第5話

「……」

 ごくりとのどが鳴る。

 もし、これが本物だとしたら、幼いあの日に出会った生物も人魚に違いない。

 震える手で腰にある肌と鱗の境目に手を当てた。ザラリと硬い感触がする。どこにもつなぎ目のようなものはなく、感触が違う二つの肌が一つの体を作っている。


「すごい……」

 撫でるように手のひらを動かすと、鱗はザリザリとこすれ玉虫色にきらめいた。一枚一枚の鱗は大きく光り輝いている。

「ほんとうに」

 幼子のように同じ言葉を繰り返していた。取り繕うことができないくらい動揺していた。本当に人魚は実在したのだ。

「人魚」

「ひお、ですよ。三井さん」

 茫然と人魚に触れる三井をじっと見つめていた紀が、三井の肩を抱いた。


「ひお。…でもどうしてこんな秘密をぼくに…」

「だって、あなた、人魚に会ったことがあるんでしょう? ひおは信用できる人間の前にしか姿を現さない。あなたが人魚を見たっていうのならそれはひおがあなたを信用しているっていうことと同じだ。ひおもあなたに会いたがっていた」


 そうだ。目の前のひおに会いたかった。恋をしていた。


「もっと、触っても?」

「いいですよ」

 陶器のように滑らかな頬に触れる。ひんやりと冷たくそれは死体を連想させるような蠟がかった肌だった。小さな顔に似合わない大き目の唇は厚く膨らみ、官能的でさえある。親指でなぞるとひおはくすぐったそうに身をよじった。

「本当に、美しい」


 間近で見つめるとひおもじっと視線を合わせた。真っ黒な瞳の奥に感情の動きはなく、ぽっかりとあいた空洞に魂を吸い取られてしまうかのような錯覚を覚えた。

「…紀さんは、ずっと、ここでひおと?」

「そうですね。ずっと、暮らしていますよ」

 ふいに、ひおの眉が苦し気にゆがんだ。唸るような声が喉から漏れる。

 それに気がついた紀が三井からひおを離し手を取った。

「失礼。少し休ませても?」

「あっ、すみません」

 ひおを見ると陶器のような肌は乾き始め、そこからパリパリとひび割れが広がっていた。


「ごめん。乱暴だったかい」

 三井の問いには答えず、ひおは紀に頬をすりよせるとなまめかしい動きで水の中に潜り込んだ。すぐに姿は見えなくなり、最後に波紋だけが残されていた。

 紀は沈むひおを見送ると三井に向き直り「乾燥は大敵なもので」と微笑んだ。


「どうですか?何か参考になりそうでしょうか?」

「えっ」

「小説の」

 ああ、と三井は呟いた。

 心を奪われたかのように、すっかりそのことは頭から抜け落ちていた。ただひたすらひおに触れたいと思っていた。

「はい」

「……心ここにあらず、という感じですね」

 紀は口元を少しだけあげて三井を視線で促した。

「少し休ませてあげないと。またあとで会わせてあげましょう」

「ぜひ!」


 もう一度、ひおに触れたいと三井は心から願った。

 夕暮れが迫り、家の中に灯りを入れた三井は「食事の用意をしてきましょう」と席を立った。

 ランプに灯される部屋の中にはたくさんの書物が整然と本棚に収まっていた。好きなのを読んでいていいとのことだったので物色することにする。

 案の定本棚には幻想に生きる生き物についてや神秘的なもの呪術的なもの……普段手にすることのないような本ばかりが並んでいた。もちろん人魚について書かれた書物もたくさんあった。

「八百比丘尼…」

 とある地域に伝わる伝承で、人魚の肉を食べた娘がいつまでたっても年を取らず、周りの人間だけが何度も死んでいく。取り残された娘は自分を悲観して尼になって諸国を回ったという話だ。


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