第2章 女王 (6)
唯先輩が……行ってしまった。あの男は、誰だ。
車へと向かうふたりの後ろ姿が、まだ脳裏に焼き付いて離れない。あの自然な笑顔。寄り添うように並んで、まるで当然のように肩へ添えられた手。
……親しい関係。そう思わされるには十分だった。
どこへ行くつもりなんだろう。今夜、このまま――まさか。
頭の中に、不意に浮かんでしまう映像。あの腕に包まれて、目を細める唯先輩の顔。白いシーツの上で、するすると落ちていくあの青いドレス……。
「……ちがう、ちがうちがうっ……」
思わず、ぶんぶんと頭を振った。今のは、違う。ただの妄想だ。何かの影。錯覚だ。落ち着け。ぼく。落ち着くんだ。
あのくらいのスキンシップ、映画とかでよく見る。西洋人の男性って、ああいうの普通にするんだ。きっと。……たぶん。
冷静になれ。冷静に考えるんだ。変装して、偽名を使って、あれだけの演奏をして、姿を消す……。それをひとりでやっているとは思えない。
あの男は……彼女の協力者かもしれない。どこかのプロダクションとか。あるいは……もっと別の、組織のようなもの。コンクールを次々と制覇していく戦略。その裏で動いている何か。
……いや、その意味って一体なんなんだ。こんな地方の大会でそれをしても、意味があるとは思えない。正式な優勝もしていないのだ。これ以上、想像しても無駄だろう。
――また、会えるだろうか。このまま居なくなるなんて、ないよな?
いや。きっと会える。だってぼくは、唯先輩の『専属カメラマン』、なんだから。
足が、重い。さっきまであれほど駆けていたのに、いまは一歩がやけに遠い。
顔をうな垂れたまま、視線を地面に落として会場へ戻った。何人かの大会関係者とすれ違う。怪訝そうな視線もあったが、もはやどうでもいい。耳鳴りのような沈黙が、身体の中に張りついている。
ホールの照明はすでに落ちかけていて、ロビーの片隅で、さなえとちせが待っていた。
「……どうだった? 並谷翔子。捕まえられた?」
さなえの声が軽く響く。けれど、答えられない。
ただ、静かに首を横に振った。
「どうしたのよ。黙ってたら分からないわ」
少し苛立ち混じりに、ちせが身を乗り出す。
「唯おねえさま、どうなったの?」
……え?
顔がはっと上がる。思わず言葉が漏れた。
「……どうして……それを」
ちせとさなえが顔を見合わせ、同時に小さく肩をすくめる。
「気づかないとでも思った? わたしは、音を聴いてすぐに分かったわ」
ちせが誇らしげに、その小さな胸を張った。
「え、えっと……わたしも、なんとなくだけど。つばさの態度で」さなえは気まずそうに目をそらす。
――そうか。ふたりとも……とっくに気づいてたんだ。
なんだ、ぼくだけじゃなかったんだ。ひとりで重たく抱えて、空回りして、勝手に落ち込んで……。ふふっ……。
こみ上げるものを抑えきれず、小さく笑ってしまった。情けないのか、安心したのか、自分でも分からないまま。
「その様子だと、唯先輩には会えなかったのね?」
さなえが、迷子をあやすみたいな優しい声でそう言った。
小さく瞬き、そして頷く。
「……うん。……車に乗っていくところは見た。……外国人の男の人と一緒に」
言うべきか迷ったが、口にしてしまえばどこか楽になる気がした。
さなえは軽く首を傾け、指をあごの下に添えて考え込むようなポーズをとる。
「それで、ショックを受けて心ここにあらず、ってわけね?」
さらに……。
「あらあら、涙目になって負け犬みたいに戻ってきたの。かわいそう」と追い打ち。
その口元に浮かぶ笑みは意地悪で、でも悪気のないものだった。
「……なっ!そ、そこまで言うことないだろ!」
思わず顔を上げる。目を見開く。
そして。「……うん。……まあ、そうかも」
また視線を落として、小さくうなだれた。
すると横から、ははっ、と笑い声が響いた。
「なにを落ち込んでるのかと思えば、なんだ。そんなこと」ちせがぼくの背中をぽん、と軽く叩く。その手つきが意外にあたたかくて、戸惑う。
「知りたい? その男のこと」
ちせが、にやりと口元をゆがめる。
「ちーちゃん、知ってるの?」さなえがすかさず身を乗り出す。
「……まあ、見てないから絶対とは言えないけど」
ちせは、少し勿体ぶるように言葉を区切ったあと「先生よ。その人。たぶんね」
「……先生?」口から漏れた声は、どこか気が抜けていた。
「外国人の先生いるんだ」さなえが小さく感嘆するように言う。
