春馬の思い出 - 3

 そろそろ帰るか。

 トレーニングシューズに足を突っ込んだ。

 すると、また足音が聞こえてくる。今度は一人だけ。

 ちらっと見てみれば、それは咲良だった。咲良は俺に気付いてないみたいで、淡々と自分の下駄箱の方へ歩いていく。

 いつだったか喧嘩みたいなことをしてから、咲良とはあまり話していない。

 俺は居づらくなって、さっさと帰ってしまおうと思った。靴をしっかり履いて、扉に向かう。

 外に出ようとした瞬間、下駄箱の方から鼻をすする音が聞こえてきた。俺の足は止まって、下駄箱の方に目を向けた。

 一回聞こえたと思ったら、二回、三回と聞こえてくる。

 それからしゃくり上げるような声も聞こえた。

それで咲良は泣いてると確信した。

 気になった俺は靴を脱いで、下駄箱の方に戻り、そっと覗き込んだ。そこには下駄箱の前でしゃがみ込んで、両手で涙を拭っている咲良の姿があった。

 いったいどうしたんだ。何かあったのか。でも、授業中は別に咲良には何もなかった。怒られたり、忘れ物したりなんてことも無かった。だったら何で泣いてるんだ。

 ぐるぐると考えていると、ふいに咲良が顔を上げた。

 ちょうど俺が立っていたのは、咲良の視界に入る位置だった。

 俺と咲良の目が合って、少しの間時間が止まったかと思った。

 やがて咲良が赤くなった目を擦りながら言った。


「もしかして、見てた?」


 何を言えばいいのか分からなくて、俺はただ頷いた。


「もう、よりにもよって春馬くんに見られるなんて。人が見てるとこでは泣きたくなかったのに」


 強がるように笑いながら、咲良は言った。


「なんで泣いてんの?怒られた?」

「それは、言いたくない‥‥‥」


 また泣きそうな顔に戻る。その表情のままそっぽを向いて、口をすぼめて、答えたくないのを態度で示していた。


「あっそ、じゃあいいけど」

「春馬くん、部活は無いの?」


 俺が帰ろうとすると、咲良の方から訊かれた。


「怪我してるから、練習休んでんだよ」

「そう言えば、指怪我してたね。まだ治って無かったんだ」

「来週くらいには練習出れるけど、でもめんどくせー。なんか、練習とかもうしたくねえな」

「何で?春馬くんって野球好きなんじゃないの」

「それ誰から聞いたんだよ」

「俊彦くんと天夏ちゃん」


 あいつら、咲良に俺のこと喋ってんのか。俺とこいつが仲良くないの知ってんのに。

 思わずため息を吐いた。


「まあ好きだけど、最近はそんな」

「最近って何かあったの?もしかして怪我?」


 やたらぐいぐい来るな。普段は話さないくせに。

 ずけずけと聞いてくる咲良に次第にイライラしてきて、俺は突き放すように言った。


「別にどうでもいいだろ。お前、聞いたことには答えなかったくせに、俺には質問ばっかしやがって」

「ご、ごめん‥‥‥」

「もういいよ、じゃあな」


 昇降口に脱ぎ捨てていた靴を履きなおそうと、俺は咲良に背中を向けた。

 すると、後ろの方から咲良が言った。


「わたし、病気なんだ。もしかしたら死んじゃうかもしれないの」


 病気、死ぬ。

 咲良の口から出た言葉が、なんだか現実味が無くて、思わず俺は振り向いてしまった。

 そこには涙を堪えた顔があった。


「がんなんだって。ちっちゃい頃から治療してて、その間は病院の学校に居たんだけどね。治ったからお姉ちゃんと同じこの学校に来たの。でも、この前検査してもらったらまた出来ちゃったかもって言われて、今度はもっとちゃんと検査するんだ」


 信じられなかった。

 自分と同じくらいの子供が死んじゃうなんて、テレビの向こうではたまに見ることもあったけど、まさか俺の近くにもいるなんて思わなかった。


「またがんになったら、治療しなくちゃいけなくなっちゃう。あれってすっごく辛いから嫌なんだ。

 でも、それよりも学校に来られなくなっちゃうのがイヤ。せっかく仲良くなったのに、天夏ちゃんとか俊彦くんとかと会えなくなっちゃうのがもっと辛い。だから、さっきは泣いちゃったの」


 堪えてたものが、咲良の頬を流れていくのが見えた。


「さっきの質問の答え。ごめんね、わたしだけ何も答えないで」

「別に‥‥‥いいけど‥‥‥」


 耳にしたことの衝撃が抜けなくて、そんな馬鹿みたいな返事をした。

 それから、俺たちは黙ってた。

 咲良が鼻をすすり、しゃくり上げる声だけ聞こえていた。

 人前では泣きたくないという咲良にとって幸いなことに、他の生徒が下駄箱に来ることはなかった。

 何か話さないといけない。

 そう思いつつも、何を話せばいいか分からない。

 それで俺も、質問に答えることにした。


「秋に野球の大会があって、それでレギュラーなりたくて。めちゃくちゃ頑張ってたんだけど、この指、怪我してさ、大会に出れなかったんだよ俺。そしたら、段々他の部員のこと見てると嫌になってきて、それで野球とかめんどくさくなってきて、だから最近は野球あんま好きじゃないんだ」

