3 嵐の日

 カイは、バイトから帰ると、ただいまの挨拶一つせずに、家の扉を開けて、玄関で靴脱いだ。当然、おかえりという言葉も聞こえなかった。


 カイの住んでいる家は築50年以上の平屋建てで、お世辞にもきれいとは言えず、外壁の一部は台風によって剝がれ、屋根の瓦もいくつか飛んで行ってしまっていた。朝起きた時には、家の周りに飛び散った瓦を見える範囲で拾い、それを何とか屋根にくっつけようとしたが、ダメだった。その日以降、雨の日になると、毎回、規則正しく整った雨音が家の至るところから聞こえるようになった。


 ただ、昔ながらの家がそうであるように、部屋の数は豊富にあった。畳の部屋が連なり、カイは、自分の部屋が確保できていたから、不思議とこの家に文句はなかった。


 この家では、カイとアキの2人で生活をしている。アキが生まれるときに母が亡くなり、その後は、父が男出ひとつでカイとアキの面倒を看てくれていたが、父も母を亡くしたショックで精神的に不安定な状態が続き、3年前に父も突然いなくなってしまった。


 父がいなくなってから、近くに暮らしていたおばさんがこの家に来てくれて、面倒をみてもらうことになった。

 ただ、実態はその逆で、カイが、そのおばさんの分まで毎日の食事や洗濯などの家事を全てこなしていた。後でわかったが、このおばさんは、父や母と血のつながりはなく、ただの知り合い程度の関係で、身寄りがなく、藁にもすがる思いで、カイたちのところに来たそうだ。


 そのおばさんも高齢だったため、今は病院で入院生活を続けている。それから、カイとアキは、この家で二人暮らしをしているが、おばさんがいる生活よりは幾分気楽であった。

 

 カイは、いつもアキがいる一番奥側の部屋に向かって行った。その部屋は元々父が使っていた部屋だ。

 襖の扉を開けると、アキは、亡くなった母が大事にしていたフクロウのぬいぐるみをお腹に乗せながら本を読んでいた。この部屋は、八畳ほどの部屋だったが、壁には本棚が所狭しに置かれ、その本棚には、小説、辞典、図鑑といった様々な本で埋め尽くされていた。


「今からご飯作るから」


 カイはそれだけ言うと、アキの返事を待たずに扉を閉めた。カイとアキとの会話は、お風呂入る、寝る、ご飯できた、といった会話とはほど遠い、報告・連絡のみが常態化していた。


 アキは父がいなくなった後、ほとんどしゃべらなくなってしまった。まだこの家におばさんがいた頃、おばさんがアキに話しかけても反応がなく、ただ、布団に顔を突っ伏したままの態勢でほとんど動かなかった。この当時、無視をするアキに対するおばさんの怒りは、すべてカイにぶつけられていたが、カイも、精神的に落ち込み、やり返す気力もなく、そして、段々何も感じなくなっていった。


 父がいなくなった時、アキはまだ小学4年生。父がいなくなったことは理解できていたが、気持ちの整理の仕方はまだ理解できていなかったようだった。そして、カイはアキの精神面を支えるほど、自分にも余裕もなかった。

 

 その結果、二人の間で会話がほとんどなくなった。


 カイは、夕ご飯を作るためにキッチンに行くと、リビングの机に一冊の本が置いてあるのが見えた。


「サカサマの世界」


 作者の名前が削り取られているのか、読み取ることができなかったが、この本はもともと父の本であることは覚えていた。中身はただの絵本で、父がいなくなってから本棚に隠されるように置いてあるのをカイが見つけたものだ。一度読んだことはあるが、抽象的な中身で、よく意味がわからなかった。


