第12話:かつての親友 -2-

朝の空気には、山あい特有の涼しさが残っていた。

杉の葉の先に宿った夜露が、朝日を受けてきらりと光っている。

遠くでうぐいすがひと声鳴き、夏の訪れをそっと告げていた。


社の裏にある小庵に、三人が顔をそろえるのは久しぶりのことだった。

長老の国重くにしげ。巫女の柚葉ゆずは、そして柚葉の先輩巫女である真澄ますみ。三人は、小庵の火床を囲むように腰を下ろしていた。


湯気の立つ湯呑を手に、国重はしばし黙したのち、ゆっくりと話し始めた。

「……このところ、村の暮らしも穏やかになってきた。あの方のおかげじゃ」

「あの方への信仰は、日に日にあつくなっておる」

真澄ますみが軽くうなずいた。

「村の者たちも、あれは神の御業としか思えぬと申しておりました」


真澄ますみは、神職の家に生まれ育った若き巫女である。

柚葉より五つ年上で、幼いころから巫女として育てられてきた。

落ち着いた物腰と澄んだ声は人々の信頼を集めており、古くからの祈祷や祭礼の作法にも精通している。


柚葉も、真澄を深く信頼していた。

頼れる先輩であり、時に心の支えでもあった。二人は互いに支え合いながら、神に仕えてきた。

あの日──真澄もまた、柚葉と共に、神送りの儀で初穂を見送っていた。


真澄は、胸の奥を探るように、ゆっくりと口を開いた。

「あのお方は……“そこを離れなさい”と、ただ一言、そう仰ったのです」

昨日、村の外れにある斜面が崩落した。

付近に住んでいた者たちは難を逃れたが、その場には──初穂の姿があった。

「数日前から、あの斜面の近くに暮らす者や、そこを通る者たちに、何度も声をかけておられたのです」

「”ここは危うい、離れた方がよい”と……、まるで、あの崩れが起きることを、知っておられたかのようでした……」

真澄の脳裏には、あの日の光景が蘇っていた。

初穂が声をかけていた姿、その場を包んでいた朝の気配までも──今も、鮮明に記憶に残っている。


「中には、首をかしげながら寝床を移した者もおりました……」

「ですが、翌朝……あの斜面が本当に崩れていたのを見たとき……誰も何も言えませんでした」


それは、誰の目にも尋常ではない出来事だった。

初穂は、斜面の地盤に含まれる水分量の推移を、数日間にわたって観測していた。

降雨のたびに蓄積される含水率と、地下の圧力変化、傾斜角との相関を分析し、次の大雨での崩落リスクは90%以上と算出されていた。

イシュタルの脳内では、事前に崩落のシミュレーションモデルが複数展開され、最も高確率のシナリオが選択されていた。


「……あれはもう、神さまのお告げとしか……。私には、そう思えてならないのです」

真澄の脳裏には、今も崩落の朝の光景が焼きついていた。


土砂が崩れた現場に駆けつけたとき、そこには既に“神さま”の姿があった。

初穂は、村人の混乱や声など意に介さず、崩落の範囲、土壌の性質、周囲の被害状況を次々と確認していた。

感情を一切交えることなく、ただ冷静に、ただ的確に……。


そして初穂は、二次被害の恐れがないと判断するや、村の男たちに復旧作業の手順を簡潔に伝え、再び言葉を交わすことなく立ち去った。

……真澄は、その後ろ姿をただ見送るしかなかった。

そこには、もう“初穂”という名の娘の面影は、ほとんど残っていなかった。


──国重は頷くと、そっと湯呑を置いた。

「祈りや言葉だけでは務まらぬ。神に仕える身として、あの方の傍に在り、日々を共にする者が必要なのじゃ」


柚葉は静かに顔を上げ、まっすぐな目で国重を見つめた。

「……それなら、どうか私に、その務めを果たす役目をお与えください。至らぬ点もありますが、それでも、あの方のそばに在りたいのです」

