第4章 転機 (5)

 あ、とそこで思い出した。

「そういえば……新聞部のホームページ、見たんですよね?あれ、まずかったですか?」

『並谷翔子特集』のことを尋ねる。


「え?……ああ、あれね。いいんじゃない?写真自体は……」

 ――怒ってないのか。てっきり、もっと鋭く責められるかと思っていたのに。

「ただ……あのアンケート。勝手なことして」小さく頬を膨らませている。


 ――『学園祭に並谷翔子をゲストに呼ぼう!』そんな見出しで踊った呼びかけ。ほとんどプロパガンダだ。アンケート結果、つまり生徒の総意に見えるものがあっても、彼女には気に入らないらしい。

 あれを仕掛けたのは、さなえなんだけど。だけど、今ここでそれを理由にするのは卑怯に思えた。


「……やっぱり、嫌ですか?」言い訳はせず、代弁のように口を開いた。

「そりゃあね。だってわたし、そんなつもりで並谷翔子になったわけじゃないから」

 ため息交じりの声。視線がわずかに逸れて、指先が膝の上でぎゅっと組まれる。――そうだ。あれは武器だ。学園に向ける刃。純粋な観客の前で振り回すためのものじゃない。


「だったら、それが……翔くんのためにだったら出演してもいいなんてこと……無いですよね」無意識に言葉がもれた。

 言った瞬間、胸の奥が冷える。こんなの、よくわからない自己満足。そんな理由で唯さんが頷くはずがない。自分でも分かっていた。


 だからすぐに首を横に振った。「いえ、いいんです。忘れてください、今のは」

 その時、唯さんの視線が逃げ場をなくすように、まっすぐな視線がぼくに向けられる。瞳の奥にわずかな揺らぎと、言葉にならない思いが潜んでいるように見えた。


 ふと、場内の照明がすっと落ちる。「まもなく開演です――」澄んだ女子生徒のアナウンスが響き、ざわついていた観客席がゆるやかに静まり返っていく。

「おっと。もう始まりますね」手元のパンフレットを開き、指先で紙のざらつきを感じながら目を走らせた。


 ――深雪さん、バイオリンか。しかもコンサートマスター。さすが、沙織さんの妹……。

 前半の演目はピアノ協奏曲。ピアニストの名を追うと、「立川琴音」の文字。ピアノ専攻科2年生。顔写真はない。どんな子なんだろう、と想像だけがふくらむ。

 ステージ上では、靴音が小さなざわめきのように重なり、制服姿の生徒たちが次々と入場してくる。椅子と床の擦れる音、楽器を構える気配、譜面をめくる音――それらが舞台の空気を満たしていく。


 そして、ひときわ大きな拍手が湧いた。最後に現れたのはコンサートマスター。

 ――高橋深雪。

 その瞬間、会場に微かなざわめきが走る。金色に染めた長い髪をポニーテールに束ね、日に焼けた肌。制服越しに立ち姿の華やかさが際立つ。いわゆる“ギャル”と呼ばれる系統に収まるのかもしれない。けれど、彼女の放つ雰囲気は軽さではなく、仲間たちを掌握する力だった。


 笑みを浮かべながら、ステージの隅々に視線を巡らせる。瞬く間に楽団員ひとりひとりを包み込み、舞台全体に柔らかな一体感を生み出していく。

 ――この人、かなり“出来る”。直感的に確信する。

 隣で唯さんが小さく笑った。「深雪、また焼けたね……ふふっ」

 その声には、懐かしさと親しさがにじんでいた。


 さあ――いよいよ前半の主役の登場だ。

 客席のざわめきは、徐々に、しかし確実に静けさへと収束していく。まるで舞台全体が深呼吸を整えるかのように、緊張と期待がひとつの方向へと収束していくのが感じられた。


 そして。

 その瞬間を見計らったかのように、舞台袖から現れたのは、初老の指揮者。その隣に、彼の手を取られるようにして、赤いドレスの少女が歩み出た。

 ――立川琴音。


 思わず息をのむ。……小さい。客席の何人かも、同じ反応をしたように、ほんの微かなざわめきが漏れた。あどけない顔立ち。中学生かと思うくらいの背丈。頬のあたりで切りそろえられた黒髪のショートに、小さな薄紫の花を模したヘアピンがひとつ。飾り気といえばそのくらい。

