第2章 女王 (5)

 そして――静かに、舞台袖から一人の女性奏者が現れた。


 ざわめきが、波のように客席を伝って広がる。一瞬にして満ちる、待望と驚きの気配。


 皆の視線の先には――並谷翔子。ぼくの心臓も、どくんと大きく跳ねた。

 亜麻色のくるくると巻かれたウィッグ。

 ちょっと趣味の悪い感じ、わざとだろうな。

 そして、細い身体にぴたりと沿うように巻き付いた、深いブルーのドレス。

 ――静かに光を放つ、明け方の空のような深い青。


 彼女は静かに歩を進め、演奏位置に立つ。ピアニストにわずかに視線を送り、目で合図を交わす。そして、ゆっくりとお辞儀をした。

 ――その瞬間、客席からどっと拍手。まるで、合図を待っていたかのように。


 顔を上げると、白磁のような肌が舞台照明を柔らかく弾いた。そして、右目の下。目元には、たしかに――泣きぼくろ。


 小さな黒点だが、目元にある特徴は見る者の意識を集めてしまう。そして、なにか物憂げな、あるいは妖艶な印象を植え付ける。

 拍手がすっと収まり、水を打ったような静けさが戻る。並谷翔子は、舞台の中央でゆっくりと客席を見渡す。

 

 ――憎らしいほどの余裕。


 何の戸惑いも、ためらいもない。この静寂すらも、演奏の一部として取り込んでしまうような気配。ピアノ伴奏者の指が鍵盤に置かれるのと同時にバイオリンを構える。一瞬で軽やかにその動作を終え、まるで呼吸の一部のように弓が弦の上に置かれた――その瞬間。


 音が、色鮮やかに放たれる。


 ……なんだ。なんなんだ、これは。


 脳が、一瞬追いつかない。あまりにも澄んだ、そして薫り高い響き。今まで聴いてきた音――荒川先輩、音大付属の生徒、一般の部に出場した音大生たち――そのすべてを色あせた過去にする一音。


 ……これが、同じ構造の楽器から出る音なのか。

 会場全体が、その一瞬で別の空気に包まれた。誰も動かない。息もできないほどに。たった一音で、すべてが静止した。

 手を握りしめてしまう。ぞくりと背筋が粟立つ感覚。


 隣にいるさなえは演奏が始まった瞬間――ぽかんと口を開けたまま動きを止めた。その唇が、やがてゆっくりと閉じていく。ふっくらとした頬がわずかに緩み、微笑みにも似た、恍惚とした表情が浮かぶ。視線はどこにも定まらず、ただ音に抱かれていた。


 一方のちせは――最初こそ、目を見開いて、一音一音を食い入るように聴いていた。だが、わずか5秒も経たないうちに、彼女の頬をひとすじ大粒の涙がつうっと伝う。ぼろりと音がしそうなほど鮮明な粒。


 次の瞬間には、ちせもさなえと同じように、ただ彼女の音楽に身を委ね、言葉も理屈も、過去も未来も失くして――その世界に、静かに旅立っていった。

 もはや、会場にいる誰一人として、あの魔法から逃れることなどできなかった。


 それは、感動という言葉では足りない。理解や共感では到底届かない。


 ただ狂気にも似た、圧倒的な音楽の奔流。全身をさらわれていく。理性が奪われることにすら気づかないまま、底知れぬ深みに、静かに落ちていくようなひととき。

 ――そして、ふと気づけば。


 演奏は、終わっていた。

 残響が収まる。ようやくその事実を認識し、はっとして両手を叩く。


 パン、パン――と乾いた拍手音。その小さな音が引き金になったように、会場が、一斉に大きく沸き立つ。ざわめきではない――喝采。揺れるほどの拍手、指笛の音、「ブラボー!」と叫ぶ声が四方から飛ぶ。


