【婚約破棄】法務部の俺を敵に回した結果、エリート(笑)な君たちは社会的に終わりました

@flameflame

第一話 平穏な同棲生活と、観葉植物だけが知る「水やり」の違和感

「おかえりなさい、涼介! 出張お疲れ様」


 玄関のドアを開けると、甘い声と、シチューのいい匂いが同時に俺を出迎えた。

 リビングからパタパタとスリッパの音をさせて駆け寄ってきたのは、俺の婚約者である水無瀬美優(みなせみゆう)。

 艶やかなブラウンの髪を揺らし、非の打ち所がない笑顔を浮かべている。


「ただいま、美優。いい匂いだ。今夜はシチューか」

「うん! 涼介、最近忙しそうだったから、野菜たっぷりにしておいたよ」


 三日間の大阪出張。たったそれだけ家を空けただけなのに、この「完璧な日常」に戻ってくると、ひどく安心する。

 俺、氷室涼介(ひむろりょうすけ)、28歳。中堅メーカーの法務部所属。

 そして彼女が、美優、27歳。大手広告代理店に勤める、自慢の婚約者だ。


 俺たちは交際5年を経て婚約。二ヶ月後には、都内の有名ホテルで式を挙げる。招待状もすでに発送済みで、親しい友人たちからは続々と出席の返事が届いているところだ。

 この新築マンションに移り住んで、同棲を始めて三ヶ月。

 真新しいシステムキッチン。二人で選んだ揃いのマグカップ。リビングに置かれた、少し奮発したソファ。

 すべてが順調だった。

 すべてが、完璧なはずだった。


「あ、そうだ。ごめん、涼介」


 荷物を置いてリビングに入った俺に、美優が「しまった」という顔で手を合わせた。


「例の観葉植物、水やり、忘れちゃったかも……」

「ああ、モンステラか。まあ、三日くらいなら大丈夫だろ」


 俺はそう答えながら、リビングの窓際に置かれた、趣味の一角へと歩み寄った。

 俺の趣味は、観葉植物の世話だ。

 特に今、一番手をかけているのが、この「モンステラ・デリシオーサ・イエローマリリン」。希少な斑(ふ)入りの品種で、購入価格は……まあ、安くはない。

 美優は「草にそんなにお金かけるなんて」と笑うが、俺にとっては大事な癒しだ。


 だが、その大事なモンステラの様子が、明らかにおかしかった。

 みずみずしい緑色のはずの葉が、ところどころ黄色く変色し、元気がなく垂れ下がっている。


「……あれ?」


 俺は屈み込み、鉢の土に指を突っ込んだ。

 カラカラに乾いている……わけではない。むしろ、異常に湿っている。まるで、ついさっき大量の水をぶちまけたかのように。

 受け皿には、濁った水がなみなみと溜まっていた。


「あー……ごめん! 今朝、慌ててお水あげたんだった! 多かったかな?」


 背後から、美優が慌てたように言った。


「そうか。……いや、大丈夫だ。ちょっと根腐れしかけてるかもしれないが、処置すれば間に合う」

「よかったぁ。枯らしちゃったら涼介に怒られるもんね」

「怒りはしないさ。それより、手がベタベタするな……」


 葉に触れると、何か粘着質なものが付着している。甘ったるい匂い。

 俺は眉をひそめた。


「美優。シチュー、先に食べててくれないか。こいつの世話、先に済ませたい」

「えー、一緒に食べようよ。せっかく作ったのに」

「すぐ済む。頼む」

「……もう、わかったよ。冷めないうちにね」


 美優がキッチンに戻っていく背中を見送り、俺はもう一度、土の匂いを嗅いだ。

 これは、水じゃない。

 微かに、アルコールと糖分の匂いがする。


 ……ビールか?


 なぜ、観葉植物にビールが?

