第2話「月下の群れ《ヴァルグ》 ―掟と絆―」

 月影の掟

 ヴァルグ


 月を仰ぎて吠えるは、孤独ではない。

 十の影はひとつの意思。

 牙は掟を守るために裂き、血は群れを繋ぐために流れる。

 情より理を選び、夜を統べる者――それが、ヴァルグ。

 ================================================


 夜が森を薄い硝子のように覆っていた。

 ユェントン地方・灯ノ原国の北東、針葉樹の海に人々は“月影の森”という名を与えた。満月が昇ると、雪面は昼のように明るく、音だけが深くなる。枝が軋み、霜が砕け、その隙間で生命が呼吸する。


 遠吠えがひとつ、澄んだ刃のように立ち上がる。応える声が二、三、四――やがて森は一体の喉となり、長い息を吐く。十余りの影が、雪の斜面を滑るように駆け下りていた。先頭は灰銀の毛並み、片耳の欠けた雄。群れの長、グレイマント。彼は足音で地の凍り具合を測り、風向きで獲物との距離を量る。


 獲物は老いたシカだった。肺の片方が弱り、跳躍に迷いがある。群れは半円を描き、斜面の下で進路を塞ぐ。幼い雌が前を走り、次の瞬間、右へ切れる。グレイマントは左へ。逃げ道がふたつに見えたとき、獲物は立ち止まる。そこへ背後から若い雄が突っ込んだ。


 フェン。乳歯の頃から走りが速すぎる若狼。

 彼は掟を忘れていた。合図より早い牙は、群れの形を崩す。


 シカは跳ね上がり、蹄がフェンの肩を打つ。血の匂いが散った。半円は歪み、追い込みは失敗する。グレイマントは唸り、呼吸を一度だけ深くする。追撃の合図は出さない。群れは止まり、老いたシカの雪煙が遠ざかるのを見送った。


 狩りは成功でも失敗でもなかった。ただ、夜が続いてゆく。


 月は森の上で角度を変え、樹々の影は長く短く揺れている。

 群れは川筋へ向かった。薄氷の下では小魚が眠っている。母狼は仔を舐め、仔は母の腹に爪を立てる。フェンは肩の痛みに身を伏せ、息だけ荒い。グレイマントは彼を見やり、何も言わない。言葉は群れにない。あるのは順番と距離、目線と体の向きだけだ。


 霜の上に、人の匂いがまざった。

 古い油、濡れた革、火薬が石に擦れた粉の匂い。


 森の縁から、ひとりの狩人が入りこんでいた。旅装の男。毛皮の中に硬い布を仕込み、背に矢束。彼は狼の毛皮を手に入れるつもりだった。月影の森では、ヴァルグを討った話が村の酒場で金になる。語り手はいつも、冒頭を誇張し、結末を曖昧にする。


 フェンが立ち上がる。

 まだ終わっていない、という顔だった。

 グレイマントは尾を低く振り、進路を塞ぐ。若い眼が、長の喉元を一瞬だけかすめ、すぐに逸れた。雪が弾け、フェンは森影へ消える。


 群れは追わない。掟がある。

「離れた者を追うな。群れの形を崩すな。」

 ただ、長だけが動いた。雪面にほとんど跡を残さない歩幅で、風下を回る。


 狩人は跪き、雪上に指を這わせていた。

 狼の足跡は軽い楔の連なり。間隔は狭い。走っていない。群れは近い。男は矢筒を整え、背の弦をもう一度撫でる。弓はよくしなった。手袋を外し、指先を月光に晒す。震えはない。彼は討てると思った。経験は彼に勇気を与え、勇気は彼の耳を鈍らせる。


 フェンが霧のように現れた。

 狩人は驚かない。矢はもう番えている。

 若狼が雪を蹴る。弓が鳴る。矢は音を置いていく。

 フェンの肩口に黒い穴が生まれ、血が白を染める。

 だが若い肉体は止まらなかった。距離は一息。

 二の矢が弦から離れるより速く、牙が男の腕の下に潜り込み、骨を噛み裂いた。男は叫ばない。驚きで声がない。彼は狼を押し返し、背から短剣を抜く。刃は月を掴み、若狼の喉を掠めた。