 肩の出た赤いドレスが、少々ぎこちなさを感じさせる。


 ……ごめん、見た目いじりが良くないことは百も承知だけど、……座敷わらしっぽい。ギャルっぽい深雪さんとの対比が凄い。彼女は入場の間も顔を上げることなく、すこし俯いたままの姿勢で舞台中央へ進んでいく。まるで保護者のようだった指揮者がその手をそっと離れ、指揮台へと登る。


 それを見届けるようにして。コンマスの深雪さんと、ピアノ前に立つ琴音さんとの間で、わずかなアイコンタクトが交わされる。

 目で通じる。微笑む深雪の目に宿るやわらかな光。それに応えるように、琴音の瞳が一瞬ふっと揺れ、そして静かにうなずいた。


 ――このふたり、ただならぬ信頼関係だ。言葉がなくても伝わるものがある。その一コマだけで、客席の空気が微かに変わるのがわかる。

 ゆっくりと椅子を音もなく引いて腰を下ろし、鍵盤の前に身を据える琴音。小さな身体が、その巨大な楽器の前でぴたりと静止する。


 観客も、楽団員たちも、息を呑む。舞台の上、誰一人として身じろぎすらしない。

 期待と共に、わずかな不安が頭をもたげてきてしまう。

 オーケストラ全員の視線が今、ただひとり指揮者に注がれる。その手に握られたタクトが、静寂の空間に浮かび上がる。

 ――音が始まるその直前の、水を打った静寂と張りつめる期待。


 タクトが、鋭く空を切った。

 瞬間――オーケストラが目を覚ます。

 チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ単調。

 クラシックに疎いぼくでも、思わず身を乗り出すほどに知っている、この有名すぎる曲の出だし。


 怒涛のように湧き上がる、冒頭のホルン。まるで夜明けを告げる神獣の咆哮のように三度。深く、強く、空間を震わせる。それに応えるように、弦楽器、管楽器、打楽器が一斉に立ち上がり、壮大なスケールで音を紡いでいく。


 その只中で、ピアノの前の少女――立川琴音は、短い序奏に聴き入るように、目を閉じていた。頬の輪郭にかかる黒髪がわずかに揺れ、肩は静かに上下している。

 ぼくは息を呑みながら、ズームレンズをいっぱいに伸ばす。ファインダー越しの世界に、横顔を収めた。


 ――あと、二拍。

 閉じていたまぶたが、そっと、ゆっくりと開かれる。まるで眠りから覚めるように。いや、違う――。

 一瞬のうちに、彼女の瞳の奥に何かが走る。底知れぬもの。光と、凍てつくような集中と、狂気すれすれの純度の高さが、結晶のように宿っていく。

 そして――打ち出される第一音。


 鍵盤を打ち下ろしたその一打で、空気が塗り替えられた。オーケストラの壮大な響きの上に、それを凌駕する巨大な音が、聳え立つ。

 あの小さな身体から放たれたとは思えない、圧倒的な重厚さ。

 カメラのシャッターを切ることも忘れ、そっとファインダーから目を離した。手元にあったカメラが、膝の上に落ちる。呆気にとられるとは、まさにこのことだろう。


 ――信じられない。あの子が、こんな音を……。

 ふと、視線をコンマスへと移す。

 深雪さんの顔が、わずかに崩れていた。まるで笑いを噛み殺すように口元が震えている。

 ――見て。――この子を。――わたしの、親友を。

 そう言っているような横顔だった。その目は誇らしげで、泣いてしまうのを堪えているようにも見えた。


 ピアニストとオーケストラの間にあるのは、ただの伴奏と主旋律の関係ではなかった。そこには、揺るぎない信頼と、互いを尊ぶ眼差しがある。

 ビロードの海のように、オーケストラは波打ちながら彼女を包み込む。ときに寄せて、ときに引き、また万感の思いを乗せて押しよせる。そのうねりの上でピアノの音は決して沈まず、ただひとつの結晶のようにくっきりとした輪郭を放っていた。


