第28話:手紙、咲く
初穂は、国重の屋敷を訪れていたが、珍しく一人だった。
咲が父に手紙を送る際、国重が代筆していたが、彼は現在は療養中で、初穂が代筆を頼まれていたのである。
柚葉は、社の奥で月に一度行われる、神職会に出ていた。
”神さま”である初穂が姿を見せなかったことに、周囲は驚いていたが、柚葉は「そういうお方なんです」と言って、特に気にする様子もなかった。
──初穂がすぐ目の前にいる。筆を預けるほどの近さに、咲はいつになく緊張していた。
「あ、あの。よろしくおねがいします」
咲は、声が震えないように、ゆっくりと言葉を選んだ。
憧れの神さまが目の前にいる……。
咲の手には汗がにじんでいた。
「筆は整いました。いつでも始めていただいて大丈夫ですよ」
相変わらず、動作に一切の無駄がなく、瞬く間に準備を終えた。
その流れるような所作に、咲は思わず目を奪われた。だが、自分の準備が整っていないことに気づき、胸の内に焦りが広がっていく。
「えーっと、すみません。昨夜、何度も考えたのですが……少し、忘れてしまって。すぐに思い出しますので……」
初穂は、咲の緊張を和らげるように、やさしく声をかけた。
「ゆっくりで構いません。思い出しながら、お話しください」
初穂への憧れと敬意を手紙に込めようとした咲だったが、いざ本人を前にすると、恥ずかしさが込み上げ、言葉が喉に詰まってしまった。
初穂は、咲の緊張を和らげようとやさしく声をかけながら、彼女の表情や仕草から緊張の理由を分析していた。
しかし、どれほど緻密に咲の反応を解析しても、その感情の先が自分に向けられた想いであるということは、AIには理解できなかった──。
一方その頃、柚葉は社の裏にある静かな小庵で、神職の寄り合いに出ていた。
神官と真澄、そして柚葉の三人が、緊張した面持ちで話し合っていた。
真澄の父であるこの神官は、社の宮司を務めていた。
真澄は父に厳しく育てられ、巫女でありながらも、父を補佐する神官の務めも果たしていた。
通例では長老も神職会に加わっていたが、療養中のため国重の姿はなかった。
議題は、村人たちの信仰に対する反応や、神の影響についての意見交換。
長老の不在による村行事の対応も取り上げられ、その後、柚葉が神の従者としての報告をしていた。
定例の報告が終わると、待ちかねたように話題は初穂へと移っていった。
突如現れた神の存在に、彼らの思考は自然と引き寄せられていった。
「なるほど……よく分かりました。しっかり務めを果たしているようで、安心しました」
真澄の安堵の色を感じ取り、柚葉の頬にもやわらかな笑みが浮かんだ。
「して、神さまのご様子は如何か。異変など、見受けられはせぬか?」
「はい、言葉少なではありますが、常に村のために心を尽くしておられます」
(真澄さまも、宮司さまも、御方様の様子が大変気になっているご様子……)
初穂が神送りの儀から戻ったとき、人々の胸には、得体の知れない不安が広がっていた。
中には、儀式の途中で逃げ帰ったのではと噂する者もいた。
しかし、今や村人たちは、神が舞い降りたのだと信じて疑わなかった。
従者として初穂の傍にいる柚葉は、村人たちの空気の変化を肌で感じ取っていた。
「そういえば、先日、志乃さんに御方様が御車を贈られたそうですね」
真澄の視線が、再び柚葉に注がれた。
「うむ、確かに昨日、志乃殿が御車に乗って屋敷の外へ出ておられたのを目にした」
志乃への御車贈与の件は、村中で大きな話題となっていた。
二人は、初穂の不思議な力について、話を聞きたくてたまらない様子だった。
「そうなんです。御方様が志乃さまに初めてお会いになった日、紙に不思議な絵図を描かれ、それを職人たちに示して造らせたのです」
「なんと……御方様は、志乃殿にお会いになったその日に、御車の絵図をお描きになり、職人たちに造らせたというのか」
「……はい、志乃さまと初めてお会いになった日、御座所に籠って絵図を描かれていました。翌日には職人の方々を訪ねられ、私もお供いたしました」
改めて語るうちに、初穂の知識の深さが次々と明らかになり、柚葉は言葉を失うほどの驚きを覚えた。
普段は冷静な真澄の瞳にも、珍しく熱が宿っていた。
柚葉への問いかけは、途切れることなく続いていった。
神さまのお話が続く一方で、柚葉は夕餉の支度が遅れてしまわぬかと、内心気を揉んでいた。
(御方様、こちらは終わる気配がございません……申し訳ございません)
──国重の屋敷では、初穂が咲の手紙を代筆していた。
咲は、最初こそ緊張のあまり言葉に詰まっていたが、初穂が紙の端に何気ない花の絵を描く。
「筆の調子を見ておきましょう」
露草の絵だった。
咲は、その筆遣いの繊細さに、思わず息を呑んだ。
「うわっ……、こんなにも綺麗な絵、初めて見ました!」
初穂は微笑みながら、やさしく声をかけた。
「咲さんの言葉も、きっと美しいものになるでしょう」
咲は、初穂の言葉に心を打たれ、はっとして声を失った。
「心を込めれば、筆は必ず応えてくれます。咲さんの言葉も、きっと誰かの力になります」
その瞬間、咲の胸に灯っていた憧れは、静かに形を変えた。
この御方のように、誰かの力になれる存在になりたい──そう、心の奥で決意していた。
胸の奥にあった恥ずかしさは、いつの間にか霧のように消え、代わって、筆を進めたいという思いが湧き上がっていた。
神の筆が描いた露草のように、咲の思いも静かに咲いていた。
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