第1章 出会 (4)
彼女の肩が、目の前に近すぎるほどにあった。
さらりと流れる黒髪がぼくの肩に触れ、シャツに含んだ汗がひやりとした感触を残す。その肩の上から、アオダイショウがするすると滑り降り、ぼくの膝へと移っていった。
(……もしかして、邪魔しちゃ悪いって思ってくれてるのかな)
そんな場違いなことを考えながらも、震える声を必死に絞り出す。
「……あ、あの……ぼくに……何が出来るんですか?」
責任を取れと言われても、なにができるというのか。自分の無力さを突きつけられる痛みに耐えきれず、それでも問いを投げた。
そして、ふっとぼくから身体を離すと、スツールの上で背筋を伸ばして座り直す。黒髪が肩に戻り、上半身の輪郭を鮮やかに際立たせる。
「……ごめんね。怖がらせちゃったかな。そんなに難しく考えなくていいのよ」
声は先ほどまでの鋭さを失い、穏やかに戻っていた。
「ただ、わたしに協力してほしいの。……お願いできるかしら」
その言葉に、胸が熱くなる。正直、下心が無いわけじゃない。こんなにきれいな先輩を手伝う――それだけで、これから二人きりで会う機会も増えるはず。そんな期待が頭をよぎる。
だけど……。告げられたあまりに重い背景に、足がすくむ。
「……協力、したいですけど……ぼくには……何の取柄もなくて……きっと、期待には応えられないと思います……」
――ああ、言ってしまった。役立たずだと思われる。失望される。そんな後悔が一気に押し寄せ、顔を上げるのが怖かった。
だが、恐る恐る上げた目に、見えたものは想像とは違っていた。
彼女は、柔らかく微笑んでいた。包み込むような笑み。
「だから……そんなに大したことじゃないんだってば。……カメラマン、やってよ。わたしの専属カメラマン」
「……カメラマン?」
思わず間抜けな声が漏れる。頭の中では、意味不明な想像が暴走する。――まさか……唯先輩の水着とか……? いや、絶対ないだろ。水色が似合いそう、なんて勝手に思って、慌てて自分で突っ込む。
――アホか。
「……な、何を撮ればいいんですか?」
恐る恐る尋ねると、唯先輩は意味深に口元を歪めた。唇の端が、ゆっくりと上がる。
「……来週末。コンクールに来て。そこで……彼女を撮ってほしいの」
一拍おいて、名を告げる。
「……並谷翔子」
その並谷翔子って人を撮れってことなのか。唯先輩じゃなくて。
「……あ、あの。先輩を撮るんじゃないんですか?」少し期待外れの気持ちを隠しきれずに尋ねると、彼女は唇をやわらかく曲げて微笑む。
「初回の注文は、ね。まだまだ先は長いから」
その言葉に胸がふっと軽くなる。――まだ続きがある。安堵と同時に期待が芽生える。
「……あ、そうそう。わたしもさっきの約束、守らないとね」ぽん、と胸の前で両手を合わせる。
「ほら、さっきの彼女。誤解を解かないと」
その手のむこうにある白いブラウスが包む柔らかい曲線に、自然と目が吸い寄せられそうになってしまう。慌てて顔を横に振り、雑念を振り払う。
「……さなえのことですか? か、彼女じゃなくて、えーと……」
言い訳がましい声になってしまい、耳まで赤くなる。
唯先輩がわずかに間を置いて、くすりと笑う。
「……ああ、そうじゃなくて。三人称の彼女。Sheのほう。……って、そっか。あの子、彼女じゃないのね? ふふっ」
意味深に笑われると、余計に翻弄される。
――どうして年上の女の人って、こうやってぼくをからかうんだろう。思えば、姉に散々弄ばれてきた16年。そう簡単に騙されはしない……はずなのに。
(……いや、それより。さなえの誤解を解いてくれるって?)
ぼくの前にひょいと片手を差し出す。
「スマホ。出して。さっきの子に電話掛けて」
「……はい」素直に従って画面を操作し、コールが始まった瞬間。
「貸して」
迷いなくぼくの手からスマホを取ると、耳に当て、軽やかな声を響かせる。
「もしもし? つばさくんの彼女? ――生物部2年の町田といいます」
「……っ!?」(いや、彼女じゃないって言ったばかりなのに……!)