 雪の上に、二つの息が転がった。

 人の息は細く、獣の息は荒い。

 フェンの目はまだ燃えている。肩から喉へ、血が道を作って流れた。狩人の腕はぶら下がり、指が痙攣している。短剣の先は雪に刺さり、震えの文様を描いた。


 グレイマントが現れる。

 音はない。風だけが方向を変えた。

 長は若狼の傍に立ち、鼻先をその傷へ近づける。フェンは小さく唸り、なお立とうとする。群れの長は目を細め、ほんの一呼吸だけ、月を見上げた。


 その牙は、優しい場所を知っている。

 苦痛なく沈める角度、気道と血流を止める深さ。

 フェンの体から力が抜け、雪が静かに沈む。

 長はその血を一舐めだけし、若い毛を整えるように舌を置いた。


 狩人はそれを見ていた。見ないふりはできなかった。

 彼は背を起こし、片手で弓を探る。指はうまく動かない。

 グレイマントは男を見た。認識は一瞬だ。

 彼は狩人に近づかない。群れに災いを持ち込むものを、追う必要はない。人は人の病を持ち、火と鉄を持つ。狼の掟は、必要以上に戦わないことだ。


 ただ、背を向ける前に、長は一度だけ遠吠えを上げた。

 それはフェンを呼ぶ声ではない。群れへの合図、位置の報告、移動の時刻。森が応える。幼い遠吠えが震え、雌の低い声が包む。声は層になって夜空に重なり、やがてひとつの静けさへ戻る。


 月は雲を纏い、光は薄くほどけた。

 群れは川筋に戻り、氷の端を割って水を舐める。仔狼の背を、母の舌が押さえた。グレイマントは最後尾に立つ。彼は誰より遅く食べ、誰より先に歩く。群れに背中を見せ、群れに背中を見せない。その二つを同時にやる個体だけが、長になれる。


 雪面に、四本の筋が残っていた。

 人の膝と手の跡。這って森の縁へ消えていく。

 夜明け前の冷え込みが、血を固め、音を奪う。

 彼は生き延びるだろう。腕を失っても、酒場へ戻って話すだろう。

 ――狼は残酷だった、と。

 ――自分は勇敢だった、と。

 物語はいつも、語り手の側から始まる。

 森はそれを知らない。知る必要もない。


 グレイマントは天を見上げた。雲間に月がちぎれ、明けの星がひとつだけ瞬く。彼は一声も発しない。掟は声に刻むものではない。体の古い傷が語り、失われた仲間の匂いが語る。フェンの血の温度は、もう森に溶けて見分けがつかない。


 群れは動き出す。

 境界の道を回り、香りの石に鼻を押し付け、印を重ねる。

 足跡は等間で、振り返る影はない。

 斜面の上、針葉樹の梢に白い鳥が一羽、夜の終わりを見送っていた。ブロッドクロウではない。まだ戦場の匂いはない。


 やがて夜が削れ、森の輪郭が灰色に濃くなる。

 雪明かりは消え、代わりに冷たい朝の光が差す。

 群れは影を短くし、谷風は匂いを変える。

 日中、彼らは眠り、腹を整え、仔に毛づくろいを教える。

 次の夜、また狩る。次の夜、その次の夜。

 繰り返しは退屈ではない。生き延びるとは、同じことを正確に繰り返すことだ。


「孤高の熊が山を治めるなら、群れの狼は森を統べる。

 彼らにとって命は、ただ掟を守り、次の夜へ渡すための糧。

 人がそれを残酷と呼ぶならば――それこそが、この惑星セノーラの理である」


 雪面に残った若い足跡は、昼までに風が消す。

 語り草は人の口に残り、掟は狼の体に残る。

 夜の終わり、森はふたたび静けさを取り戻した。

 そして、その静けさこそが、群れの明日を繋いでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る