真澄は、わずかに目を細めて柚葉を見た。

「神に仕えるというのは、ただ傍にいることではありません。己を削ってでも、相手に尽くす覚悟が要るのです……柚葉、それでも、あなたはその道を選びますか?」


「かつて、初穂と約束を交わしました。『どんなことがあっても、私がそばにいる』と。たとえ神となられた今でも、その想いに変わりはありません」

柚葉は、自らの気持ちがあふれ出すのを、もはや止められなかった。

心の奥底で眠っていた願いが、言葉となって押し出されるように──


「あの方のお姿を見て、祈るだけではなく、お支えしたいと強く願いました」

「食の支度に、衣の用意、掃除や薬草の手当て──そうしたことなら、私にもできます。姉のためにと願い続けてきた務めを、今こそこの手で果たさせてください」


柚葉が巫女として名を連ねたのは、わずか十三歳のときだった。

もともと神職の家に生まれたわけではない。けれど、初穂と並んで神社へ通い、祭礼の支度や祈りの作法を一つずつ身につけていった。

生来、身体の弱かった姉に代わって重い荷を運び、焚き木を割り、祝詞のりとを一心に覚えようとするその背を、神職の者たちもいつしか目で追うようになった。


だが、巫女として歩み始めたその冬、姉の琴葉ことはは病に倒れ、この世を去った。

そして、親友だった初穂は、神への供物として選ばれ、その命をもって運命を受け入れた。

姉を喪い、親友を見送った日の悲しみは、柚葉の心の中に深く刻まれていた。

だからこそ、彼女にとって“神に仕える”ということは、ただの務めではない。

それは、祈りを行動に変え、初穂の意志を継いでそばに在り続けたいと願う、自らが選び取った使命だった。


小さな沈黙のあと、国重は真澄の方へゆっくりと視線を移した。

「日々を共にし、その御心に応えていかねばならん」 

「……神に仕える者を選ぶというのは、信仰の深さだけでは足りぬ。真澄、おぬしの目から見て、柚葉はこの務めに耐えうると思うか?」


真澄は少しだけ目を伏せ、火床の中の小さな火を見つめた。

真澄にはわかっていた──国重が、その務めを自分に託そうとしていることを。

「神に仕えるには、清らかさだけでなく、揺るがぬ強さが要ります。その意味では、柚葉はまだ未熟かもしれません」

「けれど、誰よりも真っ直ぐに祈り、迷いなく神を信じてきた子です。私は、その心を信じます」


幼い頃から厳しい作法と信仰の意味を叩き込まれ、形式の奥にある“祈る心”を、何よりも大切にしてきた。

柚葉の信仰心が、並々ならぬものであることはわかっていた。

初穂への”想い”を、真澄は誰よりも理解していた。


国重は、真澄の言葉に深く頷いた。

「そなたがそうまで申すなら、信じよう。真澄、おぬしの見る目に偽りはない。長年見てきたわしにはよう分かる」

そう言って、国重はゆっくりと柚葉に向き直った。

「柚葉、これよりそなたは、神に仕える者として、この村の祈りと信を一身に担う者となる」

言葉に、ひときわ強い力が込められる。

「畏れを抱け。されど、恐れに屈するな。真心をもって神に仕え、人々を思い、与えられし務めを果たすのだ。」

その瞳に、迷いがないことを国重は確かに感じ取っていた。


柚葉は、巫女としてはまだ若く、未熟な面もある。

しかし、その未熟さゆえに純粋で、強く揺るがぬ意志の強さがある。

もう迷いはない。

真澄が認め、自らの目にも確信が宿った今、あとは信じて託すのみ──


その背に託されたものは、幼き身にはなお重く、深い。

けれど柚葉は、振り返ることなく、一歩を踏み出した。

その先に、神と共に在る道が続いている──そう信じて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る