 ――この音を、届けたい。

 その意思が、音の粒ひとつひとつに宿っている。はじけるたびに、くっきりとした輝きとなって観客へと突き刺さる。


 第一楽章は、気づけば嵐に巻き込まれたように駆け抜けていった。


 息を整える間もなく訪れる第二楽章。そこに広がるのは、まるで満天の星空に抱かれて夢を見ているような、限りなく美しい静けさ。ひとつひとつの響きが、観客の胸に降り注いでくる。ぼくの頬を熱いしずくが一つ、落ちて行った。それをぬぐうことさえ憚られる。目の前のあまりに美しい音の世界。


 そして、やがて訪れる惜別の第三楽章。怒涛の展開を経て、フィナーレへ向けて緊張が膨らんでいく。奏者たちの息遣いがホールに満ち満ちている。終幕への急坂を一気に駆け上がり、ぎりぎりに張りつめた緊張の静止――。


 「さあ、どう来るんだ……」誰もが心の中でつぶやく。

 そこへ彼女が示したのは焦ることなく、地を踏みしめるような堂々たるテンポ。屹立するピアノの高嶺を、オーケストラの大河がゆっくりと運び出す。それはやがて加速し、熱狂の奔流となって聴衆を容赦なく呑み込んでいった。


 彼女の指が鍵盤の上を疾走。コンサートグランドピアノの性能を使い果たす、深く鮮烈な打鍵。無数に生まれては去っていくその刹那に一音一音が確かな構造をもって刻まれていく。

 そうして駆け上がった先の最後の和音。ホール全体を揺るがす音が長く尾を引き、やがて大気のなかに吸い込まれて――。


 残響が消えた次の瞬間、地鳴りのような喝采が巻き起こった。観客の立ち上がる気配、割れるような拍手、飛び交う「ブラボー!」の声。

 赤いドレスの小さな奏者は、椅子から立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。

 その拍手の渦に驚いたように、ぽかんと目を瞬き、少し首を傾げて――もう一度、小さくおかっぱの頭を下げた。


 すごい。すごいぞ、この人……。

 胸を鷲づかみにされるような衝撃に、我を忘れてシャッターを切り続けていた。


 琴音さんが指揮者に導かれ、ゆっくりと袖へと消えていく。だが、拍手は鳴り止まない。

 むしろ、その熱はさらに膨らんでいた。再登場。姿を見せただけで、またも押し寄せる拍手の大波。指笛が飛び交い、観客の誰もが惜しみない称賛を送っている。


 彼女は、きょとんとした表情で深く頭を下げ、再び指揮者の後ろに隠れるようにして袖へ――けれど、それでも終わらない。

 三度目の登場。さすがに戸惑いを隠しきれなくなったのか、目を瞬かせながらお辞儀を繰り返す。ついに、指揮者がしっかりと前に出て、オーケストラ全員を立たせる。『もうこれで勘弁してください』とでも言いたげに、深々と頭を下げてようやく場を収めた。

 

 幕間。前半が終了し、舞台静寂を取り戻して、ホール中に余韻のざわめきが残っている。人々の囁き、目を見開いたまま言葉を探すような間。

「すごかった……」「あの子、何者?……」興奮の残滓が、座席の隙間を縫って飛び交っている。


 その中で――ふいに、腕にぎゅっと力がかかる。

 はっと我に返ると、自分の右腕が、唯さんの腕と胸の谷間に包まれていることに気づいた。

 一瞬で顔が熱くなる。何が起きた?いや、わかっている。

 ぷうっと、唯さんの頬がふくらんでいる。


 これは……妬いてる。やばい。これは――まさに浮気の現場を押さえられた気分。

 たかが演奏に感動しただけで。けれど、否定できない。ぼくは、あの少女の音に心を奪われた。ほんのひとときでも、魂を持っていかれた。

 それをこの人が見逃してくれるはずはない。

「……そんなに、良かった?」

 目をそらさせない。やや潤んだような瞳で、上目づかいに、距離を詰めてくる。

 ……詰んだ。言い逃れできそうもない。

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