『BEASTLOG ―異界生態誌―』

蟒蛇シロウ

第1話「雪山の主《ヒノワグマ》 ―母性と暴力―」

 日輪の暴威

 ヒノワグマ


 白き峯を統べる黒き太陽。

 胸の環は理の証。

 守るために裂き、飢えを抱いて喰らうのみ。

 祈りも謝罪も通じはしない。

 この山で狩人と呼ばれるのは――ただ、この獣ひとつ。

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 長い冬が終わろうとしていた。

 灯ノ原ひのもと国の北部に連なる日輪ひのわ山脈――

 雪を戴くその峰々は、夜明けの光を最初に受ける場所として、古来より“沈まぬ炎”の象徴と呼ばれてきた。


 その山の奥深く、白い静寂を破る影があった。

 山の主、ヒノワグマである。

 黒々とした体毛の中に、首から胸へかけて黄金色の環を描く紋様。

 太陽のごときその印こそ、彼女がこの山で最も恐れられる理由だった。


 冬眠の眠りを終えたばかりの母熊は、二頭の小さな仔を連れていた。

 まだ腹の毛も薄く、よちよちと雪を踏みしめる子ら。

 母は腹を空かせていたが、獲物の匂いは薄く、木の実もまだ雪に閉ざされている。

 やがて鼻孔に、血の匂いが届いた。


 彼女は静かに首をもたげる。

 風が運んできたその匂いの向こう――大型のオオカミ……ヴァルグの群れが、小鹿を仕留めていた。

 黒い影が四つ、五つ、雪原を取り囲んでいる。

 母熊は一歩、二歩と進み出る。雪を踏みしめる音が、山の静寂を引き裂いた。


 オオカミたちは唸り、牙を見せた。

 だが、ヒノワグマの瞳を見た瞬間、群れの中にためらいが走る。

 母熊の一撃が空を裂く。

 唸り声も、悲鳴もなく、ただ一頭が吹き飛んだ。

 群れは散り、雪煙だけが残る。


 母熊は小鹿の亡骸を咥え、仔のもとへ戻った。

 仔熊たちは腹を満たし、母の腹の下に身を寄せて眠る。

 風が木々を鳴らし、遠くで雷鳴が響いた。

 ――その夜、山にまた雪が降った。


 翌朝。

 日輪山脈の麓から、一人の旅人が山を登っていた。

 異国の服を着た学者風の男。

 彼はこの地に棲む“超獣”の記録を求めて、命を懸けた観察を続けていた。

 足跡が雪上に刻まれ、やがて細い足跡――子熊のものと交わる。


 男はそれを見つけて、微笑む。

「まだ小さい……冬を越えたばかりか」

 彼は地図に印をつけ、スケッチを始めた。

 その瞬間、空気が変わった。

 背後の風が止み、雪の匂いに混じって、熱を感じた。


 ゆっくりと振り返る。

 そこに、黒い壁のようなものが立っていた。

 胸に燃えるような金の環。

 その中心に、太陽のごとき瞳があった。


 男は息を呑む間もなく、世界が揺れた。

 咆哮が山を震わせ、雪崩のような衝撃が襲う。

 手から離れたスケッチ帳が舞い、空を切る爪がそれを裂いた。

 視界が白に染まり、血の味がした。


 母熊は吠えなかった。

 ただ、子を守るように両の前肢を広げ、男の遺した匂いを遠ざけた。

 仔熊たちは怯えて母の腹に隠れ、母はその頭を舐める。

 やがて、雪が静かに降り始めた。


 次の朝、山は再び沈黙した。

 吹雪が男の足跡を消し、血も骨も雪の下に埋もれていく。

 母熊は巣に戻り、仔を抱き、深い息を吐いた。

 その吐息は、白い霧となって天へ昇る。


「この山には、正義も悪も存在しない。

 あるのは、生きるという衝動だけだ。

 そしてその衝動こそが、惑星セノーラを回している」


 雪原の彼方で、日が昇る。

 その光は、母熊の胸の太陽紋に反射し、

 まるで山そのものが息づいているかのように、赤く燃えていた。

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