【1/14スタート】夜中に読まないでください〜お隣のストイックくんは、愛の飯テロに勝てない〜
ざつ@竜の姫、メゾン・ド・バレット連載中
第1話:深夜の誘惑は、白い湯気と共に(豚バラと白菜の重ね鍋)
1. 23:30 鉄壁の部屋(二宮 颯太・25歳)
二宮颯太は、壁の薄い築40年ほどの小規模なマンションの一室で、Tシャツ一枚になった引き締まった体を緊張させた。時刻は深夜23時半。この時間、周囲の生活音が途絶える静寂こそ、彼——役者志望のフリーターにとって、己を鍛え上げる戦場だ。
「……ア、イ、ウ、エ、オ。カ、キ、ク、ケ、コ。ま、ま、ま、み、む、め、も、も、も……!」
腹の底から声を絞り出し、肺の中の空気をすべて吐ききる。都会育ちだが、両親の反対を押し切って役者の道を選んだ彼は、「成功しなければならない」という強迫観念を抱えている。それはストイックな食生活と、この深夜の修行を生んでいた。
颯太の容姿は、日々のトレーニングで鍛えられた体が引き締まっている。普段はクールな表情だが、一度食欲に負けそうになると、すぐに理性を失った子犬のように瞳が潤む。
夕食は、もはや味のない燃料だ。水にさらした千切りキャベツと、パサパサの鶏むね肉。高タンパク、低カロリー。欲望はすべて「敵」。「カロリーは……、敵……」と唇の中で繰り返す。
発声練習が終わり、壁に寄りかかった颯太の空腹が、本能的な唸りとなって襲いかかる。腹の虫が鳴るたびに、彼は腹筋を強く叩いて自分を律した。
その瞬間、隣の部屋——飯田菜々子の部屋から、微かな「カタン」という音がした。
彼女は颯太とは対照的だ。ウェブデザイナーとして働く27歳の独身OL。涼しげな目元を持つ知的で整った容姿は、会社でのデキる女を思わせるが、帰宅はいつも深夜。そして、この時間に、彼女は必ず「背徳的な儀式」を始める。
2. 23:45 疲労とご褒美(飯田 菜々子・27歳)
飯田菜々子は、重い革のビジネスバッグを玄関に放り投げた。そのまま床にへたり込み、疲労にまかせて喉の奥から押し殺したような声を漏らす。
「あああああーーーー、もうダメだ!」
今日の会議で受けたストレスは、真夜中の雨のように彼女の心を湿らせていた。終電後のタクシー代は痛いが、この疲労でスーパーの惣菜に頼ることは、一日の終わりに自分自身を裏切る行為に思えた。
外の空気は冷たく、吐く息が白くなる時期だ。この深夜の冷え込みが、かえって彼女の食欲を刺激する。
飯田はまっすぐに冷蔵庫へ向かい、缶ビールを取り出した。「プシュッ」と小気味良い音を立てて蓋を開け、喉に流し込む。
冷たい液体が喉を通り過ぎる時、仕事のしんどい記憶は遠い幻になった。
「……よし、完璧」
飯田は立ち上がり、長く垂らした髪を手首でクイッと高い位置で一つに束ね直した。これは彼女の癖であり、「戦闘開始」の合図。都会のストレスフルな仕事から逃れ、実家の温かさを自分で再現する「手間をかけた料理」こそが、彼女の心の安定剤だった。
冷蔵庫から鶏ガラと昆布を取り出す。
「今日は、とことん優しくしないと、心が持たないわ」
シンクで丁寧に鶏ガラを洗い流す水の音。そして、昆布をそっと土鍋に敷く静かな動作。深夜のマンションに響くのは、飯田が心を満たすために行う、“静かなる儀式”の音だけだ。
隣室の男、二宮颯太が静まり返っているのを感じる。あのストイックな生活音を飯田はいつも認識していた。可哀想な人、といつも思う。
飯田はビールを一口含み、冷えた白菜の葉を一枚ずつ丁寧に剥がし、トントンとリズム良く根元を切り落とす。次に、新鮮な豚バラ肉をまな板に並べ、包丁の腹で軽く叩く。トン、トン、トン……。この軽快な音は、飯田にとって心を無にするメトロノームだ。
白菜と豚バラ肉を、まるで白い布団に薄い毛布を重ねていくように、土鍋に交互に敷き詰めていく。
飯田は小さく微笑んだ。「最高の家庭料理。カロリーはご褒美だもんね」