けれど、ちせはゆっくりと首を横に振った。
「学校の先生じゃないわ。唯おねえさま個人に付いている先生。ジョージ・スコットマン」そして、声の調子をほんの少しだけ誇らしげに変えて続けた。
「有名なバイオリン奏者よ。メジャーレーベルから何枚もCDが出てる」
――ジョージ・スコットマン。
そんな“大物”と、唯先輩が直接つながっているなんて……。
やっぱり。あの人は、ただものじゃないんだな……。
意識が少し遠のいていく。まるで、自分には縁のない国の、どこかの物語を聞いているような……そんな感覚。
「イギリスに短期留学したときに――」
そこまで話したところで、ちせの口がぴたりと止まった。
しまった、という気まずさが伝わってくる。
その一瞬の沈黙が、ぼくの胸に小さなざわめきを広げていく。
ちせ、何かを知っている。間違いない。
――きっと、翔くんのことも。
中等部からのエスカレーター組。唯先輩とも親しく、去年の夏、学園に何があったのかを知っている。ぼくらの知らない“現場”を、もうとっくに見てきた目だ。
でも。だからといって、この場で問いただすことは……できなかった。言葉にすれば、何かが崩れてしまいそうで。
……その時を、待つしかない。
明後日、さなえが新聞部の過去記事を漁りに行く。廃棄されたはずの、学園の闇を綴った「没記事」。
きっとそこに――答えがある。すべての、はじまりの。
ぼくが口を開きかけた、そのときだった。
「ごめん。わたし、もう行くね。練習したいの」
ちせの声が、不意に落ちてきた。
ぼくはさなえと思わず顔を見合わせる。
「あんな演奏、聴かされたら……たまらないわ」
そう言って、ちせは自分の肩を抱くように、ぎゅっと両腕に力を込めた。その細い腕に、滲むような感情が見えた気がする。
「じゃあね。……何か分かったらラインして」
それだけを言い残し、くるりと踵を返す。ロビーのドアへ向かって、小さな足取りで歩き出す。
あの盛りに盛った『アンコールワット』みたいな髪型、どこかの舞台衣装じみた赤いワンピースが、ひらりと舞う。
――あの格好のままで、練習に行くのか。それはそれで……見てみたい気もする。
「じゃあ、また」
ちせの背中に向けて声をかける。
彼女は振り返らないまま、片手を軽く挙げて応えた。
ドアの向こうに消えていく、小さな背中。
「……行っちゃったね」さなえがぽつりと呟く。
「ちーちゃん、すごいよね。……わたしも、あんなに全力で打ち込めること……欲しくなっちゃった」
ふと、さなえの目がどこか遠くを見ていた。その表情が、やけに大人びて見えて、ぼくは言葉を失った。
……ドキリ、とした。
――いや……追いかけるものが欲しい。それはぼくも、同じだ。
胸の奥で、そっと呟いた。
市民ホールを出ると、風の匂いが変わっていた。夏の名残を残しながらも、わずかに乾いた秋の気配を感じる。
西の空がじわじわと茜に染まり、遠くの雲が金色に縁取られていく。頭上には、群青へと近づいていく空の色。だんだんとその色は深く濃くなっていく。
駅前の人の流れは相変わらずせわしない。駅へ向かう家族連れや、塾帰りの学生、会社帰りのスーツ姿。そのすぐ脇を、街へ繰り出す若者たちのグループが笑い声と香水の匂いを残してすれ違っていく。
歩道の端、ほんの数十センチの距離に、さなえの手がある。
風に揺れるスカートの裾と、ぼくの指先がふと重なりそうになる。
――いま、その手を握ってしまえば。
「はぐれないように」なんて、いくらでも言い訳はできる。
きっと、さなえは許してくれる。夏休み最後の記念に――。
指を、一本だけ。そっとさなえのほうへ。
その瞬間。
「あのさ。わたし、買い物あるから」
立ち止まったさなえの声。
ぼくの指先は、空を掠めたまま、止まる。
「じゃあ、また。……明後日、学校で」
そう言うさなえの顔は、穏やかだった。
でもどこかに、「これ以上は踏み込ませない」そんな、淡い圧のようなものをまとっていた。
ぼくは短く頷くだけだった。
「……うん。……じゃあ、明後日」
そう言って、駅へと歩き出す。
小さく揺れるその背中を、静かに見送る。言葉にするには少しだけ遅すぎて。黙っているには胸の奥がざわつきすぎて。
見上げると、夕日を映している飛行機雲が消えていく。
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