第4章 転機 (4)
「あ……あ……ああ……」
――声にならない。さっきの悟さんみたいに、口だけがぱくぱく動いていた。脳と心臓が別々に暴れているみたいで、どうにもならない。
はっと気づいたように、重ねていた手をぱっと引く。「ご、……ごめん」俯いた横顔が、耳まで真っ赤に染まっていた。
沙織さんは、にんまり。子供を見守るような余裕の笑み。悟さんは目を細めて、何も言わずただ頷く。
「……話が交錯してるようだけど」すっと姿勢を正し、場を整える。その声は、淡々としているのに不思議と柔らかい。
「でも、関係あることだからまとめて話すわね」
テーブルに置かれた両手を一度見下ろし、彼女は言葉を続ける。
「翔くんのこと。学園はもちろん把握していたわ」「それでも、隠蔽した。……わたしたちは知っているの」
ゆっくりと、言葉を重ねる。
「でも、隠蔽しておきたいのは大沢校長だけじゃない。学園そのものにとっても、明らかにすれば損失や混乱が生まれるのは目に見えているから。だから、理事長だって無傷では済まない」
茶碗に残る湯気の向こう、その瞳は澄んでいて、一切の迷いがなかった。
「……それでもね。この件を白日の下に晒し、真実を暴くべきだと考えている教員や理事は、確かにいる」
ほんの少しだけ目線を和らげ、唯さんに寄り添うように言った。
「それだけは伝えておきます。……分かってくれる?」
胸の奥に、硬く張りつめていたものが揺れる。孤軍奮闘しているんじゃなかった。繋がりが、確かにあったんだ。その中心に彼女がいる。――だから、折れずに戦えている。
「それから……」と、沙織さんが続ける。
「唯は翔くんの影を、つばさくんに追っているわけじゃない。今日はそれを、告白できた。……良かったじゃない?」
最後のひと言には、あからさまに揶揄いが混じっていた。
「~~っ」顔を伏せ、耳まで真っ赤。
沙織さんがさらに、にこりと笑ってぼくに促す。「ほら、何とか言ってあげて?」
心臓がばくばく鳴る。喉が詰まって、言葉が転がり出てこない。それでも――。
「……え、えっと。……あの。……ぼく……うれしいです」
それが精いっぱいだった。声は小さく、震えていたけど、確かに届いた。
頬に火がまわり、視界がじんわり霞む。目を上げて唯さんの顔を見る勇気なんて、とてもなかった。
「失礼します」
襖の向こうから、柔らかい女性の声。すっと開け放たれ、白い足袋が畳を踏む気配。
漆塗りの器が、ひとつ、またひとつと置かれていく。朱と黒の艶に映えるのは、色鮮やかな和食の数々。秋口の気配をすでに先取りしたような献立で、ひんやりとした青を感じさせる盛り付けと、赤や金に近い彩りが目を奪う。残暑の重たさをすっと和らげ、口に入れる前から涼やかさを思わせた。
「……素敵」唯さんが、思わず声を洩らす。目を輝かせて料理に身を乗り出す様子に、胸がじんと熱くなる。
「ここは悟さんのおごりだから。気にしないで食べて」沙織さんがさらりと言い放つ。
「えっ⁉」悟さんは箸を取り落としそうになり、情けない声を上げた。
「なによ。そのくらいのお給料は払ってるはずでしょ」理事長秘書の口調には、逆らいようのない重みがあった。悟さんは口をぱくぱくさせたあと、観念したように肩を落とす。
「さ、早速いただきましょ」沙織さんが小さく手を合わせ、料理へと向き直る。
それに倣って、4人の声が揃った。「いただきます」
……美味しい。
箸をつけた瞬間、舌に広がるやわらかさと深い旨味。ひとつひとつの料理に、丁寧な手間と季節の息吹が閉じ込められていた。
――こんなおいしいものが、あるのか。いや、こんな世界そのものが……。
もしかしたら、ぼくは一生触れることのなかった世界。だけど今、この人たちと一緒にいることで、その扉の前に立っている。手が届くかもしれない――そんな錯覚に囚われる。
そして、ほんの一瞬。あの細い体を抱きしめる妄想が、熱のように差し込んでしまった。
慌てて首を横に振り、振り払う。肩まで熱が上っているのが、自分でもわかる。
「?」唯さんが小さく首を傾げ、ちらりとぼくを見る。その口元に、ふっと小さな笑みが浮かんだ。
料理を食べ終えて、最後のデザートまでゆったりと味わったあと。まだ開演まで時間がある。部屋の空気も、腹の中もすっかり落ち着いたころ――悟さんがぽつりと前職時代の話を切り出した。
それがもう、止まらない。
「ある日さ、新築現場に行ったらさ……」と始まったのは――オフホワイトで発注していた外壁が、なぜかレモンイエローに塗られていた事件。
「……どう見ても和風の家なのに!」
その言葉に、ぼくは吹き出す。沙織さんは肩を揺らし、唯さんも口を押さえて笑っている。
原因は、見本の『質感』を示すサンプルを業者がそのまま“色見本”と勘違いしたこと。結果、和風の家に真っ黄色の外壁――。しかしこれが、意外と恰好良かったらしい。出来栄えを見せながら塗装業者が胸を張ってる。だが、注文と違うものは違う。みるみる青ざめていく塗装職人。
「施主が出来具合を見に来るっていう直前でさ……どうする⁉って、胃がキリキリしてな」
思い出すだけで悟さんの声が少し裏返る。結局その日は施主に土下座、翌日には正しい色に塗り直し。その仕上がりを確認してもらったときには、逆に「よくやってくれた」とねぎらいまで受けたという。
……背筋が寒くなる話なのに、語り口が妙にコミカルで、笑いが止まらない。
「でも、そんなのはまだ生易しいほうなんだよな」
さらに続く話。
下請けとして入った現場で、まったく別の業者のミスを彼がしたと勘違いされ、監督に延々怒鳴られ続けた話。「……俺、当事者どころか会社まで違うんだけど」と、心の中で突っ込みながら、冷静に“人はどうやって怒るのか”を観察していたらしい。
「で、ようやく一瞬のすきを見て『あの……業者さんが違いますよ』って言ったんだ」
その瞬間の監督の顔。「……今でも忘れられないな。でさ、そのあとの声が一瞬で変わるの。『なんで早く言わないんだ』、って」
悟さんが肩をすくめ、その声色と顔の表情を真似る。中年の男性特有の図々しい感じがよく再現されている。それに対峙していた悟さんを想像すると余計におかしい。
唯さんは涙を浮かべながら笑っていて、沙織さんも箸を置いて身を折っている。頬の筋肉が痛くなるほど笑い転げて――ふと気づいた。
こんなふうに、唯さんと一緒に声を出して笑う時間がある。それだけで、胸の奥があたたかく満たされていく。
「……まあ、その監督さんは沸点が低くて怒ってばかりいる自覚がある人だったから、笑って済ませられたけどさ」悟さんが湯呑を指で回しながら、ぽつりと続けた。
「でも、人によっては違うんだよな。しばらくしてからまた『仕返し』みたいに揚げ足を取ってくる。忘れたような話だから、咄嗟にどうリアクションしていいか分からないじゃない?だからなのか、ねちねちといつまでもさ。元はと言えば自分の間違いなのに……」
ため息まじりの声。でもその表情には、どこか達観したような余裕があった。
「……そんなもんさ。人間って」ゆっくりと茶碗を置き、指を組む。
「……なんでこんなに間違いを犯すんだろう、って。昔はよく思ったよ」一瞬、視線が宙を彷徨い――やがて穏やかに笑った。
「でも……間違いって、人間の本質なんじゃないかって。今では、俺はそう思ってるんだ」
その言葉が、部屋の空気にすとんと落ちて、静かに沁みていく。襖の向こうで鹿威しがかこんと鳴り、間がゆっくりと広がった。
ふと隣に視線をやると、沙織さんがじっと悟さんを見つめていた。瞳がわずかに揺れている。そこに、抑えきれない想いが透けて見えた。
――ああ、きっと。この人のこういうところに惹かれているんだろうな。
むず痒いような、胸の奥をそわそわ掻き立てられる感覚。
隣に座る唯さんと、そっと指先でつつき合う。視線が合って、ふふっと小さく笑いを漏らす。
……二人でその「むず痒さ」を共有してしまった。
料亭を出ると、昼下がりの光が柔らかく頬に触れた。秋めいた空気が胸いっぱいに入ってくる。澄んだ青空の高層雲。すっと引かれた白い絵筆の跡のように浮かび、夏と秋の境目がじわじわと肌に伝わってくる。
ビルの隙間を縫うように、飛行機雲が真っ直ぐに伸びていた。白線の先頭、白銀の機体が陽光をキラキラと跳ね返す。
