二.しょうめん
この家を紹介してくれた不動産の店員は三崎という三十代前半の若い男だったが、饒舌でこちらを引き込むのが巧かった。
古くからある住宅地に隣接するように造られた新興住宅地の一戸。中古物件だが丁寧に使われている様子で傷みも殆ど見当たらない。
以前は私たちと同世代の若い家族が住んでいたらしいが、入り口にスロープがあったり、敷居や風呂の段差が少なく、バリアフリーに設計されているのは驚きだった。将来を見据えての造りだったのだろうか。
手頃な提示価格と相俟って、私たち夫婦はすぐに気に入った。
武志も広い家が嬉しかったらしく、「ここ僕の部屋ね」などとはしゃぐ。
そこで暮らす私たち家族が容易に想像できた。
地域も物件も希望通り。利便性も悪くない。価格も手頃。ほぼ「購入」に傾いていた。
不動産屋が紹介する金融でローンを組むか、既に口座のある都市銀行でローンを組むかの会話になるぐらいの前のめり具合だった。
ただ、古いほうの住宅街も新しいほうにもぽつりぽつりと空き家はあったのだが、件の物件は造りや程度の割に格安に思えたことだけが気にはなった。
「まさか事故物件とかじゃないでしょうね?」
友香が冗談交じりに言う。
「いや、そんなんじゃないですよ」
三崎は真面目な顔で返した。
「決してこの家で何かあったとかじゃないです。前に住んでいた方が急に引っ越すことになってウチの店買い取りで手放されたんですよ」
「信用していいと?」
「当たり前じゃないですか? 告知義務もあるんで、ウチも馬鹿なことはしませんよ。少なくともこの家はそんなんじゃないです」
きっぱりと言うのが、却って怪しくも思えた。
「急な引っ越しって何があったのかしら?」
友香が念押しするように訊く。
「さあ、そこまでは……。当時の担当なら何か伺っているかも知れませんが、流石に個人的な話なので」
「個人情報か……」
「ですね。申し訳ありません」
三崎はこれでお終いという具合に言葉を被せた。
明るい住宅街、建屋にも薄暗い感じは見当たらない。友香と二人で目を合わせ、「気にすることではない」と素直に納得した。
家の内覧を終えた後で、近隣のスーパーや学校、病院などを歩いて廻った。歩いて行けるぐらいには近いですよ、というアピールだったろう。
「公園も近いでしょ? ここは春になると桜がいいんですよね。地元では有名なんですけど、あんまり人も集まらなくて、花見の隠れポイントですよ」
古びたブランコと滑り台ぐらいしか遊具が備わっていないが、武志ぐらいの子供が遊ぶには十二分の広さと言っていい公園だ。
公園の中には野球場の半分ぐらいか、それよりも少し大きいぐらいの池があり、池の周りには桜の木が植わっていた。
「公園の中に池があるって危なくないですか?」
友香が少し口を尖らせるように言った。
「いや、ここ、昔からある池でしてね。確かに昔はちょっと危ないこともありました」
三崎は隠す様子もなくしれっと答えた。
「実は僕も子供の頃この団地に住んでたことがあって、何十年も前にはそれこそ何人か亡くなったこともあるって聞いてはいます」
客にそんなネガティブな話をしていいのかと思うが、明るい三崎の物言いだと、昔話なのだとすんなり呑み込めてしまう。
「危ないからって、きちんと護岸整備とかして、深さも調整した人工池になったそうです。大人の腰の高さより深いところはなくなってるんじゃなかったかな?」
三崎は自分の腰辺りで手の平を下に向け、滑稽にニカリと笑う。
「僕の子供の頃にはもう今の状態で、池に落ちたりすることがなかった訳ではないですが、大怪我や死亡事故みたいなことは聞いたことないですよ」
言葉に澱みがなく、安全なんだと感じてしまう。
「……表向きはね」
三崎がぽつりと言った。私と友香は同時に顔を上げた。
「何かあったんですか?」
友香が顔を曇らせて訊いた。
「実際には、二、三年前に一件だけ死亡事故が、この池であったんです」
友香が露骨に厭な顔をした。私の顔もそうだったに違いない。
