熱狂の特異点

森崇寿乃

虚構からの訪問者

  【1】

 東京湾岸、埋立地の巨大展示場。そこは今、質量を持った熱の塊と化していた。

 空調設備がどれほど唸りを上げようとも、数万人の肉体が発する熱量と、さらにそれを凌駕する「欲望」の熱気には勝てない。天井付近には、汗と呼吸が凝縮された伝説の雲――通称「コミケ雲」がうっすらと発生しているようにさえ見えた。

 俺、相田あいだは、パイプ椅子の硬さに尻の痛みを覚えながら、目の前の机に突っ伏していた。

 サークル名『深夜のタイプライター』。

 頒布物は、A5サイズ、二段組、八十ページのコピー本。タイトルは『硝煙とネコミミ』。

 ハードボイルドな探偵が、電脳空間でネコミミ少女のアバターを被って事件を解決するという、俺の性癖と迷走を煮詰めたような小説だ。

 時刻は正午を回った。

 売上、三冊。

 うち一冊は、隣のサークルの人が「お釣りが無いので崩すために」買ってくれた義理買いだ。

「……撤収するか」

 俺は誰に言うでもなく呟いた。

 壁際に配置された「壁サークル」には長蛇の列ができている。最後尾の札が遥か彼方に見える。一方、俺のような弱小サークルが並ぶ「島」の通路は、獲物を探す狩人(参加者)たちが猛スピードで回遊していた。だが、誰も俺のスペースには目もくれない。

 彼らの視線は、もっと分かりやすいエロスか、あるいは著名な作家のネームバリューに吸い寄せられている。

  【2】

 気分転換が必要だった。

 俺は店番を友人のケンに頼み、トイレに行くふりをしてホールを出た。向かった先は、屋外のコスプレエリアだ。

 そこは、屋内とは質の違う狂気に満ちていた。

 真夏の直射日光がアスファルトを焼き、その上で重装備の鎧や、布面積の極端に少ない衣装を纏ったレイヤーたちがポーズを決めている。

 カメコたちのシャッター音が、まるで戦場の銃撃戦のように絶え間なく響く。

「目線くださーい!」

「次、囲み撮影になりまーす!」

 承認欲求と、それを記録したいという収集癖のぶつかり合い。

 俺は少し離れた場所から、巨大な剣を持った勇者のコスプレをしている男を見ていた。発泡スチロールとサンペルカで作られたその剣は、近くで見れば塗装の粗さが目立つかもしれない。だが、この炎天下で汗だくになりながら剣を掲げるその表情は、本物の勇者以上に「物語」を背負っていた。

 ふと、妙な違和感を覚えた。

 エリアの隅、人だかりができている中心に、その「キャラクター」はいた。

 銀髪のロングヘア、漆黒のボンデージスーツ、背中には機械仕掛けの翼。

 俺が書いた小説『硝煙とネコミミ』に出てくる敵役のサイボーグ、「銀翼の魔女」にそっくりだったのだ。

 もちろん、俺の小説はオリジナルだ。アニメ化もしていない。偶然の一致だろう。

 だが、そのクオリティは異常だった。翼の金属的な質感、衣装の縫製、そして何より、レイヤー自身の冷徹な眼差し。まるで二次元からそのまま解像度を上げて現実に引きずり出したかのような存在感。

 俺は吸い寄せられるように近づいていた。

  【3】

 カメコたちの壁を縫って最前列に出ると、彼女と目が合った。

 氷のような青いカラコン。

 彼女はカメラに向けられていた視線を外し、俺を凝視した。そして、無表情のまま、手招きをした。

 周囲のカメラマンたちが「え、何?」「知り合い?」とざわめく。

 俺がおずおずと近づくと、彼女は機械的な動作で、腰に下げていたポーチからスマホを取り出した。画面には、俺のサークル『深夜のタイプライター』のX(旧Twitter)のアカウントが表示されていた。

「……作者か?」

 声は小さかったが、よく通った。

 俺は呆気にとられながら頷く。

「え、あ、はい。相田ですけど」

「探していた」

 彼女は短く言うと、撮影待ちの列に向かって「休憩に入る」とだけ告げ、驚く俺の腕を掴んで人混みをかき分けた。力強かった。ボンデージの手袋越しに伝わる熱は、人間離れして熱い。

 建物の影に入ると、彼女は少しだけ肩の力を抜いたようだった。

「あなたの小説を読んだ。ネットに上げていたサンプルを」

「え? あんなマイナーな……」

「AIには書けない」

 唐突な言葉だった。

「文法は破綻している。構成も歪だ。誤字もある。だが、あの『ネコミミを被ったままシリアスな独白をする』という狂気じみた描写は、計算されたアルゴリズムからは生まれないノイズだ。そこが気に入った」

 褒められているのか貶されているのか分からなかったが、心臓が跳ねた。

 彼女は背中の翼(おそらく数キロはある)をガチャリと鳴らし、俺に向き直った。

「この衣装は、あなたの小説の描写から逆算して作った。間に合ってよかった」

「俺の小説の……? たった数行の描写から?」

「行間を補完するのが、読者の、そしてコスプレイヤーの仕事だ」

 彼女は汗一つかいていなかったが、その瞳の奥には、あの炎天下の勇者と同じ、いやそれ以上のドロドロとした情熱の炎が見えた。

「本はまだあるか?」

「あ、ああ。売るほどある。文字通りな」

  【4】

 スペースに戻ると、奇妙なことが起きていた。

 彼女――「銀翼の魔女」のコスプレイヤーが俺の隣に立った瞬間、閑古鳥が鳴いていた通路に人が詰まったのだ。

 最初は彼女を撮影しようとする人間が集まり、次いで彼女が手に取った見本誌に注目が集まる。

「この本、このキャラの原作設定本らしいぞ」

「マジ? オリジナル?」

「あのレイヤーが推してるなら間違いないだろ」

 集団心理とは恐ろしいものだ。

 中身も確認せず、「何かすごいものがあるらしい」という空気だけで、千円札が次々と俺の前に積み上げられていく。

 ケンが悲鳴を上げながら頒布対応に追われている。

 俺はその横で、呆然と光景を眺めていた。

 隣に立つ彼女が、ボソリと言った。

「完売したら、続きを書いてくれるか」

「……ああ、書くよ。ネタはいくらでもある」

「楽しみにしている。だが、次はもう少し通気性のいい素材にしてくれ。このラバー・スーツ、中はちょっとしたサウナなんだ」

 初めて、彼女が人間くさく笑った気がした。

 会場の熱気は依然として不快指数の限界を超えている。汗臭く、騒々しく、カオスだ。

 だが、悪くない。

 俺は原稿用紙のマス目を埋めるだけの作業に戻る決意を固めながら、積み上がった千円札の山を崩さないように、慎重に釣り銭を取り出した。

(了)

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