普通中毒【短編小説】

Unknown

本編【約10000文字】

 2025年11月14日の金曜日。

 通勤・通学の時間帯、秋の冷たい風が優しく吹いている中、俺(29)が暮らしている1Kのアパートの2階のベランダで、俺は欄干に肘をついてロングピースという紙タバコを死んだ目で吸っている。

 朝の光が差していて、空は雄大で青い。今日も何気ない日常がだらっと流れるという事を俺に予感させる。

 俺の【恋人・同居人】の夏希なつき(28)も俺と同じように、このベランダで死んだ目で喫煙している。夏希はいつもメビウスを吸う。

 夏希は口からメビウスの紫煙を空中に向かって「ふぅ」と吐いた。その副流煙は風に乗って俺の鼻の中に入ってきた。

 俺は、平日の朝の街を歩いていく多くの人々をベランダから見下ろしながら、無表情でこう言った。


「おー、壮観やのう。見てみい。これから出勤・登校していく人間どもが、ぎょうさんおるでぇ。奴らは所詮、社会のレールから外れる事を恐れて“普通”に擬態する事に必死な哀れな人間や。第一普通ってなんやねん。“普通”に囚われてるうちは三流のヤクザや。ふぅ、奴らを見ながら吸うタバコが1番うまいでぇ。ヤクザ冥利に尽きるのう」

「まぁ優雅ゆうがはこないだ在宅の仕事やめてニートになっちゃったから、その“普通”以下の存在だけどね。普通の人を馬鹿にしちゃ駄目。普通の人になるのって難しいんだからね。優雅の今の発言は良くないよ。私、悪い事は悪いってちゃんと伝えるからね」

「ごめん。今の発言は全面的に俺が悪かった」

「優雅はよく知ってるだろうけど、“普通の人”になるのって、ものすごく大変なんだよ。特に私たちみたいなメンヘラの社会不適合者にとってはね。私も優雅も若い頃に精神疾患を患ってからは、いくら努力しても普通の人に戻れなかったじゃん。無理した結果、頭が壊れて精神病になっただけ。しかも寛解後も、その後遺症は一生残り続けるの。心が空っぽになっちゃったりね」

「せやなぁ。精神疾患は大変や。普通の人になる事が困難なのも、よう分かる。わしらみたいなヤクザもんにとって、カタギの世界なんて想像もつかんで。わしらはガキの頃からヤクザの汚い世界しか知らんからのう」

「優雅も私も全然ヤクザじゃないでしょ。てか、さっきから気になってたけど、なんで今日は朝からコテコテの関西弁なの?」

「最近わしが遊んだ【龍が如く8外伝】っちゅうヤクザゲームのキャラクター、真島吾郎の影響をモロに受けたんや。わしは影響受けやすい体質やからなぁ」

「あー、そういえば2日間で30時間くらい遊んでたね。気が狂ったようにゲームに熱中してた。私が相談事があって声を掛けても、優雅はゲーム中はイヤホンしてるから私の声が聞こえてないし、肩を叩いてなんか言っても『うん、あとで聞く』とか『ちょっと今忙しくて……』しか返してくれなかった。ゲームしてて忙しいってなんだよ。どこからどう見ても暇じゃん」