唯さんは立ち止まり、その光景を目を細めてじっと見上げている。その瞳に宿っているものが、光を飲み込んで深く沈んで見えた。
沙織さんと悟さんは、もう地下鉄の駅に向かって歩き出していて、ふたりとの距離がすっかり開いてしまっている。
「行きましょう、唯さん」思わず手を伸ばし、その手を握って促した。
「……うん」
唯さんがゆっくりと目を合わせた瞬間、その瞳にうっすら涙が光った。光を反射して、まるで小さな雫の宝石のようにきらめいている。
「だ、大丈夫ですか……?」慌てて問いかける。
「大丈夫よ。……ごめんね。やっぱり、……思い出しちゃって」
小さな声。かすかに震えている。きっと翔くんのことだろう。
――その深い傷を、ぼくが埋めることなんてできない。
だけど、さっき唯さんは言ってくれた。『つばさは翔の代わりじゃない』と。
なら、ぼくにできることはひとつ。ぼくはぼくとして、この人の隣に立ち、寄り添い、支えること。
そっと涙をぬぐうその横顔に、あどけなさが見えた。
抱きしめたい衝動が、胸の奥からせり上がってくる。けれど、ぎゅっと息を吸い込んで抑える。
代わりに、その手をそっと握り直し、地下鉄の駅に向かって歩き始めた。まるでその道を導くように、歩幅を合わせながら。
◇
北山音楽大学。地下鉄、学園前駅の改札を出るとすぐにその姿が現れる。
このキャンパスと一体でこの一帯を開発したようだ。
整然と並ぶ街路樹の間に、ガラスとアルミで組まれた駅舎が光を反射している。ロータリーにはタクシーが数台停まり、彫刻のように凝った街灯が等間隔に立ち並ぶ。足元には白い石畳。陽光に照らされて、ほんのりと空色の光を帯びていた。
同じ方向に歩いていく人々の足音が重なり合う。皆、目的は同じ。『北山音楽大学付属高校オーケストラ部 夏の終わりのコンサート』。
「ここかぁ。深雪の高校」唯さんがぽつりと呟く。
視線の先には、レンガ色のタイルが貼られた立派な校舎。学園のAセグ棟をそのまま拡大したかのような建築。いや、それ以上にどっしりとした存在感がある。音大付属らしく、規模のすべてが大きく、計算し尽くされている。
ホールに足を踏み入れると、思わず息をのむ。市民ホールよりはやや小ぶりながら、フルオーケストラが余裕をもって並べる舞台。背後には荘厳なパイプオルガンがそびえ立ち、壁面の木材が柔らかく反響しそうな光沢を放っている。
――うちの講堂より、ずっと大きい。胸の内でつぶやき、ホール全体を見渡した。
写真を撮るため、いつものように前列左側に腰を下ろす。悟と沙織は中央付近に座ったのがちらりと見える。
「唯さんも、好きなところに座っていいですよ」気を遣って声をかけると、小さく笑って首を振った。
「いいよ。つばさの好きなところで」
その瞬間、すっと肩越しに顔を寄せられる。吐息がかかるほど近くで――。
「……わたしのカメラマンなんだから、忘れちゃだめよ?」
耳の奥に、熱を帯びた囁きが落ちてきた。思わず背筋を固くし、シャッターを切る指先にまで微かな震えが伝わった。
そうだった。……忘れてはいない。けれど、いざレンズを向けるとなると、こちらだって気恥ずかしいものだ。撮る側も撮られる側も、緊張が走る。
とはいえ――開演前のざわめきに包まれた今なら、狙える。席に座ったまま、思い切って唯さんの手を取った。
白くしなやかな指がレンズの中に映り込むように角度を調整し、まるで男から差し出された誘いを受ける瞬間のようなシルエットを切り取る。
シャッターを切った瞬間、その顔に一瞬の戸惑い。けれど、すぐに――誘いを受け入れた女性のように、ふっと妖艶な微笑みに変わった。
連続シャッターにしておいてよかった。ほんの一瞬の変化が、手元の画面に次々と残っていく。
「どう?……いい感じに撮れた?」小声で問いかける唯さん。
――これは、条件さえ整えてやれば、専門誌に投稿できるレベルだ。……主にモデルが、ね。ぼくが撮った写真は手ブレもあるし、露出も少し足りない。
けれど、案外それがいい。投稿用ではなく、自分だけのもの。ぼく専用唯さん。ふふふっ……。
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