第1章 居場所 【鉄格子の宮殿 】2
「気分はいかがですか?」
声をかけてきたのは、おそらく私の主治医だ。
「眠れません」と私は答えた。
「眠れなくても大丈夫ですよ。こんなところにいたら、眠れなくて当然ですから」
主治医はそう言って笑った。
そんなものかと私は思う。
「頭に、モヤがかかっているような感じです」
「頭にモヤがかかっているんですね」
主治医が繰り返す。
「ちゃんと考えることができないんです。思考が……」
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。考えようとしても、途中でぷつりと切れてしまう。思考が続かないのだ。
「いい傾向です」と主治医が言った。
「今は、何も考えないでください」
その言葉に促されるように、また頭の中がぼんやりとしてくる。何か言わなければならないことがある気がした。けれど、それが何だったのかを思い出せない。頭のモヤが、それを覆い隠してしまうのだ。
主治医は、私の胸に聴診器を当て始めた。私はこめかみに手をやり、喉仏をおおげさに動かしてツバをごくりと飲み込んだ……思い出した。
「く、くすりをもらえませんか?」
「何ですって?」主治医が聞き返す。
「くすりです。くすりが、欲しいんです」
***
ここに来てからの三日間、私はほとんど眠ることができなかった。
精神科病棟の夜。そこでは、患者は何物かに
「来ないで、来ないで、来ないで……!」
女の叫び声が響く。どの病室からかは分からない。
しかし毎晩、ほぼ同じ時刻にその叫びは繰り返された。
「来ないで、来ないで……お願いだから来ないで……!」
それは誰かに襲われる寸前のような、追い詰められた声だった。恐怖が極限にまで達したときに思わず口から漏れる、そんな悲痛の叫びだ。
入院初日の夜。私はそれを初めて聞いた時、冷たい手で心臓をわしづかみにされたような気持ちになった。全身に鳥肌が立ち、震えが止まらず、しばらくの間動くこともできなかった。
でも……ここは精神科病棟であり、こういうことはきっと当たり前のことなのだろう。
私はこれに慣れなければならない。自分にそう言い聞かせた。
「ア・ション・メーン」
隣の患者がつぶやいている。彼も、眠れないのだろうか。
「来ないで、来ないで、来ないで……!」
女の叫び声が、さらに大きくなっていく。
私は頭から布団をかぶった。布団の中で耳をふさぎ、何とかその夜をやり過ごした。もちろん一睡もできなかった。
次の日の夜もだいたい同じだった。
しかし三日目の夜。ついにそれは、私自身にも取り憑いたのだった。
「来ないで、来ないで、来ないで……」
また、女の叫びが始まった。
私はいつものように頭から布団をかぶろうとした。その瞬間、激しい不安に襲われたのだ。
なぜ自分は、ここにいるのだろう?
入院して三日目にして、初めてその問いが胸を突いた。まるで耳元で誰かに
もしかしたら私も、あの女と同じように、狂っているのだろうか?
「来ないで、来ないで、来ないで……!」
女の叫び声は続いている。
だがその夜、私の恐怖はその女の叫びではなく、“自分自身への疑い”から生まれていた。
私は狂っているのか?
だから、こんな場所に閉じ込められているのか?