「すまんかった。でも、それだけ面白いゲームだったんや。夏希の相談、今後はいくらでも乗ったるで。大船に乗ったつもりでおれや。どんな悩みもわしがスパッと解決や」


 俺がタバコの煙を吐いて無表情でそう言うと、夏希がタバコの煙を吐いて、無表情でこう言った。


「ねぇ優雅。その関西弁、キモいから辞めてくれへん?」

「夏希、お前かて関西弁やんけ」

「おい、やめてくれや。普通に移っちゃいそうやんか」

「ウイルスみたいにガンガン移したるでぇ」

「まぁ、たまには関西弁でもええか。でも、これからもずっと優雅の関西弁が続くようだったら別れるから覚悟しとくんやで」

「え、別れるの?」

「うん。だって関西出身じゃないのに関西弁で喋る人って普通にキモいじゃん。私はそんなキモい男の人の彼女でいたくない」

「殺生やなぁ。でも夏希の意見には同意や」

「でしょ?」

「うん。関西出身じゃない奴の関西弁はキモい」

「そういう事やから、関西弁使いすぎないでね。よろしく頼むで」


 夏希は俺の目を見て、そう言った。

 俺は少し口角を上げて「了解や」と言った。

 秋の風が流れ、夏希と俺の吐いたタバコの副流煙は宇宙の彼方へと静かにゆっくりと運ばれていった。

 宇宙を瞬時に脳裏にイメージした俺は、自分の死生観を夏希に話すことにした。

 俺は隣の夏希に声を掛ける。

 

「ねぇ夏希」

「ん?」

「俺は思うんだけど、人は死んだら、きっと宇宙の外側の世界に行くんだ。そして、この世界の狭い枠を超えるんだ。そこはきっと想像もつかないような場所だ。この世界の枠の先に何があるか、今から死ぬのがめっちゃ楽しみだよ」

「私は、人は死んだら無になって、産まれる前の状態に戻るだけだと思うけどなぁ」

「それが1番現実的だけど、それだとロマンが無いじゃん。どうせなら、楽しい未来を妄想しようぜ。妄想するだけなら何もかも自由なんだから」

「まぁ、それもそうだね。どうせなら楽しい未来を妄想して一緒に生きよ」

「うん。今までお互いに暗い人生を送ってきた分、これからは明るい未来が待ってるはずだ。今まで抱えてきた人生の負債、神様に全部チャラにしてもらわないといけない。今まで泣きまくった分、未来では腹が千切れるまで笑いっぱなしだ」

 

 ◆


 朝の喫煙を終えて、1K・9.5畳のアパートの部屋に戻った夏希と俺は、それぞれ朝食を摂り始めた。

 俺は朝は何も食べない事が多いが、冷蔵庫を見たら消費期限がとっくの昔に切れたスーパーのサラダがあったので、廃棄の意味も込めてシーザードレッシングを掛けて食べた。

 夏希も朝は何も食べない事が多い。昼も食べない事が多い。夜にやっと何か食べる。

 夏希は最近メンタル面が若干不調らしく、鬱気味だそうだ。1日中ベッドで横になっている日も珍しくない。以前より食べる量が減った分、反比例するように飲酒量が増えた。先日の通院の際、新しい抗不安薬・抗うつ薬も増やされていた。

 俺と夏希は木の小さい長方形の安いテーブルに対面する形になり、とても朝食とは言えない朝食を摂っていた。

 夏希は固形物を摂らずに、朝から『-196』という名前の、アルコール度数9%のレモン味の缶チューハイを飲んでいる。

 ──鬱病の人は何かに依存しやすくなる。という記事を読んだことがある。その依存先が夏希の場合は酒なのかもしれない。

 そんな事を無表情で思考しながら俺はサラダを口に運んだ。


「あー、ちょっと酔ってきたでぇ。朝から飲酒なんて終わってるねえ。生きてる価値ないねえ、私」

「俺も生きてる価値ないから安心せえ」

「うん」


 今、夏希は仕事には就いていない。でも、たまにパパ活をして金を稼いでいる。

 彼女はパパ活をしていいか、事前に俺に相談してきた。

 俺は「オーラルセックスまではセーフ。でも本番はアウト」と言って、夏希のパパ活を許可した。

 そもそも俺は、他人の生き方を制限したり束縛する権限は無い。

 でもさすがに本番ありのパパ活は抵抗があった。

 また、夏希も知らない人との本番はかなり抵抗があるようだった。

 あと、関係ない話だが、俺は色々あって22歳の時にアルコール依存症と診断されており、現在は断酒中である。レグテクトという飲酒欲求を減らす薬を1日6錠服用している。


 ◆


 現在、夏希は俺が借りている1Kの9.5畳のアパートに住んでいる。俺の同居人だ。

 俺は消費期限切れのサラダを食いながら、加熱式タバコ・プルームを吸い始めた飲酒中の夏希にこう言った。


「そういえば俺は最近、若者の間でワンルーム同棲が流行っているっていうネット記事を見た」

「もう私たち、そんなに若者じゃないじゃん。私が28歳で、優雅が29歳」

「まぁな。夏希が結婚願望ない人で助かった。もう俺たちは人の親になっててもおかしくない年齢だ」

「そうだね。私、結婚したくないし子供も要らない。だって私自身が子供だもん」

「俺も自分が子供だから、子供は要らない」

「もし私が普通に結婚して子供が欲しいって考えるタイプの人だったら、まず優雅とは付き合ってなかっただろうなぁ」

「そうだね。あ、そういえば子供で思い出したけど、俺の妹の出産日が確定したらしい」

「確定してるの?」

「うん。妹はちょっと体の病気があって帝王切開なんだよ。まぁ、俺は出産の事はよく分からないけど、前後することはあるかもな」

「出産、無事に済むといいね」

「ああ。妹は俺とは違ってかなりしっかりしてるし、優しいし、良い母親になるぜ。あと旦那さんも良い人だ。こないだ旦那さんと会って少し会話したよ。そういえば旦那さんもゲーム好きで、俺みたいに龍が如くシリーズも大好きらしい」

「ふーん。そんなに龍が如くって面白いの?」

「うん面白い。あと、ちなみに妹と旦那さんの子供の名前ももう決まってるらしいぞ」

「どんな名前?」

「●●」

「めっちゃ良い名前じゃん」

「だろ? めっちゃ良いよな。決めたのは旦那さんなんだって。夫婦で名前を色々考えてたんだけど、いきなりこの名前が降ってきたらしい」

「へぇ~、天啓が舞い降りたってやつだね。ん……あれ、最初なんの話してたんだっけ」


 俺は少し考えて、言った。


「あ、ワンルーム同棲の話」

「あ、そうだ」

「ずっと1Kの物件で同棲も窮屈だよな。せめて2Kの物件が借りたい」

「そうだね。そのうち2Kか2LDKの賃貸に引っ越そう。同棲するなら、お互いの個室が欲しいもんね」

「うんうん。あと、9.5畳の部屋1つで人間が2人で暮らすのは単純に狭いし、部屋の中で夏希の物と俺の物がいつの間にかごちゃごちゃになってる」

「私はパパ活で稼ぐから、優雅もニートしてないで早めにバイトでも見つけな」

「バイトじゃなくて、正社員で良い仕事の求人を見つけた」

「なになに?」

「商業施設以外の施設警備員。夜勤もあるけど、めっちゃ楽らしい。俺みたいに空白期間が長い奴でも採用されやすいってネット掲示板で見た」

「じゃあ応募してみれば? 求人に」

「昨日、応募した。面接の日は3日後だ。それまでに履歴書書いたり証明写真撮らなきゃ」

「もし採用されなかったら、バイトで良いよ。バイトしながら、自分のペースで無理せず正社員の仕事探すのが1番いいよ。優雅も私と同じで精神障害者だし」

「だな。そうするよ。工場のバイトでも探す」

「そういえば、優雅は元工場の正社員なんだっけ」

「そう。めっちゃ若い頃だけどな」


 サラダを食い終えた俺はペットボトルの麦茶を飲み、加熱式タバコ・アイコスを吸い始めた。夏希はプルームを吸っている。

 夏希も俺も、加熱式タバコと紙タバコの二刀流の喫煙者だ。

 二刀流という意味では、夏希も俺も大谷翔平と大差ない。

 大谷翔平はバッターとピッチャーの二刀流だが、こっちはタバコの二刀流だ。

 ──翔平、見てるか? 俺たちは大谷と同じステージにいるんだぜ。勝負しようぜ、翔平。


 ◆


 夏希も俺も職には現在就いておらず、基本的に2人とも、だらだら生活している。

 俺は先日、在宅ワークを辞めてニートと化したが、焦りを一切感じていない。

 ニートにとって最も大きな敵は焦りである。焦ると、快適なニートライフを送れない。どうせ1度メンヘラになったら普通の人間になど戻れないのだから、泰然自若とした精神を持つことが肝要と言えよう。

