第1章 居場所 【鉄格子の宮殿 】3

 主治医の言った通りだった。四日目の夜、私は泥のように眠った。

 昨夜も、あの女は叫んでいたのだろうか。たとえ叫んでいたとしても、私には聞こえなかった。それくらい深く眠っていたのかもしれない。


「ア・ション・メーン」

 隣の患者が、またつぶやいている。

 鉄格子の窓からは、朝の光が満ちあふれていた。今朝は頭にモヤがかかっていない。スッキリしているとまでは言えないが、少なくとも何かを考えることはできそうだ。


 看護師が血圧を測りに来て、

「昨日は眠れましたか?」と尋ねた。

「眠れました」と、私は答えた。

「血圧が、正常値に戻ってきましたね」

 そう言って、彼女はメモを取った。

「睡眠不足だと、どうしても血圧は高くなりますから」

「昨日までは、そんなに高かったんですか?」

「上が150くらいはありましたよ」


 私はそのとき、初めてその看護師を意識して見た。小柄な女性だった。ショートカットの髪は明るい茶色で、体の線は決して細くはないが、女性らしいやわらかさがある。動きがきびきびしていて、目や鼻のかたちがどことなくリスに似ていた。

 清潔感はあるが、性的な印象をあまり感じさせない彼女に、私は好感をもった。


「今日はいい天気ですね」と、彼女が言った。

「昨日までは天気が悪かったんですか?」

 昼間の記憶が、ほとんど欠落しているのだ。この数日間、日中はずっと頭にモヤがかかっていて、覚えているのは恐ろしい夜のことばかりだった。

「そうですよ。昨日まではずっと雨が降っていましたから」


 そうだったのか。

 たしか、あの日も雨が降っていた気がする。私が救急車でこの病院に運ばれた日。担架の上で全身の力が抜けていく中、耳に残っていたのは車の天井を打ちつける激しい雨音だった。

 断片的な記憶だが、なぜかそれだけははっきりと覚えている。


「ずっと降り続けていたんですか?」

「降ったり止んだりでしたけど、ずっと天気が悪くて」

 そう言いながら、彼女は私の顔を気にかけるように見た。

「今朝は、少しは食べられそうですか?」

「ご飯のことですか?」

「ええ。昨日までは、ほとんど召し上がっていなかったので」


 私には、病院で出された食事の記憶すらなかった。それが少し、怖かった。けれど今は、腹が減っている気がする。

「今朝は、食べられそうです」と私は言った。

「よかったです。まずは食べないと元気が出ませんからね。すぐにお持ちしますね」


 朝食はシシャモが三尾に、芋と大根の煮物。焼き海苔と豆腐の味噌汁。デザートには、オレンジが二切れ添えられていた。白米以外は、すべて平らげた。

 

 私はベッドに横になり、妻が差し入れてくれた1冊の本を手に取った。私は読みかけの本を自宅のリビングのカウンターに積んでおく癖がある。

 妻はそれをそのまま病院に持ってきてくれたのだろう。小さな子どもを二人もかかえながら、大変だったろうなと思う。

 


***

 あの日……

 そう、私がこの病院に入院することになった日。救急車を呼んでくれと言ったのは、私自身だった。

 私は自分の部屋にいた。部屋に引きこもり、ずっと考えていたのだ。これまでのこと。そして、これからのこと。


 なぜ今、自分がこんな境遇に置かれているのか。これから、どう生きていくべきなのか。


 そうしているうちに、急に心臓が激しく脈打ちはじめた。

 太鼓を乱打するような大きな音が耳に響き、まるで全身を内側から揺さぶられているようだった。呼吸が浅くなり、胸の奥に焦げつくような苦しさが充満してくると、私は居ても立ってもいられなくなった。


 ここから飛び降りなくてはならない。


 それは突然下りてきた衝動とも言うべき、ある種の脅迫観念だった。

 部屋はマンションの14階にある。つまりここから飛び降りるということは死を意味する。

 混乱していたのは間違いない。でも私は今すぐに、ここから飛び降りなくてはならない。それ以外の選択肢はないのだ。追い詰められ、逃げ場を失った子鹿が、断崖絶壁から飛び出すように。


 体が、部屋の窓に吸い寄せられていく。私は窓枠に手をかけて、必死で体をおさえた。額から玉のような汗がぼたぼたと落ちる。体の震えが止まらない。 


 だめだ。このままでは、本当に飛び降りてしまう。妻を、呼ばなければ。


 私は声を振りしぼって妻を呼んだ。

 妻は、下の赤ん坊を抱きながら部屋に入ってきた。そして私の異様な格好を見て、目を丸くした。私はそのとき、いわゆる“へっぴり腰”で窓のふちにしがみついていたのだ。


「どうしたの?」

 妻の声はうわずっていた。

「頼む。救急車を呼んでほしい」

 私は震える声で言った。まだ窓に体を吸い寄せられたままだった。

「えっ、どうして? なんで救急車なの?」

 妻も動揺している。

「と、飛び降りてしまいそうなんだ……」

「飛び降りる? どういうこと?」

「だから!」私は声を荒げた。「ここから飛び降りてしまいそうなんだよ。この窓に、体が引き寄せられてるんだ!」


「落ち着いて。一回座って」

 妻も大きな声を出した。

 でも私は、もう自分を抑えることができなかった。

 頭頂部が窓に押しつけられ、足が浮いていくような感覚。意識とは無関係に、体のほうが動いてしまう。


「もうだめだ……助けてくれ」

 私はしぼり出すように言った。


 妻はリビングのベビーベッドに赤ん坊を寝かせにいった。母の様子がおかしいことに気づいたのだろう、5歳の長男が、ママ、どうしたの?と尋ねている声が聞こえた。

 妻はすぐに私の部屋へ戻ってくると、無言のまま私を後ろから羽交い締めにした。そして、そのまま力任せに私を引き倒した。

 私たちは一緒に床に倒れ込んだ。背中に、妻の胸のふくらみを感じた。    


 白い天井が目に映った。息が苦しい。

「頼む、救急車を呼んでくれ」と私はもう一度言った。

「わかった」と妻は言った。妻の呼吸も荒かった。



 救急車はすぐに来たのだと思う。私は担架に乗せられ、マンションの通路を運ばれていった。

 ザザーッという音が耳に残っている。きっと大粒の雨が、激しく打ちつけていたのだろう。


 そこからの記憶はおぼろげだった。病院に着くと、看護師や医師からいろいろなことを尋ねられた気がする。しかし何を答えたのかは覚えていない。

 いや、今は思い出せないだけなのかもしれないが。



 目が覚めると、私は丈夫なゴムのようなもので拘束され、肩から足の先まで身動き一つできなくなっていた。

 昔映画で観た猟奇殺人犯。狂暴な人喰い殺人鬼のように、私はベッドに縛りつけられていたのだ。

 

 ただその殺人鬼と違うのは、口にマスクを付けられていないことだった。

 私はみつかないと思われたのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る