心臓の鼓動が速まり、口の中がカラカラに乾いていく。病室の窓にかけられた鉄格子を見上げた。
小学校の通学路を思い出す。
真っ青な顔。カーテンびらびら。彼女はカーテンのすき間から、獲物を射抜くような目でこちらを見ていた。
あの目は全てを理解していた。 そう、彼女は気など狂ってはいなかったのだ。
気狂いでもないのに、彼女はあの鉄格子の窓の部屋に、一人きりで閉じ込められていたのだ。
私はベッドにじっとしていられなくなり、立ち上がった。
そして病室を出て、廊下を歩き始めた。
「来ないで、来ないで、来ないで……」
女の叫びが遠くで響いている。私は廊下を端から端まで歩き、行き止まるとまた戻ってそれを繰り返した。強烈な不安が、波のようになん度も襲ってきた。
私はここに、閉じ込められているのだ。
息が詰まり、頭が締め付けられるように痛んだ。自分のスリッパが床を打つ音だけが、やけに大きく耳に響いた。
ナースステーションの中から、看護師が不審な目つきでこちらを見ていた。しかし何も言わなかったし、止めようともしなかった。ただ、じっと見ていた。
「出してくれ、出してくれ、出してくれ……」
そうつぶやきながら、私は歩き続けた。
「私を閉じ込めないでくれ……ここから出してくれ……」
廊下を鳴らすスリッパの音が次第に速くなる。足を止めると、自分が自分でなくなりそうだった。
「出してくれ、出してくれ、出してくれ……」
私は狂ったようにつぶやき、そして歩き続けた。
廊下を、何十回往復しただろうか。
気づくと、全身が汗でびっしょりと濡れていた。女の叫び声はもう聞こえなかった。
私は徐々に歩く速度をゆるめていった。スリッパの音がだんだんと小さくなっていく。
私は不思議なくらいに落ち着いていた。あの、発狂してしまいそうな恐怖はどこへ行ってしまったのだろう。
私は足を止めた。立ち止まり、その場にしばらく
不意に、他の病室をのぞいてみたいという衝動に駆られた。
どんな患者が、どんな姿で眠っているのかを見てみたい。それは、性的な好奇心に近いものだったと思う。
幸いなことに、この病棟の病室にドアはなかった。私は足音を立てないように、すぐ横の病室へとそっと入った。
顔の大きな男が地響きのようないびきを立てて寝ていた。眉間に深いしわを寄せ、長い髪を枕に振り乱し、まるで秋田の“なまはげ”のようだった。
その奥のベッドでは小柄な老人が、横向きに丸まって寝ていた。手前のなまはげほどではないが、やはりいびきをかいて寝ている。二人とも口を大きく開けて、まるでムンクの“叫び”のような顔をしていた。
次に私は、斜め向かいの病室へとすべりこむように入った。ピンク色のパジャマを着た若い女が、やはり口を大きく開けて眠っていた。同じだ。ムンクの叫び。
そのとき私は気づいたのだ。彼らはみな睡眠薬を飲まされている。しかもかなり強いやつを。だからこんなにぐっすり眠れていられるのだ。
私は自分の病室に戻った。隣の患者の寝息が聞こえる。鉄格子のかけられた窓が、うっすらと明るくなってきていた。少しだけ眠れるかもしれない。
明日は睡眠薬をもらおうと、私は思った。朝の回診で主治医にそう言うのだ。
***
しかし朝が来ると、私の頭はぼんやりしていて、そのことを思い出せなかった。主治医に伝えなくてはいけないことがあると、そこまでは覚えていたのだ。でも肝心な部分にモヤがかかっていた。
それでもようやく、それを思い出すことができた。
「睡眠薬をください」と、私はもう一度言った。
「眠れないからですか?」
「そうです」
私はモヤを振り払うようにして、続けた。
「この病棟の患者は、みな睡眠薬を飲んでいる。そうですね?」
「その通りです」と主治医は答えた。
「しかも、大量に」
「ええ。大量に飲んでもらっています。患者さんから聞いたのですか?」
「違います。私はまだこの病棟で誰とも口を聞いていません。ただ何となく、そう思ったんです」
「そうでしたか」と言って、主治医は笑った。
「睡眠薬を、いただけますね?」私はもう一度たずねた。
「あなたに差し上げる睡眠薬はありませんよ」そう言って、主治医は首を横に振った。
「なぜですか? なぜ僕にはくれないんですか?」
「あなたには、必要ないからです」
「僕は、眠りたいんだ!」自分でも驚くほど、大きな声が出ていた。
「睡眠薬を差し上げることはできません」
私の声に少しも動じることなく、主治医は静かに言った。
「あなたは薬がなくても大丈夫です。今夜あたりはきっと、ぐっすり眠れますから」
そう言うと主治医はしばらく私の首筋に手を当て、それから病室を出ていった。
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