第9話 段ボール男の恩返し
■取材記録:段ボール男の恩返し
【取材日】令和六年二月
【聞き取り対象】S氏(四十歳・区立図書館勤務)
話を聞いたのは、年が明けて間もない寒風吹きすさぶ夕暮れ時だった。
都内某所の図書館に勤めるS氏は、控えめな口調ながらも記憶のひとつひとつを丁寧に辿るように語ってくれた。
「信じてもらえるか分からない」と前置きした上で、彼は五年前のある“奇妙な恩返し”について口を開いた。
「帰り道の駅前に、いつからか段ボールで寝ている人がいたんです。年の頃はわからないけど、髪も髭もぼさぼさで、顔の大部分が隠れていて。声も聞いたことがなかったし、誰かと話してるのも見たことがなかった。ただ、決まって駅前のロータリーの隅の、植え込みのあたりに寝てた。何年も、雨の日も雪の日も、同じ場所で」
S氏がその“男”に初めて関わったのは、平成の終わり頃だったという。ある晩、駅前で高校生の集団がその男に向かって空き缶を投げたり、段ボールを蹴ったりする場面に遭遇した。
「見てられなくて、つい声を出して止めたんです。『やめなさい!』って。それだけで彼らは散っていったけど、そのあと、段ボールの中からぼそっと『……すまん』って声が聞こえた。初めて聞く声でした」
以来、S氏は週に一度、勤務終わりに温かい飲み物や軽食をそっと置いていくようになったという。
返事があるわけでも、会話が続くわけでもなかった。ただ静かに、一定の距離を保ちながら、その奇妙な習慣は続いた。
「半年くらい経ったある日、急にいなくなったんです。段ボールも、毛布も、まるで最初から存在しなかったみたいに綺麗に無くなってた。駅の清掃が入ったのかとも思ったけど、職員に聞いてもそんな予定はなかったって言われて」
不思議に思いながらも、日々の忙しさに紛れてそのことはやがて記憶の奥にしまわれていった――はずだった。
「問題は、その“あと”なんです」
段ボール男が姿を消してから数日後、S氏はある“発見”に困惑した。通勤の電車を降りたとき、カバンの中に身に覚えのない封筒が入っていたのだ。封はされておらず、中身は紙片が一枚。
そこには、こう書かれていた。
《恩、しかと受けたり。忘れずに候。》
《人は見た目によりて裁き、言葉によりて値踏みす。無言にて差し出された手こそ、真なる誠の証なり》
「筆文字のような不思議な書体で、墨のようなもので書かれてました。誰かの悪戯かと思ったけど、他に考えられないんですよ。なぜなら、その日を境に、なんだか変なことが起き始めたんです」
S氏によれば、それ以降、不可解な“偶然”が続くようになったという。
通勤電車は必ず座れる位置に停まり、貸し出し延長で揉めていた利用者が急に態度を改めた。年末調整ではわずかだが思わぬ還付があり、普段は当たらない地域商店街の福引で商品券が出た。
「小さな幸運」ばかりだが、あまりにも連続して続いた。
「もちろん、偶然だと言われたらそれまでです。でも、あの封筒が入っていたのが“鍵付きのカバン”の中だったっていうのがね……どうしても納得できなくて」
そして、もうひとつ。話を締めくくるように、S氏は小さな布袋を取り出した。
「これ、最近になって机の引き出しの奥から出てきたんです。いつの間にか入ってた。中を開けると、……乾いた小さな木の実が一粒だけ、入ってました。どんぐり……というか、狸が持っていそうな……。なんとなくですけど」
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