 ダメ人間でも良いじゃないか。いついかなる状況であれ、自分は自分だ。自分を見失ってはいけない。

 夏希は特に体調が悪い時、


「死にたい」


 と言って泣くことがある。


「夏希みたいに死にたい奴は、今この瞬間を生きているというだけで偉い。自分を褒めるんだ」


 と俺は言った。

 自分も同じような鬱病を経験したことがあるくせに、いつも一周回って、ありきたりなフレーズしか出てこない。


「死にたい」という4文字には多くの含蓄がある。自分の苛烈な苦しみを言語化するのに最も手っ取り早いのは「死にたい」というインパクトのある言葉だ。「死にたい」が便利な言葉すぎる。


 夏希は現在、軽度の鬱病を抱えている。

 軽度と言っても、鬱の症状はしっかり現れている。

 鬱状態の人はまず風呂やシャワーなど日常的な行動が困難になる。食欲の減退か極端な増加もある。そして外出が困難になる。そもそも、どこかに行きたいという意欲が減退する。あらゆる欲望が消えたり、希死念慮が出たり、悲観的になったり、意欲や興味も減る。趣味などにも興味が出なくなる。そして過度に自分を責めたり、不眠になったり、文章が読めなくなったり、頭がぼーっとしたり、他にも鬱の症状は様々だ。

 夏希もアパートに引きこもりがちになり、風呂もほとんど入らなくなった。食欲も消え、睡眠が満足に取れなくなった。着替えも億劫なのか服をしばらく着替えていない。プリン状態の茶色い髪は脂でべたついている。「返信していないLINEやDMが山みたいに溜まってる」と俺に言った。

 これで“軽度”と夏希は精神科医に言われている。

 俺は長年、鬱病と診断されていたが、最近は鬱ではなく気分変調症に名前が変わった。これは、鬱病とまでは行かない軽度な鬱状態が数年間続いていると認められた場合、診断名が下りる気分障害の一種だ。気分変調症は一生治らない人もザラにいるらしい。

 俺の場合、夏希ほど精神状態の悪さは深刻ではない。もちろん鬱っぽくなる日もあるが……。

 でも、最近は調子が結構いい。寝食を忘れて長時間ゲームもできるし。

 俺の提案で、俺は鬱で寝込んでいる夏希に頼まれた物を代わりに購入しに外出したりしている。1人暮らしをしていた頃からもちろん家事はやっていたが、夏希が体調を崩してからは、より気合を入れて家事をするようになった。今、部屋は綺麗だ。たまに俺は床にコロコロをかけてゴミを取る。

 鬱の人に対しては、


「とにかくストレス源から逃げて医療と繋がって薬を飲んで休め」


 としか言えない。

 夏希も最近はパパ活をせず、ずっとアパートに引きこもっていた。

 俺は、全ての物事を楽観的に捉えている。

 夏希はいつか必ず回復するし、俺の人生は何とかなる。夏希の人生も何とかなる。

 鬱病の症状にも細かい波がある。今、夏希には悪い波が来ているだけの事だ。

 とりあえず俺は、今は職を探す。

 ──施設警備の会社との面接は、3日後だ。

 