「さっきはごめんなさいね。……ううん、わたしのコンタクトずれちゃって。……そうなのよ。……え、そうなの? さなえちゃんも生物部なのね」
あまりに自然すぎる会話の流れ。『彼女じゃない』と知ったうえで、さらっと「つばさくんの彼女?」と差し込む、その巧みさ。
――これが、サッカー部を混乱へと陥れた時に使った手腕なのか。感心すると同時に、どこか底知れない怖さが胸に広がる。
「……うん、よろしく。……じゃあね」
通話が切れた。スマホが返ってくる。
「――ほらね。誤解なんて、あっという間に解けるものよ」
微笑む瞳。桜色の唇。その色に、息を呑んだ。
「さてっ」と唯先輩が伸びをしながら立ち上がると、部屋の空気がふわりと動いた。黒髪の先が光を掬って、視界をさらさらと通り過ぎる。
「それじゃ、そろそろ練習に戻るわね。……あ、そうだ」
先輩の癖なのだろう。また胸の前でぽん、と手を叩く仕草がちょっと子どもっぽくて愛らしい。
「明日は講堂で全体練習なの。見に来て。さなえちゃんも一緒に」
オーケストラのことだろうと、すぐに合点がいく。……講堂なら空調も効いているだろうし、夏の真っ昼間でもずっと涼しいはずだ。夏休みも残り一週間――ほんの少し、胸に温度の変わる予感が忍び寄る。
「はい。行きます。撮影しても構わないですか?」と訊ねると、先輩は肩越しに軽くうなずいた。
「もちろん。ただしフラッシュは焚かないでね。静かにしてれば怒られることもないから」
ぼくの膝の上からアオダイショウを掬い取り、水槽の前まで運ぶ。
「今日もありがと、アオくん」その呼びかけ方に、思わず笑いを飲み込む。その声は、ついさっきまで聞いていた鋭さを失って、やわらかく澄んでいた。
アオダイショウはするすると、白い手の甲を伝って水槽の中に戻っていく。ガラス越しに見守る唯先輩の姿が、優しい絵のように見えた。
思わずぽうっとしてしまう。その横顔を眺めながら、胸の内側に生まれた微かな落ち着かなさを感じていた。
「じゃ、また明日ね。鍵、お願い」部室の入り口で軽く手を振ると、廊下へと出ていった。歩き去るその背中は、Aセグの女子生徒らしく、すっと背筋の伸びた清潔感に溢れている。
ぼくはというと、スツールの上でしばらく動けなかった。頭の中でぐるぐると今日の出来事が回転する――唯先輩の話……弟の翔くんのこと、昨日の乱闘、そして「専属カメラマン」という言葉。どれも現実味を帯びて、重くのしかかる。
恐ろしくもあり、希望とも思えて、ぼくの胸を乱した。
「……先輩は、第一職員室から鍵を借りてきたんだな」
同じ敷地内にある学校なのに職員室まで違う。徹底的に隔てられた別世界の住人のようなAセグ。明日はその世界へ、足を踏み入れることになる。
想像すると、不安が頭をもたげて心がざわついた。けれど、どこかでそれを待ち遠しく思う自分もいる。カメラバッグのショルダーストラップをぎゅっと掴み、ぼくは重い車輪のような決意を胸に抱いた。明日の講堂――そこで、何かが動き出すのか。
◇◇
今朝も朝日が暑苦しくリビングに差し込んでいる。
ソファーの上に投げ出されたように寝転ぶ姉。
タンクトップにショートパンツ、栗色の髪はゆるく波を描き、蛍光灯の白い光を受けて艶めいている。
健康的に伸びた脚、同じ遺伝子を引き継いだとは思えない整った顔立ち。頭の回転の速さも含めて、ぼくにはどうあっても敵わない存在だ。
大学生の夏休みは長い。午後からのバイトまで、今はリビングでテレビにだらけた視線を投げている。
その画面に、高校生が水の事故に逢ったという黄色と赤のテロップと、ヘリコプターから海岸を撮った映像が流れている。
「いってらっしゃぁい」目を画面に向けたまま、姉の気の抜けた声と手のひらだけがひらひらと動く。「いってきまーす」それに倣って軽く返しておく。
電動自転車に跨り、坂道を登っていく。
いつものことだ。ペダルをかるく回す、省エネ走法。だけどもう、これ以上改善の余地はない気がする。
校門をくぐると、夏休みの静けさが支配する構内。自転車を降り、押して歩く。駐輪場から通用口に直行すれば近いのに、なぜか昇降口まで遠回りしなければならない。そんな小さな不満を胸に抱えつつ、足取りは自然と速くなる。
