第6話 終章:光の印
春の雨が降っていた。
小さな商店街を歩くと、舗道のあちこちに水たまりができていて、
アスファルトの上でネオンの光が滲んでいた。
その光景が、まるで現実と記憶の境界がぼやけているように見えた。
あの夜から、三島は少しだけ変わった。
仕事を続けながらも、毎週のように机に向かってペンを握るようになった。
広長の万年筆。
インクの染みついた銀の胴体は、今も彼の手の中に馴染んでいる。
広長が残した原稿の続きを書くというより、
彼ともう一度、話をしているような感覚だった。
そして今日──。
ようやく印刷が終わった。
自分と広長の名前を並べた冊子、『透明人間』。
印刷所の職人が丁寧に束ねてくれた紙の束を手にした瞬間、
胸の奥がふっと軽くなるような感覚がした。
封を開けると、かすかにインクの匂いが漂う。
それは十数年、毎日のように嗅いできた、仕事の匂いだった。
だが今日は、少し違って感じた。
これはもう「労働の匂い」ではなく、「誰かの生きた証の匂い」だった。
日が暮れるころ、三島は街の外れの商店街に足を運んだ。
いつものように薄暗く、人通りは少ない。
アーケードの屋根を叩く雨の音が、どこか遠い鼓動のように響いている。
その一角に、かつての“広長書店”がある。
店はもう閉じられたままだった。
古びたガラス戸には「貸店舗」の紙が貼られ、
中の棚はすっかり空っぽになっている。
しかし、看板だけはまだ残っていた。
──「広長書店」
ただし、“広”の文字の蛍光灯は切れたままだ。
かすかに光るのは「長書店」の三文字だけ。
雨に濡れたその看板は、まるで時間の中に置き去りにされた記憶のようだった。
三島は傘を閉じて、看板の下に立った。
蛍光灯がジジジと音を立てている。
その微かな音が、なぜか人の声のように聞こえた。
「……見てるよ。」
彼は思わず、小さく笑った。
まるであの夜の幻がまだそこにいるようだった。
店の前のベンチに腰を下ろす。
ポケットから取り出した『透明人間』の試し刷りを開く。
ページの端が風でめくれ、雨のしずくがひとつ落ちる。
それがまるで、広長の涙のように思えた。
「俺たち、変われたかな。」
そう呟くと、通りを歩く人影が数人、傘を差して通り過ぎていく。
その中の誰かがふと、消えかけた看板を見上げた。
少し立ち止まり、スマートフォンで写真を撮っていった。
──見られている。
その瞬間、三島は気づいた。
人が何かを“見る”という行為が、どれだけ温かいことかを。
誰かの記憶の中で、自分がほんの少しでも光る。
それだけで、人は完全に透明にはならない。
「透明人間って、本当は“見えない人”じゃなくて、“見ようとされない人”なんだな」
その夜。
三島は自宅の机に向かい、最後のページを綴った。
「広長、お前の書いた“透明人間”は、今も光っている。
それは蛍光灯のように時々切れかけるけど、
それでも消えない。
誰かがそれを見つけ、また灯りをつける。
そうやって、人は生き続けるんだと思う。」
ペンを置いたとき、窓の外で雷が鳴った。
雨はやんで、静かな夜が戻ってくる。
机の上の万年筆が、蛍光灯の光を受けてかすかに輝いた。
その光を見つめながら、三島はそっと笑った。
翌週、同人誌フェアの会場。
小さなテーブルの上に並んだ『透明人間』は、地味で目立たなかった。
けれど、何人かの人が立ち止まり、ページをめくっていった。
「これ、静かでいいね」「印刷の話、懐かしいな」──そんな声が聞こえる。
三島は少し離れた壁際で、その光景を見ていた。
彼はもう、舞台に上がる必要はなかった。
見られる側ではなく、見る側としてそこに立っていた。
不意に、背後から声がした。
「この本、あなたが作ったんですか?」
振り返ると、若い女性が立っていた。
「とてもよかったです。
最後の“蛍光灯”のくだり、なんだか心に残りますね。
あれって、どこか実在の場所なんですか?」
三島は少し考えてから、微笑んだ。
「ええ。ありました。
でも、もう灯りは切れてるんです。」
「そうなんですか。でも、まだ見える気がしますね。」
彼女はそう言って、会釈し、会場の奥へと去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、三島は胸の奥に小さな温かさを感じた。
誰かがまた、“あの光”を見つけてくれたのだ。
フェアが終わり、会場を出るころには夕暮れだった。
外に出ると、街の灯りがひとつ、またひとつと点き始める。
彼はふと、北の方角を見た。
そこにあるはずの商店街の上空に、
ぼんやりと白い光が浮かんでいるような気がした。
──“長書店” の蛍光灯。
きっと、まだ消えていないのだろう。
三島は静かに頭を下げた。
「ありがとうな、広長。」
そして、夜風の中を歩き出した。
足音がゆっくりと遠ざかるたびに、
彼の影が街灯の下で伸び、また消えていった。
それでも、その足取りは確かだった。
もう、彼は透明ではなかった。
透明人間 おげんさん @sans_72
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます