第一話 八千代の夏 後
その夜國春は、井戸浚いを終え七夕の夜の宴会に興じる統一郎らのいる屋敷にいてもたってもいられず、ふらりと海へ出た。
肌を湿らせる潮風を受けながら、浜辺へ降りる。
満月の光が水面を煌々と照らしており、人影の揺らめきのように見えた。
砂浜に立って、水平線を睨みつける。
八千代村は海と山に囲まれており、易々と外界に出ることは出来ない。
その事実が、國春をますます鬱屈とさせた。
目を瞑ると、目前には闇が広がり、波と風の音に包まれる。
大嫌いな音だ。
しかし、その音の先に、微かな歌声が聞こえることに気づいた。
國春はハッとして目を開き、辺りを見回すが、誰もいない。
波音に溶けて消えてしまいそうな、細く、微かな歌声。
しかし國春の胸の奥をかき乱すような――そんな声だった。
「誰だ?」
人影はない。
月光に照らされる白い砂浜と、黒い海面が延々と続いている。
それでも歌声は國春の耳に届き続けていた。
子守唄のような、それでいて哀しみの響きが滲んでいる。
初めて聞く音のはずなのに、懐かしい。
國春はその歌声が消えてしまわぬよう、そっと水際にまで歩き出していた。
「誰なんだ……?」
声を張り上げたら、波に消えてしまいそうだった。だから、國春は囁くように問うことしか出来ない。
歌声は國春の声に呼応するように少しだけ強くなったが、すぐに弱々しくなってしまう。
音の方向に顔を向けながら、水に入っていく。
ぬかるんだ砂に、足が取られる。
八千代の海は、7月でも、冷たい。
「やめろ」
遠くで宴会の声が聞こえる。
「やめろ……!」
騒がしくしたら、この声が消えてしまう。
その確信だけが胸に膨れ、呼吸が荒くなる。
引き摺り出されてはいけない記憶まで、波打ち際で揺さぶられる。
ふいに、歌声が止んだ。
はっとして見下ろすと、いつの間にか腰まで海に浸かっている。
次の瞬間、荒波が國春の足をすくった。
身体が傾き、どぶりと頭まで海に呑まれる。
鼻に、口に海水が流れ込んできて、國春の開かれた口からはぼこぼこと泡が弾けた。
もがいて、重たい水をかき分けて、なんとか浜辺に辿り着く。
「はぁ、はぁ、はっ……はは、ははは……」
兄と父が目の前で死んだあの日から12年。
海に飛び込むなんて、あれ以来だった。
全身ずぶ濡れのまま母屋へと戻る。
すれ違う女中が驚いたように目を開き「坊ちゃん! どうしたんや?」と口々に尋ねてきた。
國春は答えることなく、台所を抜けて自室へ向かう。
國春の歩いた後に、てん、てんと、小さな水たまりが続いていた。
メビウスの人魚 相川倫里 @eatme21g
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