第16話 実り

 朔は息子の頬を指の背で優しく撫でた。


 しっとりとした柔らかい肌からは、汗と乳のにおいがしていた。宵華に抱かれた青月は、今は機嫌がよさそうに眠っている。その安寧を妨げないよう、朔は息を殺して息子を見つめていた。


「そのように緊張なさらずとも大丈夫です」


 宵華に言われて頷くが、そう簡単にいくものでもない。朔は強張った顔のまま息子の寝顔を凝視した。


「静かに眠っている」


「腹が満たされたのでしょう。乳母が面倒を見てくれていましたから」


 宵華の愛想のなさも、子を前にすると少しばかり和らぐ。ここが二人きりの場であることもあってか、彼女の雰囲気もまた外とは少し違っていた。子を慈しむ母の顔とはこのようなものなのかと、朔は奇妙な感動と、一抹の寂しさを覚えていた。


(私はついぞ、母上のこのようなお顔を見ることはなかった)


 親の愛を知らぬ者が、親となって子を愛せるものなのか、朔には自信がない。否、皇帝という立場を考えれば、子を無理に愛する必要はないのかもしれない。ただ、自身の跡継ぎとして教育を施すことだけを目的にするというのも、間違いではない一つの道だろう。


 だが、生まれたての青月を見た時に、朔は困惑した。


 この小さな命は、自分の子なのか。私はこの子すら利用して、自らの野望を果たそうというのか。


 妻に抱かれて眠る青月は、この世の悪も善も知らぬ無垢な顔をしている。この子がどう生きるか──世界を恨むのか、愛するのか。それは朔の手に委ねられていると言っても過言ではなかった。


 朔は、自身の望みを果たすにあたり、非情であることを心がけてきた。


 不要なものは切り捨て、必要なものは拾い上げる。汚い、横暴だとそしられようと、それが朔の選んだ道だ。だというのに、我が子だけはそこから零れ落ちようなどと、都合のいい話かもしれない。


「陛下」


 物思いに沈んで硬直した朔を見かねて、宵華が声をかけてくる。朔は顔を上げ、改めて妻と子を眺めた。


 宵華は出産で少しばかりやつれたが、その後の療養で調子を取り戻しつつある。彼女の持つ空気も変わり、青月の話をする時には口元にうっすらと微笑みを浮かべることもある。


 青月はやはり眠ったままだ。だが時折夢の中でもがいているのか、手がぴくんと跳ねる。すくすくと成長し、胸に抱くとしっかりとした重さを感じられるほどにまでなった。


(この景色が、切り取られればいい)


 朔は目を細めた。


 窓から差す光を受けて、室内にあたたかな色が満ちていた。宵華の髪を飾るかんざしが輝き、天井に光の反射を映す。青月のぽってりとした手足が柔らかな空気をかいて、あ、と寝言を言った。それだけで、朔は呼吸が苦しくなるほどの胸の痛みに襲われた。


 朔は津ノ国の皇帝である。国を見事に治め、自らの野望を果たさなければならない。そのために、この二人を手の上で駒のように扱う必要に迫られることもあるだろう。


 その時に、迷ってはならない。例えこの時間が崩れてしまうとしても、胸の奥にしまって、覚えておく。ここで三人で過ごした時間が確かにあったことを。


 朔は目の前の光景を焼き付けようと、瞬きもせずに二人を見つめた。そんな視線を受けた宵華は首を傾げたが、夫のすることに文句を挟みはしなかった。ただ、何も知らない青月だけが、眠りから覚めるようにむずがって泣いた。

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