っているだけの青。
志乃が熱を出す夜、彼女はよく古いアルバムを取り出して、色あせたフィルムを透かした。
僕は窓の外に雨の筋を数えながら、アルバムの中の海を覚えた。
青のことを想像の中で百回見た。
「じゃあ、全力で行くね!」
ミユは笑って去った。
笑顔の端で、テープの下の皮膚が少したわんだ。そこに端子が仕込まれている証拠だ、彼女も僕と同じだ。
違うのは、彼女にはまだ選べるほどの、
過去がないこと。
—
十戦目の前夜。
オペ室の硬い光に、貴人の女が現れた。
薄い外衣、灰金色の髪をうなじで結ったセレーネ・マルタ。
ユグドラシルの取締役、何度か上からのメッセージで名前だけ知っていた。
「榊遼、あなたの選考は不手際なんかじゃない」
言葉は波紋のように広がって、僕の苛立ちに触れた。
「じゃあ何だ?」
「実験よ、あなたのような工学的認知に偏った脳が、強制的並列化でどう変わるか。AIはそのモデルを欲しがっていた。あなたは最適だった」
「それを不手際と呼ばないのか」
「世の中の八割は言い訳でできている。あなたは九勝した。素晴らしい才能よ。提案がある。十戦目、彼女を潰して、私の庇護に入れば、ティル・ナ・ノーグでのあなたの居場所は保証される。労働から解放される。指数関数的に増える富、その全部をあなたの目に注ぎ込める」
「彼女?」
「ミユ、彼女は強い。けれど子どもは疲れるのが早いわ。あなたは頭の回転で削り取ればいい。ルールは単純、十戦目で勝てばあなたはこちらに来る。私たちはそれで決め事をする。ね?」
セレーネの笑みは、乾いた刃物の光のように、眩しくもないのに目に刺さった。
「僕は叔母を連れていく。それだけだ」
「ふふ、そうだといいわね」
彼女は立ち去り際に振り向いた。
「視界の外に答えがあると思っているかもしれないけど、世界のルールはいつも真ん中で決まるのよ」
—
十戦目。
空は鉛色で、地表はグラスファイバーの草に覆われていた。
ティル・ナ・ノーグの観覧舎はさらに高く、貴人たちの笑い声が薄く風に乗ってくる。
僕の中では糸巻きが十個、息をひそめて回転を待っていた。
ミユの機体は「ハミングバード」。
軽量、俊敏、脚部に反重力補助。
ミサイルは少ないが、肘の内側に高速ナイフが二対隠れている。
僕は知っている。
彼女はそれを最後まで取っておく、僕ならそう設計する。
「開始十秒。ターゲット、跳躍を開始」
オペレーターの声と同時に、ミユの機体が地面を蹴った。
青白い光が靴底から迸り、彼女は空に溶けるように上昇する。
僕はミサイルの視界を開いた。
空気が薄い、気流が乱れている。
彼女はミサイルを引きつけて、こちらの選択肢を狭めるつもりだ。
一本、二本とフレアを焚かず、彼女は身体そのもので釣る。
子どもらしい直線だ、そこに非線形の網をかぶせるのが僕の役目だ。
三番機を高度八千ftで待機させ、四番機を彼女の背後の空気の低圧域に入れる。
同時に六番機の視界で彼女の肩甲部の温度勾配を測る。
肩甲に息が切れる兆候が出るのは、疲労が神経の変調と同期するとき。
ミユ、もう少し呼吸を節約しろ。
心の中だけで僕は呟く。
刹那、彼女の肩の熱が上がった。
ナイフが出る。
僕は八番機のカメラを彼女の肘の曲がりに滑らせ、刀身の発光を読む。
まだ早い、囮だ。
やり過ごす。
視界の外で、僕は周到に糸を張る。
彼女の着地の半秒前、地表の微小な砂塵の舞い方で足の置き場所を予測する。
そこに九番機の小さな弾頭を、爆ぜない程度の衝撃で撃ち込む。
反動、僅かにずれる。
彼女のナイフは空を切り、僕の外装にかすり傷すらつけない。
「まだだ」
貴人のための勝負は、勝つだけでは価値がない。彼らは過程に金を賭ける。ナイフが何回で出るか、ミサイルが何本残るか、着地の角度は。
僕はミユを殺したくない。
勝つ必要はある、でも敗北させる必要はない。
矛盾した前提だったらルールごと書き換える。
僕はミサイル全てに別々の命令を与えた。
三番機は上昇して太陽光をレンズに受け、光量を最大にして白飛びさせる。
四番機は高度を落として、風に引かれるように地表すれすれに滑り、地形の微細な凹凸をスキャンする。
五、六、七番機は編隊を解き、それぞれが独立した目になって、観覧舎の方向へ向きを変える。八、九番機は互いを見つめ合い、そこに一瞬だけデータリンクの橋を架ける。