 カイは、本を見て、父がいなくなった日のことが頭の中に広がり出した。この日の記憶は、ふとした時に何度も頭に蘇る。


 あれはちょうど3年前の同じ夏の時期だった。


 母が亡くなってから、父は変わってしまった。父は仕事の時以外は、自分の部屋に閉じこもるようになり、カイとアキが話しかけても全く反応がなかった。精神的に病んでしまったのだろう。カイは父に、病院に行くように何度言っても、「うるさい」の4文字しか返ってこなかった。


 父が、精神的に落ち着いて、まともに話をするときは、決まって、「お父さんがいなくなったら、カイがアキのことを守ってあげてくれ」と言っていた。


 カイはそんな頼りない父の姿をみて失望していた。


 父は市内から少し離れたところにある図書館の司書をしていた。稼ぎがいいというわけではなかったと思うが、父は本が好きだったから、その仕事を続けていた。


 父の仕事は残業がなかったため、いつも夕方6時過ぎには帰ってきていたが、父がいなくなったその日は、6時を過ぎても、父は帰って来なかった。


 この日は、台風が来ているという朝の天気予報どおり、雨が次第に強くなり、雷も時より鳴り響いた。湿度も高く、じめっとした空気がTシャツにまとわりつく。


 この当時、カイは、今のアキと同じ13歳。周りからは、しっかりしているとよく言われていたが、環境がそうさせていると思うと、いい気持ちはしなかった。


 父がいつもの時間に帰って来ないことは初めてで、カイは、部屋に置いてある小さな時計の針が進んでいくのを繰り返し見ては、胸が苦しくなっていた。


――事故、事件。


 カイは不穏な想像をしていた。アキはそんな不安そうなカイの様子を見て、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


「アキ、お父さんなら大丈夫だよ。きっと急なお仕事でもあったんだよ」カイは、自分にも言い聞かせるように、アキを励ました。


「本当?」

「本当だよ」

「お兄ちゃんがアキのことは絶対に守るから、安心してね」


「うん」と弱々しくアキは返事をした。


 その会話の後、2人はしばらく黙ってしまった。


 雨の降る音と雷の音がどんどん強くなっているように感じた。7時、8時とただ時間だけが過ぎていったが、「ただいま」という父の気の抜けた声が聞こえることはなかった。


――おかしい。絶対におかしい。


 カイの不安は頂点に昇り、我慢できなくなった。そして、カイは9時を過ぎた段階で覚悟を決めて立ち上がった。


「アキ。お兄ちゃんが、図書館にお父さんを迎えに行ってくるよ。必ず見つけるから」

「私も一緒に行く」アキも立ち上がった。


「台風が来ていて危ないから、アキは家で待っていて」 

「嫌! 私もいく!」

 

 カイは、アキの態度に苛立ちを感じたが、アキがこうなると頑固のはよくわかっており、いつもカイが諦めざるを得なかった。


「わかったけど、絶対にお兄ちゃんから離れちゃだめだよ」


 カイとアキは、カッパを着て、懐中電灯を握りしめ、急いで家を出ることにした。

 

 外は月明りもなく、真っ暗だ。家の周りは、田んぼが多く、いくつかある家も電気が付いているところはなく、街灯の電気も心なしかいつもより暗くなっているように感じた。カイたちの不安をよそに、雷の音と光が、家にいる時よりも大きくなっていた。

 

 カイたちの家から図書館までは大人の足でも30分ぐらいはかかる。こんな時間にバスも走っていない。図書館までの道のりは平坦ではあったものの、台風の影響で風も雨も強く、まっすぐ歩くのもやっとだった。


「アキ、大丈夫か」

「大丈夫」

 そのとき、ちょうどカイの右手側にあったご神木山に、一筋の光が落ちたように見えた。


――雷に打たれたのか。


 ただ、雷の音が鳴らず、少し不思議に思ったが、カイにとっては、今はそれどころではなかった。カッパの隙間から雨が入り込み、2人の服はすぐにずぶ濡れになり、雨なのか、汗なのかわからなかったが、濡れた髪が顔にへばりついていた。


