第1章 出会 (3)
胸が縮むように、肩をすくめてしまう。
(……そう、勘だよ。でも……やっぱりそうとしか思えない)
「……あの、その……変に思うかもしれないですけど……」
喉が乾く。言葉がなかなか出てこない。
「なに? 言ってみて?」声は柔らかい。けれどその調子は――まるで母親が「怒らないから」と言うときのようで、かえって怖い。
「……昨日、見たんです。サッカー部の更衣室の前から。土手の上に……女の人が立ってるのを。黒い服を着て……」
「……そう」
蛇を撫でる手を止めずに、淡々と返す。
「それで……その人が、わたしだと思うの?」
間を置いて、ゆっくりと。問いかける声は低く、真剣だった。
顔までははっきり見えなかった。だけど――。どうしても説明するには、この言葉しかない。
「……はい。それで……その……ぼく、わかるんです。服の上からでも……その人の……体つき……」
言った瞬間、自分で自分の言葉に赤面する。
唯先輩は目をぱちりと大きく見開くと、……ぷっ! 堪えきれないように肩を震わせる。
「あはははっ……!」
澄んだ笑い声が、生物準備室の中に弾けた。
ぼくは顔が熱くてたまらず、視線を床に落としたまま動けなかった。唯先輩の笑い声が、生物準備室の蛍光灯に反響して、やけに大きく響く。
……でも、笑ってるってことは怒ってはいないんだよな?
恐る恐る顔を上げると、目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、まだ笑いに肩を揺らしながらもすっとスツールに腰を下ろしていた。
「あー、……笑った。面白いね、君」
その言葉に小さな安堵を覚えて、おずおずと向かいのスツールに腰を掛ける。肩の上ではアオダイショウが目を閉じ、まるで昼寝でもしているかのように身じろぎひとつしない。
「……すみません。変なこと言って」消え入りそうな声で謝ると、くすっと笑って首を横に振った。
「いいよ。面白かったから。それに……そうか、あのときカメラを持ってたの、君だったんだね」天井の照明を仰ぐようにしてぽつりとつぶやく。
「なるほど。だから観察眼もあるんだ。カメラマンさん」
微笑みを含んだ目が、あらためてぼくを射抜く。またもや頬が熱くなり、慌ててうつむいた。
「……いえ。そんな大層なもんじゃないです。ただ……なんとなくそう思うだけで」言葉が喉の奥で絡まって、やっとの思いで搾り出す。
小さく「ふーん」と相槌を打ち、口角を少しだけ上げた。その一瞬、ぞくりとするような嫌な予感が背筋を走る。
「……でも、分かるんでしょ? わたしの体のライン」
そう言って手のひらをお腹に添え、胸をほんの少し突き出す。挑発めいた仕草。さらにスツールをくるりと回すと、ふわっと黒髪が舞い上がりプリーツスカートに包まれた腰の曲線がいやでも視界に飛び込んでくる。
「っ……!」顔がさらに熱くなるのを感じて、思わず横を向いた。
「ほらほら、見ていいよ?」からかうように言いながら、彼女はすっと距離を詰めてきて、覗き込む。
その瞬間、肩にとぐろを巻いたアオダイショウと目が合った。冷たい黒い瞳と、唯の柔らかな香り。
髪が頬をかすめ、耳の下からすらりと伸びる首筋に――ひとつ、小さなほくろ。息が詰まる。
……その時。カラッ、と引き戸が開く乾いた音。
「つばさー。お待たせ……」
さなえの声が、空気を切るように響いた。そして視線が――その場でぴたりと固まった。
ぴたりと目を合わせたまま、時間が止まったように動けなくなる。さなえの視線は、戸惑いに揺れている。
その場の構図は、あまりにも出来過ぎていた。どう見ても唯先輩とぼくが今まさに唇を離したばかり――そう誤解させるには十分すぎる位置関係。
「……あー……ごめんね。……邪魔したみたい」
ふらりとした足取りで、さなえが数歩あとずさる。
「……ちょっ!」
