第19話 ​闇の足音と追跡

 水野雄太は、胃潰瘍の痛みと、美咲の入院費を稼ぐという切迫感から、闇バイトの「運び屋」を続けていた。その日も彼は、深夜の都市を横断し、指定されたブツ(違法な現金と見られる)をデリバリーする任務に就いていた。

​ 時刻は午前3時。水野は、古いビジネス街の裏路地に車を停め、バッグを手に持ったまま、次の受け渡し場所へ向かうために急いでいた。胃潰瘍の痛みが持続しており、背中を丸め、胃薬のせいで口の中は苦かった。

​ そのとき、数百メートル先の交差点に、水野は青いパトランプの光が一瞬、点滅するのを見た。反射的に体が硬直する。

​「まさか……」

 ​水野は食品工場で金田から暴力を受け続けた経験から、極度の緊張下での異常なまでの警戒心が磨かれていた。彼はすぐに車を捨て、バッグを抱えて裏路地へ駆け込んだ。

​ 路地裏を抜けると、目の前には廃墟となった小さな倉庫街が広がっていた。水野は、痛みを押さえつけ、呼吸を乱しながら、鉄骨の陰に身を隠した。

​ 彼のスマホが鳴り、闇バイトの指示役から焦ったメッセージが入る。「すぐ逃げろ! 警察の職質、広域捜査だ!」

​ 水野は、パトカーのサイレンの音が、遠くで、しかし確実に近づいてくるのを聞いた。胃の痛みがピークに達し、冷や汗が噴き出す。

​「くそっ、金田のせいだ。すべて、金田が俺を追い詰めたせいだ!」

​ 彼は、頭の中で金田を呪いながら、逃走ルートを探した。目の前に、錆びついた梯子が、倉庫の屋上に続いている。

​ 水野は、工場での清掃作業で鍛えられた瞬発力と、金田の追跡から逃げ回るうちに身についた危機回避能力を、ここで発揮した。彼は梯子をよじ登り、屋上へ飛び上がった。

​ 屋上から、彼は数台のパトカーが倉庫街の周囲を封鎖し始めているのを見た。逃げ場はない。

​ 水野は、建物の構造を瞬時に判断し、隣接するビルの屋根に飛び移った。その際、胃が激しくよじれ、彼は「うぐっ」と喉の奥で呻いた。

​(ここで倒れたら、すべて終わりだ。美咲の治療費、俺の人生、すべて金田に笑われる!)

​ 彼は、工場での清掃作業のように、誰も見ない場所で、必死に自己の安全を確保しようとした。彼は、鉄骨の隙間やエアコンの室外機の陰を縫うように進み、警察の視線が届かないビルの谷間へと滑り降りた。

​ 警察官が、水野が最初に隠れた場所を調べているのが見える。水野は、バッグを体に押し付けたまま、廃材の下に身を潜めた。

​ 数十分後、捜査のサイレンが遠ざかっていった。

​水野は、冷たいコンクリートの上で、力尽きたように倒れ込んだ。全身が汗と泥にまみれ、胃潰瘍の痛みで呼吸をすることさえ困難だった。

​ 彼は、闇バイトから得た金を手放さずに、警察の追跡から逃れることに成功した。しかし、彼はその代償として、自分の体と心に、決定的な深い傷を負った。

​ 水野は、廃墟の中で、自分がもはや工場という名の戦場から、より危険な現実の戦場へと移り、逃げられない泥沼にはまり込んでいることを悟った。彼は、金田の暴力から逃れたかっただけなのに、今は、自分の罪と警察の追跡から永遠に逃げ続けなければならなくなったのだ。

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