「そうだったんだ。答えてくれてありがとう」


 咲良は泣きながら笑った。

 今のこいつは痛々しくて、見てられない。だからこんなことを聞いちゃいけないのかもしれないけど、


「‥‥‥訊いていいか」

「なに?」

「治療って、治るのにどんくらいかかるんだ?俺の指と同じくらいで治るのか」

「分かんないけど、凄く長くなると思う」

「分かんないくらい長くて辛いって、怖くないのか?めんどくせーってならねえの?」

「怖いけど逃げないよ、治さないと友達と遊べないもん。だから、だから‥‥‥」


 咲良の声は、どんどん震えていって、最後の方は喉の奥で言葉が潰れたように聞こえた。言葉を最後まで言い切ることが出来ないでいる。

 涙を流して笑っていた咲良が、今は俯いていた。大きくなった涙の粒が、きらきら光って落ちていくのが見えた。

 静かななかに、咲良の掠れた声が聞こえた。何かを口にしているけれど、ここまで聞こえてこない。


「‥‥‥よう‥‥‥やだよう‥‥‥」


 段々と声が大きくなってきて、俺の耳にも届いた。その声は確かに、「嫌だよう」と泣いていた。


「嫌だよ‼死にたくないよ‼せっかく治って友達も出来たのに、何でまた戻らないといけないの⁉辛いのも苦しいのもイヤ‼全部イヤ‼逃げたいし辞めたいし治りたい‼何でわたしこんなに‥‥‥‼」


 最後の言葉は涙のせいで言い切れなかった。今はもう何かを言う余裕も無くて、ただただ呻きを漏らしながら泣き続けていた。

 目の前で聞いた痛くなるほどの叫び。

 俺は、心がからっぽになったみたいに、ただ狼狽えた。

 泣き続ける咲良を前にして、俺には何も出来ない。

 励ましたり、応援したりすることは出来ない。

 だって、俺はこいつと仲がいいわけじゃない。

 こいつに寄り添ってやれるほど、こいつのことが分からないんだ。

 それでも、何かしてやりたいと思った。


「じゃあ、辞めるのか?」

「辞めないけど‥‥‥けど‥‥‥」

「俺はこの怪我治ったら練習めっちゃ頑張って、次の大会ではレギュラーなってやる」


 咲良の顔がこちらを向いた。泣きながら、ぽかんとしている。


「すげー頑張ってレギュラーなる。この前は一回戦で負けたけど、次は優勝してやる。俺が点取りまくって、MVPになる」


 咲良はまだぽかんとしていた。まだ泣いていたけど、混乱しているせいで涙を拭うのを忘れている。

 そんな咲良を真正面に捉えて言った。


「だから、お前も頑張れ。辛くて苦しくて逃げて―のを頑張って、病気治せよ」


 咲良の表情がまた顰められる。残った涙を絞り出すようにして、両目をきつく瞑った。


「でも、わたし二回目は難しいかもって言われて‥‥‥今度も治るかは分からないし‥‥‥」

「なら約束!」


 俺は右手の小指を立てた。


「お前が頑張ったら、俺が来年、お前の誕生日祝ってやる!誕生日サプライズしてやるよ!」

「それ、言っちゃったらサプライズじゃないよ‥‥‥」

「細かいことは良いんだよ!とにかく、それで頑張れるか?」


 咲良はまだ俯いている。答えは返ってこない。


「分かった、じゃあもう一個約束してやる!頑張ったら、この前のこと謝る!」


 俺が言うと、咲良は顔を下に向けたまま、上目遣いにこちらを見た。


「この前のことって?」

「ほら、あのキーホルダーのことだよ。お前と天夏、あれですげえ怒ってただろ。あの時のことちゃんと謝ってやる」


 すると、咲良がくすりと笑った。


「それ、わたしが頑張らないと謝らないってこと?」

「そうだ。悪いか」

「そんなことしないで謝れば良いのに」


 俺が出した条件が面白いらしく、咲良は涙を拭ったまま肩を震わせた。泣いているせいで震えているわけでは無く、笑っているから震えているんだ。


「だから細かいことは良いんだよ。それで、これならどうだ。約束できるか」


 もう一度聞いてみると、咲良は顔を上げた。その顔には笑みが浮かんでいた。

 そして、咲良は、俺と同じように小指を立てた。


「分かった。絶対に謝らせるからね」


 その言葉は、いつもの咲良のものだった。

 俺は咲良に近づいて、お互いの小指を結んだ。

 これが俺と咲良の約束だった。

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