思わず立ち上がろうとしたぼくの手首が、はしっと掴まれる。
えっ、と息を飲む間もなくその手はしっかりとぼくを拘束する。
さなえは引きつった顔で「じゃあ……ね」
そう言い残して、ゆらりと踵を返すと、そのまま廊下を駆けだしていった。
「……先輩、なんで……」
掴まれた手を振り解こうとしても、できない。彼女の手は細く華奢なのに、その瞳に見つめられると逃げることが出来ない。
そして、静かな声を落とす。
「……あの子にはあとでわたしから話すから。大丈夫よ」
その目には、思いつめた影と――どこか懇願するような切迫感が滲んでいた。
「……だからもう少し、話を聞いてもらえる?」
真剣な声音。その圧に押されるように、ぼくは観念してスツールに腰を戻す。
「はい……わかりました。……ぼくでよければ、聞かせてください」
視線を受け止めた彼女はわずかに目を細めて、ふっと息を吐く。
しばらくの沈黙が流れる。
「……やっぱり……似てるわ」
次の瞬間、ぼくの頬に先輩の手がそっと添えられる。柔らかくて、温かい。体温がじかに伝わってきて、胸の奥が不意に震える。
――似てるって? 誰に……?
内心の問いを見透かしたかのように、静かに口を開く。
「……翔。……わたしの弟」
慈しむように告げながら、ぼくの頭を撫でる。
「……雰囲気、その目……よく似ているの」
ゆっくりと、指先が髪をすくうたびに声も出せなくなる。
ただ、その手のひらのぬくもりに包まれて――息を殺して上履きのつま先を見ていた。
これは、ただ事ではない。それだけは、ぼくにもはっきりとわかった。
「……あの……。弟さんって……もしかして……」
恐る恐る口にすると、ふっと長い息を吐いた。視線を逸らし、膝の上に置いた両手をきつく握りながら、小さく俯く。
「……亡くなったわ。ここの中等部で」
その一言が落ちた瞬間、頭の中が真っ白になる。舌が上顎に張り付いたみたいに、口の中が乾いて、声が出ない。
「……去年の夏休み。ちょうど……1年前の昨日」
時間が止まったかのような静けさ。喉から、「どうして」という言葉が不意にこぼれ落ちる。
「サッカー部の練習中に熱中症で倒れたって。……事故、ってことになってるわ」
その言い方。ただの説明じゃない。奥に隠されたものをにおわせる響きに、胸の奥がざわりと震えた。
「……事故では……ないんですね?」
絞り出すように問う声が、やけに頼りなく響く。
小さく頷きながら「……いじめにあっていたのよ。翔は」
それを口にする声が、淡々としている分だけ重く響く。血の気が、すっと引いていくのが自分でもわかった。
「炎天下のグラウンドをひとりで走らされていたって。他の部員は全員、冷房の効いたジムでトレーニングしてたのに。……でも、吹奏楽部の子が見ていたのよ」
指が膝の上でかすかに震えている。
「……それも、もみ消されたけどね」
悲しみに沈んでいた表情が、みるみるうちに違う色へと変わっていく。静かに燃え上がる、青い炎ような感情へと。その変化を、ぼくはただ息を潜めて呆然と見つめるしかなかった。
「そんな……。そんなことって……」
思わず腰を浮かせていた。胸がせり上がるように呼吸が乱れ、喉の奥が乾いていく。
じっと見つめかえしてくる先輩。そして……小さく、静かに首を振った。
「……もちろん、わたしたちは学校に調査を求めたわ。……でも……」
そこから語られたのは、信じがたい事実だった。
――翔くんの葬儀が済んで、数日後のこと。当時の校長と、中等部のサッカー部顧問が家にやって来たという。
母親は、玄関先で二人を拒んだ。「帰ってください」と何度も言った。だが、彼らは「せめて線香だけでも上げさせてください」と下げた頭をあげず、数十分、動かなかったという。
仕方なく家の中に通した。彼女と母は見せられてしまう。
風呂敷の中から――不自然に厚みのある、白い封筒が取り出されるのを。