 舞台の中央に立つ彼女は汗ひとつかいていない。

 観客席をゆっくりと見渡している。拍手を受けると静かにすっと姿勢を正し、整った所作で、深く一礼する。その動きさえ、まるで舞のように洗練されていた。


 そして、ほんの一瞬だけ――唇の端に、わずかに微笑みを浮かべる。ゆっくりと舞台袖に姿を消した。


 ……ぼくは夢中でシャッターを切った。心も、視線も、思考さえも掴まれたまま、その光景をただ無我夢中で。


 興奮の醒めやらぬ会場。席を立った観客たちも、まだどこか夢の続きを引きずるように――ざわざわとした熱の膜に包まれていた。

 さなえも、ちせも、口を開かない。言葉が見つからないのではない。

 ただ、今のその感動を言葉に変えてしまうことが、もったいないのだ。


 ぼくは脳裏に刻まれたばかりの音を反芻していた。並谷翔子の演奏。あの、圧倒的な《24のカプリース》。

 この曲は第1番から第24番まであり、演奏者によって組み合わせを選ぶ。限られた演奏時間内では似た構成になるのも仕方ない。今日だけで何度も同じ構成を耳にしてきた。耳が覚えているはずの、あの曲。


 ……そのはずだった。

 けれど、翔子の演奏はまるで別ものだった。

 表現の幅。見た目には実にあっさりとしていて、軽やか。オーバーアクションも、表情の芝居も一切ない。けれど、その無駄のなさが逆に目を奪った。


 他の奏者たちが1〜10のスケールで音をコントロールしていたとすれば、彼女はそのスケールの上限を拡大し、さらに1〜100まで分解しているような感覚だった。

 正確な一音一音。ダイナミックなフォルテ。丁寧な強弱、音の温度、空気の密度、沈黙の意味。すべてが、全く違う充実度で構成されていた。


 何より、彼女の演奏には――説得力があった。

「この曲は、こうあるべきなんだ」と、すっと納得させられてしまう強さ。音のひとつひとつが、まるで意志を持ってそこに着地する。欲しいところに、欲しい音が来てくれる。小さな的に、すっと矢が吸い込まれるような心地よさ。


 ……ああ、もう一度聴きたい。そして、いつまでも聴いていたい。

 ぼくはクラシックの素養なんてない。音楽の理論も、評価の言葉も持っていない。それでも――。

 心の底から、ただ純粋にそう思っていた。

 

 会場、やや前寄りの真ん中あたり。審査員席では、審査員たちが静かに最終結果を取りまとめている。そこへ――のしのしと、大沢校長が歩み寄っていった。

 ……いやな予感。まさか、とは思う。けれど、あの男の顔なら――やりかねない。

 ぼくの懸念は、あっさり的中した。


 審査員のひとりに何やら耳打ちする校長。応対する審査員たちの表情が、たちまち困惑に染まっていく。眉を寄せる者、口を引き結ぶ者。苦々しさと戸惑いが交じった顔。

 ……おいおい、やめてくれ。見ているこっちが恥ずかしい。


 一方の荒川先輩は、真ん中の席に座ったまま顔面蒼白になっていた。あの演奏を聴いてしまった後では、仕方ない。胸を張るどころか、自身の存在の意味まで揺らいでしまう。

 ――でも。追いつけないからといって、終わりじゃない。彼にしか立てない舞台、鳴らせない音だってある。彼は彼の場所で、勝負をすればいい。……これがトラウマになって、バイオリンを投げ出したりしないだろうな。ほんの少しだけ心配になる。