 歩き続けて1時間ぐらいが経過した。


 周りには、3、4階建てのビルや飲食店が立ち並んでいるものの、台風の影響でどこもシャッターが閉まっており、歩いている人もいなかった。


――おかしい。


 腕時計を確認したカイは思った。


 いくらアキと一緒とはいえ、1時間もかかる距離ではなかった。ふと冷静になって、辺りを見渡すと、カイは今どこにいるのかわからなくなっていた。今まで何度も父が働く図書館に遊びに行っていたが、それはいつも日中だった。夜になると、景色が大きく変わり、建物一つ一つが大きな怪獣のように見えた。


「アキ、ここがどこかわかる?」とカイは、立ち止まって、恐る恐る聞いた。


「えっ?」カイの少し後ろを歩いていたアキも、立ち止まった。雨がなるべく入らないように目を細めていた。「わからないの?」


「ごめん。アキはわからない?」


 アキも辺りを見渡したが、「わからない」と呟いた。「ねぇ、お兄ちゃんが行こうって言ったんだよ! お兄ちゃんのせいで、迷子になったじゃない!」


「わかってるよ。だから、アキは家で待ってろって言ったんだ! アキがついてくるから、こんなことになったんだ!」


 カイは不安感から思ってもない言葉が次々と飛び出した。それを聞いたアキは、一瞬にして顔がくしゃくしゃになり、声を上げて泣き出した。カイは、アキが泣く様子をみて、自分も泣き出しそうになるのを、口を真一文字に閉じて耐えていた。


「もう知らない!」


 アキはそう叫ぶと、その場から一目散に駆け出した。カイは「ちょっと待って!」と叫んだが、雨音にかき消されて、アキに聞こえたのかわからなかった。


 アキが1人で走り去ったのを見たのを最後に、そこからカイの記憶は飛んでいる。

 

 覚えているのは、激しい水の音、息苦しさ、アキの名前を叫んだことだけ。

 

 気が付くと、カイとアキは、警察に保護されていた。アキに後からどうなったか聞いたが、アキも同様に何も覚えていなかった。ただ、カイもアキも全身ずぶ濡れだった。

 

 警察から事情を聞いた近くに住む友達の両親が迎えにきてくれて、アキとカイはその友達の家に一旦行くことになった。


 アキは、友達の車の中で、安心したのか泣きじゃくっていた。帰りのことも、ほとんど覚えていなかったが、友達の家に着くと、2人ともすぐに寝てしまったらしい。


 目が覚めると、雨は止み、カーテンからまぶしい光が漏れていた。


 ただ、朝になっても、父は見つからなかった。

 

 あとで警察から聞いた話では、父はいつも通り6時で仕事を終え、図書館を出ていったそうだ。つまり、カイたちが図書館に行ったのは全くの無駄足だった。その後の行き先は全くわからず、市街地の防犯カメラの映像で、父が歩いている姿が目撃されていたが、それ以降の足取りは全くわからなかった。

 

 唯一の手掛かりといえば、ご神木の枝に父の懐中時計がかけられていたことぐらいだった。これはしばらくして見つかり、偶然、カイの手元に帰ってきた。

 この懐中時計は、母が亡くなった後も父がいつも大事そうに身に着けていたものだ。母からのプレゼントと聞いている。

 警察の捜査も、失踪として片づけられ、早々に打ち切られてしまった。

 

 そして、父は今も見つかっていない。

 

 なぜカイたちを置いていなくなったのか。どうやってカイとアキの二人で生活をしていけばいいのか。

 カイの心には、次第に、寂しさから怒りに似た感情が広がっていくようになっていった。カイはそんな自分が心底嫌いだった。


――そういえば、アキに親父を見つけるって約束したんだな。


 カイは、思考を切り替えるように頭を振った。そして、カイは、料理をするためにここにきたことを思い出し、冷蔵庫を勢いよく開けた。

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