「ご霊前」と書かれたその封筒。
母が震える声で「なんですか。……それは」と問いかける。
その声を制するように、校長が深く頭を下げた。
「……このことは……どうか、内密に……」
……口止め料……か。
唯先輩は、ぎゅっと目をつむる。
「もちろん、叩き返したわ。……母は怒鳴りつけて追い返した。……でも……」
そのあとの学校の対応は、冷酷だった。
翔の『事故』について調査の要求は無視。“まだ状況が確認できない”と繰り返し、何週間も放置。記録の隠蔽、目撃者証言の曖昧化、顧問の体調不良による聞き取りの延期。時間だけが過ぎていった。
「……そして、いつの間にか……校長は交代してた。オマケみたいにサッカー部顧問も、辞めたって聞いたわ。……それで、終わり」
沈黙が流れる。
膝の上で握った拳がぷるぷると震えているのを止めることが出来ない。
……だから。唯先輩は――昨日……。
「そう。……昨日の試合」
ゆっくりと顔をあげる。その瞳は、静かに凪いでいた。
「……無様に負けたのは――わたしが、そうさせたから」
耳の奥が、キイ……と鳴った。
「……昨日は、翔の墓参りに行って……そのあと、学校に行ったのよ。……翔の命日。どんな無様な試合をするか、見届けるために」
……何を……言ってるんだろう。ぼくは思わず、ぽかんとその顔を見上げていた。
……負けさせた? まさか、あの試合……唯先輩が……?
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
ただ……静かな呼吸で、ぼくを見つめ返していた。
「……そう……だったんですか」
やっと絞り出されたのは、そのひとことだけだった。これ以上、なにを言えばいい?真実を知ったところで、自分にはなにもできやしない。
胸の奥に重くのしかかってくるのは、圧倒的な無力感。そして、この学園そのものに対する強い嫌悪。拳を握る力も失われ、ただうなだれるしかなかった。
そのとき――気づけば、彼女がすぐ耳もとに顔を寄せていた。
「……わたしの見込みでは、あのあと乱闘になるはずだったの」
吐息がかすかにかかる。
「翔をいじめていた連中。だけど彼らだけじゃない。見て見ぬふりをした……そして隠蔽をした全員、同罪」
声の調子は不思議なほど甘く、それでいて、背筋に冷たいものを走らせる響きを持っていた。
「……でもね。あのとき、君の機転のせいで……わたしの計画が狂っちゃったのよ?」
「え……」頭が真っ白になる。
小競り合いが始まったあのとき、ぼくは咄嗟にカメラを天井に向けて、シャッター音とストロボを連射した。その効果があって、殴り合おうとしていた部員たちの動きが止まった。顧問が飛び込んできて、乱闘は未然に防がれ、軽いけが人だけで済んだ。
もしあれがなければ――もっと大事になっていたかもしれない。いや……でも。もしかしたら、それが彼女の狙いだった?
「裏切り者が出るって噂を流したの。翔のことを匂わせてね……」
――それってもしかして、さなえがさっき言っていたサッカー部に流れている不気味な噂。そのことなのだろうか。
「誰かが真実を告白するかもしれない。互いに疑心暗鬼に陥れた。……そうしたら、後ろ暗いやつらは可哀想なくらいに動揺してたわね」
……まだ1年しか経っていない。中等部でのこととはいえ、事件を知らないサッカー部員は居ないだろう。彼らの精神状態をかく乱し、試合で無様に負けさせる。さらに、内部で仲間割れを引き起こす。すべては唯先輩の計画のうち。
けれど、その決定的な場面で――自分が、邪魔をしてしまった。
「……責任。取ってくれるわよね? ……つばさ」
吐息まじりの声が、首筋をかすめる。背筋がびくりと跳ね、握った拳にまた震えが走った。
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