3. 00:15 禁断の香りと理性の崩壊
W出汁が土鍋の中で温まり始め、白菜の水分と豚バラの脂が溶け出す。飯田は、温かくなった出汁を小さなスプーンですくい、そっと口に含んだ。
「んん……」
彼女は静かに目を細め、小さく頷いた。鶏ガラと昆布の豊かな旨みが疲れた細胞に染み渡る。まさに至福の瞬間。飯田は最後に、冷蔵庫で大切にしていた柚子の皮をごく少量、細く千切りにして鍋の端に忍ばせた。
「フツ、フツ、フツ……」
土鍋の縁から、煮立つ音と、温かくも清涼な香りが換気扇を通じて外へと放出された。豚バラ肉の甘い脂、出汁の優しい旨み、そして、微かに香る柚子の清涼感が混ざり合った湯気が、静寂を破ってマンションの廊下へ、そして二宮の部屋の換気扇へと侵入していく。
隣室の二宮颯太は、完全に敗北した。
彼は壁に背を向け、腹筋を叩き、瞑想を試みていた。しかし、鼻腔をくすぐる香りは、彼の高タンパク低カロリーの誓いを嘲笑う。
「豚肉の、温かくて甘い脂の香り……だめだ、柚子? 家庭的な……温かい場所の匂い……」
颯太の鍛え抜かれた上腕と腹筋が、微かに痙攣する。彼の脳裏には、家族と食卓を囲んだ、遠い日の温かい記憶がフラッシュバックする。彼は家族との冷えた関係を捨ててまで、このストイックな道を選んだのに。
「やめてください……! これ以上、僕を追い込まないで……!」
香りは逃げない。それは、彼の理性を完全に打ち砕く。彼は無意識のうちに、その香りの発生源である壁の向こうへ、魂の叫びとして手のひらを強く叩きつけた。
ドンッ!!
深夜の静寂に響き渡る、重く、切実な「壁ドン」。それは、ストイックな役者が理性を崩壊させ、温かい食事を求むと叫んだ、絶望の断末魔だった。
4. 00:30 可哀想な子犬へのご褒美
飯田は突然の轟音に、小さく肩を跳ねさせた。
「……あら、子犬が吠えたわね。本当に可哀想」
彼女は鍋の火を止め、ふんわりと湯気の立つ自家製柑橘ポン酢と、取り皿を手に取った。鍋に蓋をしたまま、壁の向こう側、二宮の部屋のドアの前へ移動する。
憔悴しきった表情で目を閉じ、壁にもたれかかっていた二宮颯太は、ドアがゆっくりと開く音に、恐る恐る目を開けた。
そこには、涼しげな目元の飯田が立っていた。彼女の髪は湯気のせいで毛先が少し乱れ、頬がわずかに赤く、どこか上気している。その手には、白く温かい湯気を立てる土鍋。
飯田は優越感を隠さず、まるで餌を与えるかのように、その小鍋を差し出した。
「ほら、可哀想な子犬ね。静かに食べて。深夜の飯テロへの謝罪代わりよ。…いつも騒がしくしてごめんね。また明日からも、頑張ってストイックに耐えてちょうだい」
「あ、ありがとうございます……」
颯太は抵抗する気力もなく、それを両手で受け取った。手のひらに伝わる土鍋の温かさが、外気の冷たさとは比べ物にならないほど、彼の冷え切った手に染み渡る。
彼は自室に戻り、床に座り込んで蓋を開けた。再び爆発する柚子と豚肉の香り。彼は罪の意識と共に、震える手で一口、口に運ぶ。
白菜はとろとろ。しかし、芯の部分はわずかにしゃきりとした歯ごたえを残している。それが、W出汁を吸い込んだ豚バラ肉の濃厚な脂の甘さを際立たせる。熱い。甘い。塩分と脂質。彼の体と心が本能的に求めていた「最高のご褒美」だった。
「……勝てない。こんなの、絶対に」
二宮のストイックな世界は、たった一口の鍋によって、音を立てて破壊された。
隣室の飯田菜々子。彼女は、彼の食生活と生き方を脅かす、優しくて残酷な「魔性の料理人」。二宮は、彼女の存在を、戦うべき「恐怖の対象」として、脳裏に深く刻んだ。
飯田の部屋からは、小さな満足げな声が聞こえてきた。
「よし、完璧! 今日もこれで乗り切れるわ」
次の更新予定
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