 ◆


 16時頃、俺は母親に『今からスーツ取りに家に帰る。カギ開けといて』とLINEを送った。数分後『分かった』と返信が来た。

 その後、俺のベッドで横になって目を閉じていた夏希に、俺は小さく声を掛けた。


「夏希、起きてる?」

「ん、起きてるよ」

「休んでるところ悪いな。今から実家に帰ってスーツ持ってくる。証明写真とか面接にスーツが必要だから」

「了解」


 俺はアパートの鍵を施錠し、階段を下りて、駐車場に向かい、軽自動車に乗って車で3分くらいの場所にある実家に向かった。


 ◆


 実家の庭に車を停め、俺は数か月ぶりに実家に帰ってきた。

 妹の車も停まっている。

 出産が近い妹は、しばらく前から休暇を取って会社を休んでいる。

 家のドアを開けて玄関に入ると、妹と母が談笑している楽しそうな声がした。

 スリッパを履き、そのままスライドドアを開けてリビングに入ると、妹と母と猫が俺を見てきた。


「久しぶり、優雅」と母。

「お兄ちゃん久しぶりじゃん、元気だった?」と笑顔の妹。

「にゃ」と無表情の猫。


 今時のギャルみたいな風貌の妹に元気かどうか聞かれたので、俺は無表情でこう言った。


「わしは元気や。何とか上手くやっとる。それにしても久しぶりやなー、くるみ。元気にしとったか?」

「うちも旦那も超元気。てかなんで関西弁?」


 直後、母が妹にこう言った。


「くるみ、立って優雅にお腹見せてあげな。すごい大きくなったんだよ、お腹」

「へぇ、そうなんだ」と俺。


 直後、くるみ(仮名)が立ち上がった。痩せ型の体形の妹のお腹はとても大きくなっている。服の上からでも完全に妊婦だと分かる。なんだか不思議な気分だった。


「でかくなったなぁ。くるみも既に母親だな。やっぱり赤ちゃんが動いてるのとか分かるの?」

「分かる分かる。なんか感動するよ。初めてエコー写真見た時からずっと愛おしくてたまらない」

「それが母性本能ってやつかもな」

「かもね~」


 妹は楽しそうに笑っている。

 母は赤ちゃん用の服を畳んでいた。

 そういえば玄関にも大きな段ボールが3個くらいあったな。あれも赤ちゃんグッズなのだろう。ベビーカーとかチャイルドシートとか、他にも買わなきゃいけない物は山ほどあるだろう。

 これから妹は母になるんだな、と思うと色々感慨深いものがある。

 姉が出産した翌日に母と俺で病院に行って初めて姉の赤ちゃんを抱っこした時、これが生命の神秘か、と感銘を受けたが、実際に赤ちゃんを産んだ人だけが分かる感情もあるんだろうな。


「今日ね、ママと2人で色々赤ちゃんのもの買いに行ってきた」

「そうか。無事に生まれると良いな。健康が1番だ」

「うちは帝王切開だから、なんか気楽。最近の帝王切開ってね、傷がこのくらいの長さなんだってさ」


 くるみは、自分の親指と人差し指で長さを示した。想像よりだいぶ短い。


「ほーん」


 アパートに帰ったら、帝王切開についてパソコンで詳しく調べてみよう。

 やがて、俺は母に訊ねた。


「そうだ。お母さん、俺のスーツってどの部屋にあるっけ?」

「トイレの横の部屋にある」

「分かった」


 俺はリビングを出て、トイレの横の物置のような狭い部屋に入った。

 色んな物が置かれている。部屋の上方に服のハンガーを掛ける棒があり、礼服やスーツなど普段あまり着ない服がハンガーで掛けられていた。カバーが掛けられた服がたくさんある中、俺は自分のスーツを発見した。


「よし、これだな」


 俺はスーツを手に取り、部屋を出た。

 そのまま帰ろうかと思ったが、どうせ久しぶりに実家に来たのなら、何かアパートに持って帰ろう。

 そう思い、俺はスーツの掛けられたハンガー片手に2階に上がり、かつて俺の部屋だった部屋に入った。その部屋には物がほとんど置かれていない。だが主にCDや小説や漫画などが本棚にたくさん入っている。

 

「うーん……。どうせなら夏希が楽しめるものが良いな……」


 でも、今の夏希の鬱の精神状態で小説を読むのは疲れるだろうし、漫画も疲れるだろう。CDはもう時代遅れだ。現代は音楽サブスクの時代である。ああ、高校時代の野球部の部活の帰り道にTSUTAYAに1人で寄ってCDをレンタルしていた日々が懐かしい。

 ん? 高校時代?