「遼?フィードが乱れている。何を——」
「中継だ」
僕は自分の機体の送信機能を切り替えた。
ミサイル同士の視界を互いに反射させ、メッシュネットのように組む。
貴人の観覧舎が回線を閉じても、別ルートで流れるように。
マルチタスクは戦闘のための特技だが、根は工学屋だ。
目は通信にもなる。視界は道にもなる。
「皆さん」
僕はマイクを開いた。
観覧舎の上空に浮かぶ巨大スクリーンがノイズを吐き、次の瞬間、ミユの機内の映像が映った。彼女の首のテープ、汗、震える指。
僕自身のコクピットも映る。
背骨の端子、薬剤の透明な袋。
観客のざわめきが風になる。
「ルールは、あなたたちが決めると言った。賭け事で、決め事で。でも、視界の外にいる人間のことは見なかった。これはその目だ」
ミユがこちらを見た。
彼女は状況を理解できない。
理解する必要もない。
僕は彼女にチャンスを作る。
「条件を出す。僕が十連勝する。その代わり未成年の選考は停止。既改造者にはティル・ナ・ノーグの医療を無償で提供。拒否するなら、今日は誰も勝たない」
セレーネの声が各所から割り込もうとする。回線が閃く。
僕は十本の糸を一斉に引き、ミサイルのフィードを乱反射させて遮断する。
同時に、ミユの機体の膝関節に非殺傷のショックを与え、一瞬だけ動きを止める。
僕は駆け寄り、彼女の機体のナイフの基部に機体の腕を差し込み刃を折る。
わざと大げさに、観客に見えるように派手に。
貴人には演出が必要だ。
見せ場がなければ決めない。
沈黙が落ちる。
彼らは計算している。
損得、僕の提案の意味、拒否した場合の場の混乱、彼らは秩序を好むし金が流れる場所を汚したくない。
僕はその習性を信じる。
三十秒後、セレーネが指を鳴らした。
観覧舎の照明が一斉に明るくなる。
それは合図だった。
誰かがうなずき、誰かが目を逸らし、誰かが肩をすくめる。
彼らは見た目だけの民主主義を楽しむ。
だが結果はひとつだ。
「十連勝を認める。条件付きだ。未成年の選考は一時停止。医療提供は審査付き。あなたはティル・ナ・ノーグに来ること。私たちはあなたを見たい」
セレーネの声は、刃の縁で踊るように整っていた。
僕は息を吐いた。
糸巻きのひとつを止める。
ミユが機体の中で泣いている。
涙が重力に引かれて頬を滑る様子が、僕のミサイルのひとつに映っている。
「ありがとう」
僕は彼女に手を伸ばした。
機体越しに彼女は小さな手で僕の手を握った。
その瞬間、十戦目は終わった。
僕の勝利だ。
だが、それより先に世界が少しだけずれた。
—
志乃はティル・ナ・ノーグの空の下で、深く吸い込んだ空気に驚いた顔をした。
青は写真より淡く、でも生きていた。
彼女の肺は一週間で音を変え、咳の回数が日に日に減った。
僕は彼女の横で、ガラスの壁越しに外の緑を眺めた。
緑は完成品ではない人工の樹、導入された昆虫、音を合成する風。
だが、曇りガラスの向こうでちゃんと揺れている。
セレーネが来た。
彼女はいつでも、雨が降る前の空気の匂いを連れてくる。
「約束は守ったわ」
「わかってる」
「あなたの視界は美しい。けれど、視界の外は私たちの仕事よ。そこはあなたが一人で戦う必要はない」
「あなたたちの視界の外に、また誰かが落ちる」
「落ちるわね」
彼女は頷いた。
軽い、しかし誠実な頷きだった。
そこに少しだけ本当の人が覗いた。
僕は志乃の薬の時間を確かめてから、外に出て薄暮の庭を歩く。
地平線は遠く、高い壁がその半分を切っている。その壁の向こうに、かつての地球が広がっている。
まだ捨てられたままの河川、錆びた都市。
僕は手首の下に触れ、埋め込まれた小さな端末の震えを感じた。
かつてのミサイルの一部が、散らばったまま、今も僕の目として世界に残っている。
誰かが息切れする映像、誰かが笑う声、誰かが空を信じる顔。
それらは網のようにつながって、フラッシュバックし、僕の神経のどこかに引っかかる。
志乃の笑い声が風に乗って届いた。僕は振り返り、手を振った。
青い空の下で彼女は手を振り返した。
その動きの軌跡が、僕の中に新しい糸を一本増やした。
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