「いやあ、建前上『何もない』と説明するように言われていますが、お二人に嘘をつくのは個人的には忍びないので……」
三崎が営業マン然とした顔で笑う。
「本当のことを明かす私を信頼してください」とでも言いたげだ。
近隣で不幸があったにしても、物件が相場よりやや安いにしても、物件そのものの価値は変わらないという自信があるのだろう。後ろめたさは微塵も感じられない。
「もともと足の悪い子だったみたいでね。大人が見てない間に一人で池に近付いたらしくって。残念なことですよ」
死んでしまった子供に対する悼み事なのか、安全と言い切りたいのにそう言い切れないことを言っているのか本心は見えない。
「まあ、行政もちょっとでも危険を減らそうってことで、池の周辺にフェンスを作る予算取って、近々工事も始まるみたいですよ」
そう言って三崎は池の奥のほうを見やる。
「ほら、あそこに部材も置いてあるし、引っ越して来られる頃にはもう工事も終わってると思いますよ」
確かに、池の奥のほう、通りに面した辺りに白い養生シートが被ぶせられた塊が見える。シートのせいで何が置かれているのかはわからないが、部材らしきものが積まれているようにも見えた。
三崎の話は気にならない情報というわけではなかったが、近隣で事故があった物件をいちいち除外していくと選択肢はどんどん狭くなってしまう。
私たち夫婦は「公園の事故は過去のできごと」として記憶の奥のほうに追いやることに決めた。
都市銀行でのローン審査が通り、契約を無事に済ませた。
しかし、内覧から二ヶ月経って引っ越しをした後も公園の奥の白い養生シートはそのままで、工事が始まる気配さえなかった。
そもそも公園に行って養生シートを眼にした際にフェンス工事のことを思い出すぐらいで、フェンス工事が必要になった原因については思い出すことを避けていた。
その厭な記憶を無理矢理思い出させたのは、その公園でよく会う老夫婦だった――。
気のいい夫婦で、顔見知りになってからは、庭のトマトがたくさん実を付けたからと言っては、コンビニ袋いっぱいの不揃いのトマトを持ってきてくれたり、知り合いから桃をもらったからと言っては、お裾分けしてくれた。
余り他人と関わりになりたくない私にとっては手放しで喜べなかったが、流石に近隣に住んでいるであろう夫婦に対して邪険にはできない。
武志が妙に懐いていたこともあり、友香は詰まらない世間話にも時間を割いていた。
「この辺りは暮らしいいところなんだけどね」
知り合って間もないある日、ご丁寧な口上を添えて、老婦人は小さな声で告白した。
「三年前だったかの冬に、この公園の池で子供が亡くなっているのよ」
不動産の三崎の言葉が蘇った。
老婦人にとっては「お宅も気をつけてね」という何気ない老婆心だったのだろう。
しかし、私たちにとっては、記憶の外に置いていたものを、無理矢理目先に突き付けられた感覚だった。
三年前の冬のある日、ちょうど武志と同じ年頃の少年が夜遅くなっても帰宅しなかったという。
心配になった両親は、慌てて一緒に遊んでいた子供達に尋ねて廻った。
「急にいなくなったから知らない」
子供達は口を揃えた。
誘拐にしては犯人からの連絡もなく、家族や近隣の住人、警察が、夜通し探し廻った。
果たして――。
翌朝、少年は発見された。
町外れの公園の池に浮かぶ遺体となって。
その少年の名前は、確か……。
◇
「よしき君だ!」
リビングに響いた私の声は震えていた。
「うん……」
友香が私を見つめている。寂しい目だ。
私は慌てて否定する。そうしなければ、それが事実となってしまいそうな気がしたからだ。
「馬鹿馬鹿しい。そんな訳ないだろ? やっぱり何かの勘違いだよ」
「うん。勘違いだと思いたいの」
祈るような言い方をする。私の不安を見透かしているようだ。
「だから……。武志の様子を見てきて欲しいの」
「わかった」
私には友香の願いを拒否することはできなかった。
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