 あ、そうだ。中学時代と高校時代の俺の卒業アルバムを夏希に見てもらおう。テーブルの上に黙って置いておけば、そのうち自然と見るだろう。夏希は俺の過去に興味など無いかもしれないが。

 2冊の卒アルを手に持ち、俺は階段を下った。

 そしてリビングのスライドドアを少し開けて顔だけを出し、


「じゃあアパートに帰る。またね」


 と言った。


「じゃあね~」と妹。

「じゃあ、また」と母。

「……」と猫。


 ◆


 俺は実家を出た。

 そういえば、俺に同棲している彼女がいることは家族には言っていない。というか、友人や知り合いにも言っていない。俺に恋人がいることを誰も知らない。わざわざ言う必要が無いから言ってない。

 俺は車の助手席にスーツと卒アル2冊を載せ、エンジンをかけ、


「エヴァンゲリオン初号機、発進! さぁ、ぶちかますぜ父さん!」


 と言ってギアをパーキングからドライブに移し、ブレーキから足を離してアクセルを踏んだ。

 俺は碇シンジ君とは違い、いつもエヴァに乗るときは熱血モード全開だ。

 このままアパートに帰ろうかと思ったが、コンビニに寄って履歴書や夏希の缶チューハイを買ったり、書店に寄って面白そうな小説を買ったり、前から気になっていた哲学書を買ったりして帰宅した。


 ◆


 アパートの駐車場にエヴァンゲリオン初号機を停め、荷物を持って2階まで上がり、●●●号室の鍵を開け、玄関で靴を脱ぎ、9.5畳の部屋に入った。部屋は暗くなり始めているが、電気は点いてない。


「……」


 俺の部屋にはベランダに続く大きな掃き出し窓がある。そのガラスは、すりガラスだから、窓の向こう側は強いモザイクが掛けられたように曖昧だ。

 すりガラスの向こう側にパジャマを着ている夏希の姿が見えた。

 ベランダでタバコでも吸ってるのだろう。

 俺はスーツのハンガーを物干し竿として利用している「ぶら下がり健康器」に引っかけて、履歴書と卒アル2冊をテーブルに置き、冷蔵庫に夏希の缶チューハイを何本も入れ、紙タバコとライターと携帯灰皿を持ってベランダに続く窓を開けた。

 窓が開かれても、夏希はこちらをわざわざ振り向かない。ただ煙だけが無音でゆっくり立ち昇り、宇宙へ散っていく。

 夕暮れの中、感傷を捨てた俺は夏希の右隣に立って、タバコを無表情で吸い始めた。

 それから30秒くらい経って夏希が喋り始めた。


「私ね」

「うん」

「タバコ吸ってる時が1番落ち着く」

「俺も」

「さっき、そこの道をうるさい高校生が通ってね、それを見て私『あいつら全員今すぐ車に轢かれて死ね』って思っちゃった。駄目だよね」

「人は何を考えようが自由だ」

「あの高校生たちを見てたら思い出した。私、これでも学生時代の勉強の成績は良かった。優等生だった。でも大人には、なれなかった」

「そっか」

「優等生だったはずなのに、“普通”にすら手が届かなかった」

「うん」

「優雅は学生時代は成績よかった?」

「よかった。高校は途中から不登校になったから成績うんこだったけど」

「優雅も、元は優等生なのに普通にはなれなかったんだね」

「──今、夏希は“普通中毒”に陥ってるな」

「普通中毒?」

「──バズマザーズっていう最高のバンドが過去に出した最高のアルバムの名前だ」

「ふーん。優雅が最高って言うなら、今日聴いてみる」

「夏希は“普通に囚われすぎて普通中毒になっている”。普通の基準は人の数だけある。俺は社会不適合者だから、社会で上手くやれてる人たちが全員異常者に見える。逆に、社会不適合者に対しては『普通の奴だな、俺の仲間だ』と勝手に感じてる」