 嫌な予感が、背筋を走った。


 俺はスマホを取り出し、あるアプリを起動する。

 俺は法務部という職業柄、何事も「記録」と「証拠」を重視する癖がある。

 このモンステラにも、土壌の水分量と温度を24時間監視し、一定値以下になれば自動で適量の水を供給する、実験的な自動水やり機を接続していた。

 もちろん、美優には「出張中、水やりを頼む」としか伝えていない。万が一、彼女が忘れた時のための保険であり、俺の趣味の実験でもあるからだ。


 アプリのログを開く。

 俺が出張に出た日の夜。水分量が低下し、自動で「300ml」の水が供給された記録。

 その翌日。まだ水分量は十分なはずなのに、グラフが異常な数値を叩き出していた。水分量が急上昇し、危険域に達している。

 そして、今朝。美優が「慌ててあげた」という時間。そこでも、さらにグラフが振り切れていた。


 つまり、こうだ。

 俺が出張中、美優ではない「誰か」がこの家に来ていた。

 そして、その「誰か」が、ふざけてか、あるいは無知からか、このモンステラにビールか何かを飲ませた。

 慌てた美優が、今朝、証拠隠滅のためにさらに大量の水をやり、結果、根腐れを加速させた。


 美優は、俺がいない間に、男を連れ込んだのか?


 思考が、急速に冷えていくのを感じた。

 法務部の人間として、最悪の事態を想定し、常に冷静に、客観的な証拠を集める。それが俺の仕事だ。


「……涼介? まだ?」

「ああ、今行く」


 俺は平静を装って立ち上がり、手を洗う。

 シチューを前に「美味しいね」と笑う美優の顔を、俺はいつもと同じように見つめ返した。


 食事を終え、美優が風呂に入っている隙に、俺は書斎に向かった。

 書斎の隅にも、観葉植物がある。

 そして、その鉢植えの陰には、もう一つの「趣味」が設置してあった。

 リビング全体を見渡すことができる、小型のセキュリティカメラだ。

 表向きは「観葉植物の定点観察用」だが、本当の目的は、万が一の空き巣被害に備えた防犯用だ。もちろん、美優には伝えていない。プライバシーの問題があるからな。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。


 クラウドに保存された録画データを確認する。

 俺が出張に出た日の夜。

 ……いた。

 ソファでくつろぐ美優と、見知らぬ男。いや、違う。こいつは知っている。

 火野翔(ひのかける)。美優と同じ広告代理店に勤める同期で、一度だけ、飲み会で紹介されたことがある。

 「涼介さん、カタブツっぽいっスねー」と、ヘラヘラ笑っていた男だ。


 映像の中の二人は、明らかに「友人」の距離感ではなかった。

 火野が美優の腰を抱き、キスをしている。

 二人で缶ビールを開け、ソファで笑い合っている。


 そして、最悪の瞬間が記録されていた。

 火野が、飲みかけのビールの缶を持ち、フラフラと俺のモンステラに近づいた。


『なあ、これ、すげー高いんだろ? 美優の婚約者、趣味悪ぃのな』

『やめなよ、翔。涼介の大事なやつなんだから』

『いいじゃん、栄養だって。ほら、飲め飲めー』


 火野が、残ったビールを鉢植えに注ぎ込む。

 美優はそれを、本気で止めるでもなく、ただ笑ってみているだけ。


 俺は、音を立てずに録画を停止した。

 怒り? いや、そんな生易しい感情ではない。

 湧き上がってきたのは、冷たい、殺意に近い侮辱への憤りだ。

 俺が5年間愛した女。

 俺が築き上げてきた平穏。

 そして、俺の大事なモンステラ。

 そのすべてを、こいつらは土足で踏みにじった。


 ……いいだろう。

 法務部の俺を、ただの「カタブツ」だと思ったことを、後悔させてやる。


 俺はまず、映像データを複数のストレージにバックアップした。

 次に、美優が「会社で使うから」と俺の家族カード(サブカード)で決済していた、最近の高額な買い物をチェックした。

 ……ある。

 出張の一日前。「最新型マッサージチェア」。18万円。

 リビングにそんなものは置いていない。

 おそらく、火野の部屋にでも運び込まれたのだろう。俺の金で。


 証拠は揃った。

 あとは、いつ、どのように「執行」するか。

 結婚式まで、あと二ヶ月。

 招待状は発送済み。キャンセル料が最高額に跳ね上がるタイミングは、いつだったか。


 俺は、式場の契約書をファイルから取り出した。

 ああ、ちょうどいい。

 式の一ヶ月前だ。


 俺は完璧な「優しい婚約者」の仮面を被り直し、書斎を出た。


「お風呂、空いたよ。いいお湯だった」

「ありがとう、美優」


 俺は美優の肩を抱き、笑顔を向けた。


「結婚式、楽しみだな。人生で一度きりの、特別な日になる」

「……うん! そうだね、涼介!」


 無邪気に笑う美優の顔を見ながら、俺は心の中で、その「特別な日」のプランを練り始めていた。

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