 そんな中、校長の図々しいやり取りを目の当たりにして、ちせが頭を抱えた。


「……あのバカ。並谷翔子は事実上の招待演奏。コン・マスオの順位には関係ないのよ」吐き捨てるような声。

「並谷翔子に優勝はあり得ないの。今回も、審査員特別賞に決まってる。なのに――あんな物言い、恥の上塗りよ」


 その説明を聞いたぼくとさなえも、思わず顔を赤くする。頬が熱い。

 ……なんで、大の大人の共感性羞恥をここまで味わわなきゃならないんだ。それもよりによって――校長の。


 審査員たちの表情は、動じることなく淡々としていた。大沢校長の熱を帯びた言葉も、まるで硬い膜に阻まれたかのようにすり抜けていく。

 初老の男女――恐らくは北山音大の教授陣――が軽く視線を交わし、事務的に頷き合う。その間にも大沢の声は虚しく宙を滑っていた。

 やがて白髪の男性が立ち上がり、「では、そういうことでよろしいですね」と短く告げる。


 周囲が同意するように頷くと、審査員団は粛々と退出していった。残された空気だけが重苦しく、場違いな校長の姿を浮き彫りにする。

 荒川先輩の隣に腰を下ろした大沢は、「大丈夫だから」などと肩を叩くが、その言葉は宥めるというより、空疎な合いの手にしか聞こえない。

 

 荒川先輩の蒼白な顔色、その俯き加減。

 ――彼は気づいてしまったのだ。

 並谷翔子の正体に。

 あの泣きぼくろの下にある素顔を。


 だが大沢は恐らく、気づいていながらあくまでもそこから目を背け続ける。


 やがて休憩を挟んで、結果発表の時が訪れる。名前を読み上げる声が静かな講堂に響く。中学生の部が終わり、高校生の部。


「第3位、北山音楽大学付属高校――佐藤陽子」

「第2位、扶陽学園高等部――荒川雄大」

 会場がざわめき、そして続く沈黙。


「第1位……該当者なし」


 ざわっ、と空気が揺れた。

 荒川先輩が壇上へ歩み出る。


 肩にのしかかっていた重みが一瞬だけ抜け落ちたかのように、安堵の色を浮かべている。

 蒼白さはまだ残っているが、いつもの堂々とした雰囲気を取り戻しつつあった。

 ぼくは胸の奥で、ほっと息を吐く。


 つづいて、一般の部の結果発表。その名前が告げられた瞬間、会場の空気は一拍の沈黙を置いて揺れた。

 北山音大の学生が受賞を独占。

 そして最後に付け加えるように――審査員特別賞、並谷翔子。


 わかっていたことだ。それでも、胸の奥でざわつきが止まらない。


 だが壇上に並谷翔子の姿はなかった。

 ……もう、この会場にはいない。

 そう直感して、ぼくは椅子を蹴るように立ち上がった。「ちょっと、つばさ!」さなえとちせの声が背後で響く。


 呼び止める言葉を振り切るようにホールを出る。

 ロビーを抜け、階段を駆け下りる。


 白い壁に貼られた「関係者以外立入禁止」の紙が視界を塞ぐ。

 足が止まる――だが迷いを振り切って、扉に手をかけていた。


 誰にも会わないように。気配を消すように。並谷翔子は、そうして去るはずだ。

 ステージ裏。狭い通路を巡り、控室の扉を一つひとつ確かめながら進む。

 やがて「出口」と書かれたプレートが目に入った。


 ドアを押す。

 そこは地下駐車場だった。蛍光灯の明かりに車の列が青白く照らされている。その奥――目に飛び込んできた。


 青いドレス。

 並ぶ車の隙間に、ちらりと見える。

 反射的に走り出していた。

 

 ……見つけた。間違いない。

 けれど次の瞬間、息が詰まった。


 黒い髪。あのわざとらしいウィッグを外した姿。

 そこにいたのは、並谷翔子ではない。


 あれは、唯先輩。やっぱり、そうだったんだ。


 スライドドアが音もなく開く。黒い高級なミニバン。中から現れたのは、背の高い男。外国人だろうか。


 大きな輪郭、堂々とした立ち姿。

 彼女はその男に笑顔を向けている。

 親しげに言葉を交わし、微笑み合う。男の腕が、自然にドレスの背中へと回される。ためらいのない仕草。

 やさしく導くように。

 そのまま二人は後部座席に身を滑り込ませた。


 すーっと静かに閉じられるドア。エンジン音が低く唸り、ミニバンは滑るように駐車場を出ていく。


 ただその場に立ち尽くすしかなかった。動けない。息もできない。

 視界の端で赤いテールランプが遠ざかっていくのを、呆然と追い続けるしかなかった。

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