「私も同じ考えかも」

「俺が今まで病んでる人とばかり自然と仲良くなったのは、関わってて気楽だからだ。死にたい人とは波長が合って、その度に俺は生きたくなった。俺も死にたかったからだ」

「死にたい人と関わって生きたくなるなんて、変な人だね」

「変でも良いんだよ。この世界に生きてて1ミリも狂わない人の方が狂ってるんだから」


 俺は無表情で煙を吐いた。

 左を見ると、夏希は無表情で煙を吐きながら、どこか遠くの方を見ていた。

 タバコの煙が宇宙の果てに導かれて、そっと散る。


「人はどうして産まれるんだろうね」と夏希。

「うーん。産まれること自体に特に意味は無いと思う。生きることにも特に意味は無いと思う。死ぬことにも特に意味は無いと思う。俺はそう考えるようにしたら自分の心が軽くなったよ。『この世の全てに意味が無いなら、どう生きたって俺の自由じゃん。法律の範囲内で好き勝手やらせてもらうぜ』って」

「その考えだと、周りからヤバい奴だと思われちゃうよ?」

「勝手に思わせとけばいいんだ。所詮、他人は他人だ。俺と夏希も、いくら心が通じ合ったとしても、それぞれ個別の意識を保有する他人であることに変わりはない。あと、哲学者で言えばサルトルとニーチェが夏希の『人はどうして産まれるのか』って悩みを解決してる。今度、実家から2人の本を持ってくる」


 俺がそう言い終わった瞬間、俺のスマホが振動し始めた。電話だ。誰からだ?

 ポケットからスマホを取り出すと、母からLINEの電話が来ていた。

 その場で俺はすぐ出た。


「はい、もしもし。どうかした?」

『あのね、美咲(仮名)の精神状態がものすごく悪くて、明日から●●病院に入院することになったんだよ』

「そうなんだ」

『お母さんから頼みがあるんだけど、聞いてくれる?』

「うん」

『くるみの出産も近いし、もし優雅まで精神科に入院するようなことになったら困るんだよ。もう精神的にやっていけない』

「大丈夫。俺は精神が安定してるから」

『ほんとに頼んだよ』

「分かった。じゃあね」

『はい』


 そこで俺は通話を切った。


「誰からの電話?」


 と夏希に聞かれた。


「俺の母親から。俺のお姉ちゃんが明日から精神科に入院することになったんだってさ。俺の家庭も色々ある」

「なんか、優雅は随分淡々と喋ってたね。お姉ちゃんが入院するんでしょ?」

「こんなの正直いつもの事だから、なんとも思えなくて」

「そっか」

「うん。これが俺にとっての“普通”だな」


 ◆


 カレンダーを見たら、今日は金曜日だった。

 夜。

 夏希はテーブルに置かれた俺の学生時代の卒アルを見ながら、酒を飲んでいた。

 俺はペットボトルの緑茶を飲みつつ、ノートパソコンで帝王切開の詳しい方法について調べていた。


「中学時代の優雅、めっちゃ陽キャじゃん。おもしろ」

「今じゃ考えられないよな。野球部の副キャプテン。学級委員長もずっとやってた」

「へえ、意外」

「人生いつどこで何がどうなるか分からん。良くも悪くも」

「だね」

「俺はどんどん人生を転落していったけど、転落先も案外居心地が良かった」

「今は、幸せ?」

「うん。幸せだよ。俺の人生は仮に心が絶望に溢れてる時でも常に完璧だ。絶望を超えた先にしか真の希望は見えないからだ。絶望してる人間は、未来で真の希望を掴み取る可能性がある。だから、俺はいつでも幸せだ」

「ポジティブだね」

「死にたい夏希が今日も生きてくれてるからだ。だから俺は明日も生きたい」


 俺は笑って、夏希の目を見て堂々とそう言った。

 すると、鬱状態の夏希も「そっか」と微笑んでくれた。











 ~終わり~










【あとがき】


小説のテーマ上、俺をニートにしたが、筆者は一応労働している

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