今日の目的は――唯先輩が参加するオーケストラの全体練習。その見学。胸の奥がかすかに高鳴る。
さなえには既にメッセージを送って知らせてある。
「了解」
ただそれだけの素っ気ない返事。昨日の一件――唯先輩との“キス疑惑”は誤解だとわかったはずなのに、まだどこかに残っているわだかまりを思わせる。その微かな不安が、胸の隅にざらついていた。
上履きに足を入れ、きゅっと踵を鳴らして廊下を進む。夏休みの校舎は音を吸い込んだように静まり返っていて、足音だけがやけに大きく響く。第二職員室で鍵を受け取り、写真部の部室に立ち寄る。防湿庫を開け、カメラ本体と望遠レンズをバッグに収めると、肩にずしりとした重みが加わった。
次は生物準備室。さなえと合流して、飼育している生き物たちの世話を済ませてから講堂に向かう予定だ。
――ふと、今朝リビングで姉が見ていたテレビ画面が脳裏をよぎる。『遊泳禁止区域で男子高校生が溺れ、重体』というテロップ。なぜだろう、妙に引っかかる。
……どうか、うちの学校の生徒じゃありませんように。
廊下が中庭に面するあたりで、視線の端に人影が映った。木陰のベンチ。そこに腰掛ける二人の女子生徒。
二人ともAセグの制服。ひとりは――唯先輩だ。もう一人は……紺色の紐タイからみて1年生か。
一瞬、迷ったけど。「専属カメラマンなんだから……いいよな」と心の中で勝手な言い訳をしながら、望遠レンズをゆっくりと構える。ファインダー越しに覗いた先輩は、やはり今日も息を呑むほどに整っている。
その隣は――見覚えのある顔。あの時に見たサッカー部のマネージャーだ。一気に鼓動が早まる。まさか、また何か起きているのか?
唯先輩はマネージャーの肩を抱くようにして背中を撫でているようだった。膝の上で手を重ねるようにして、互いに励まし合っているような慰め合っているような……。その口元が、かすかに動く。
――『大丈夫』とか『気にしないで』とか……そう告げているように見えた。
しばらくそうして言葉を交わした後、ベンチから立ち上がった二人は視線も交わさずそれぞれ逆方向へと歩き出す。
……一昨日のあの混乱。そして、噂されていた“裏切り者”の存在。その火種を仕掛けたのは唯先輩だった。
もし――もしも、マネージャーがその内通者だとしたら。今のやりとりは、何かの“報告”だったのかもしれない。
だが……それにしては、あの顔つき。目の下に深い影、肩の落ち方、息の浅さ。……ひどく、憔悴しているように見えた。
立ち上がった後に、唯先輩がこちらを見たような気がした。だが、その視線は何も留めることなく、静かに講堂の方へと去っていった。背筋をまっすぐに伸ばしたその後ろ姿だけが、遠ざかっていく。
その姿を見送ると同時に、ぼくの胸に――重たく、沈んだような感覚が広がっていく。耳の奥が、ずっとぐあんぐあんと鳴っている。鼓膜の奥、脳の中心に近いところで。何かが、警鐘のように、鳴り響いていた。
何かに抑えつけられたように顔を上げられないまま、生物準備室へと足を向ける。引き戸に手をかけて開くと、すでにさなえが来ていた。
水槽の掃除、エサやり――いつもの手順を、手際よくこなしている。こちらに背を向けたまま「おはよう」と、いつものように。
「……おはよう」 声に力がこもらない。
気の抜けた返事に、怪訝そうに振り返る。
「……どうしたの? 顔色、悪いよ?」バケツの水を置いて、心配そうに覗き込んでくる。
「……なんでもないよ。……それより……」
話をそらそうとしたその瞬間、さなえがふいに遮る。
「それより、見た? 今朝のニュース」
――心臓が跳ねた。
言葉が出なくなる。頭のどこかが、「聞きたくない」と、反射的に拒絶している。
「遊泳禁止の海岸で、うちの生徒が溺れたらしいよ」
やっぱり――。
頭の中に、赤黒い霧が渦を巻いて吹き荒れる。視界の端から、じわじわと滲むような疑念。
「サッカー部員だって」
……その言葉で、確定した。
――ああ……。唯先輩。
今度は、何をしたんだ。
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