第2話
獣の寝ぐらを思わせる、甘く、酸っぱく、そして肺を灼くような熱気。
それだけではない。
耳を澄ますと、音が聞こえた。
粘着質な水音。シーツが擦れる音。そして……声。
愛を囁き合う恋人たちの甘い声ではなかった。映画で聞くような、演技じみた嬌声でもない。
それは、喘ぎとも苦悶ともつかない、喉の奥から絞り出すような、湿った呻き声だった。
痛みと快楽の境界線で、理性の箍が外れた生き物が発する、本能の音。
克樹の足が床に縫い付けられたように動かなくなった。
心臓を直接、氷水に浸されたような冷たい衝撃が全身を駆け巡る。頭の中ではけたたましく警報が鳴り響いている。見ろ、と扇動する声と、逃げろ、と絶叫する声がぶつかり合い、思考がショートする。
なぜ、朱里の香水の匂いがする?
なぜ、鍵が開いていた?
なぜ、親友の部屋の寝室から、こんな音が聞こえてくる?
問いは浮かぶのに答えを導き出すことを脳が拒絶していた。
認めてしまえば、何かが終わる。自分が丹精込めて築き上げてきた、完璧なはずの世界が砂の城のように崩れ落ちてしまう。
だが足は勝手に動いた。
一歩、また一歩と、音のする方へ引き寄せられていく。
まるで、己の死刑執行を見届ける罪人のように克樹は抗う術を持たなかった。
寝室のドアノブは、汗ばんだ手の中でぬるりと冷たかった。
ギィ、と蝶番がかすかに軋む音を立て、視界が開ける。
時間が引き伸ばされたゴムのようにゆっくりと、ゆっくりと流れていく。
部屋の隅に置かれたスタンドライトがベッドの上で絡み合う二つの裸体を、舞台の役者のように照らし出していた。
汗で濡れ、光を鈍く反射する男の広い背中。鍛え上げられた筋肉が律動的な動きに合わせて収縮を繰り返している。営業職で付き合いも多く、たるみ始めた自分の腹とは違う、雄としての根源的な格の違いを、克樹は見せつけられていた。
その背中には白い女の腕がまるで溺れる者が掴む流木のように必死に絡みついていた。爪が立てられ、赤い線が幾筋も走っている。
ふと、克樹の視線がベッドサイドのテーブルに吸い寄せられた。
そこに無造作に放り出された銀色のチェーンが見えた。俺が彼女の誕生日に贈った、ティファニーのネックレス。
その隣には昨日「すごく似合うよ」と褒めたばかりの、レースの黒い下着がくしゃくしゃになって落ちている。
女の顔は見えない。艶のある黒髪が汗で首筋に張り付き、枕に顔を埋めるようにして、くぐもった声を漏らしていた。
克樹は、それをただ見ていた。
それは、西崎だった。
それは、朱里だった。
脳が理解した瞬間、世界から音が消えた。自分の呼吸の音も、心臓の鼓動も聞こえない。ただ、目の前の光景だけが網膜に焼き付いて離れなかった。
計画的な略奪劇でも、許されない恋に身を焦がす悲劇でもない。
そこに在ったのは言葉を交わすこともなく、ただ互いの肉体を貪り合う、二匹の獣だった。
西崎が朱里の髪を鷲掴みにし、獣のように首筋に噛みつく。朱里は苦悶の声を漏らしながらも、さらに強く彼の背中に爪を立てる。
その声。くぐもっているが紛れもなく朱里の声だ。
脳裏にかつての記憶がフラッシュバックする。俺の腕の中で、恥ずかしそうに、しかし愛らしく囁くように喘いでいた彼女の声が。
目の前の、獣じみた呻き声に上書きされ、汚されていく。
痛みを与えることと、与えられることに純粋な喜びを見出しているかのようだった。
理性などどこにも存在しなかった。
社会性も、道徳も、克樹との婚約という「約束」も、すべてが溶解し、ただ原始的な衝動だけがその空間を支配していた。
――ああ、そうか。
カフェで見た、あの視線の意味は、これだったのか。
克樹の胸を刺した棘の正体は、これだったのか。
納得、というにはあまりにグロテスクな答えが克樹の思考を麻痺させていく。
その時だった。
克樹の存在にまず西崎が気づいた。
上下する背中の動きがほんのわずかに鈍くなった。そしてゆっくりと、首だけをこちらへ向ける。
汗で濡れた前髪の間から覗く目は、驚きも、焦りも、罪悪感も映してはいなかった。
それどころか、奴の口の片端がほんのわずかに吊り上がったのを、克樹は見逃さなかった。
ニヤリと、嘲るような笑み。
お前が大事にしていたものはいま俺がこうして壊しているぞ、と。言葉よりも雄弁にその表情が語っていた。
西崎の唇が動いた。
「おい、朱里」
汗で濡れた彼女の耳元で、しかし克樹の耳にはっきりと届く声量で、西崎は囁いた。
「お前の男……克樹が見てるぜ」
その言葉に朱里の体がびくりと硬直する。
西崎は克樹を見せつけるようにさらに深く、朱里の体を貫いた。
「ん……ッ!」
朱里がこれまでとは質の違う、甲高い声を上げる。
その声に促されるように彼女もまた、ゆっくりと克樹の方を振り向いた。
焦点の合わない、潤んだ瞳。快楽に歪み、紅潮した頬。半開きの唇からは、唾液の糸が引いている。
克樹の婚約者、姫野朱里の顔だった。
明日、自分がその両親に「娘さんをください」と頭を下げるはずの
彼女の目が克樹の姿を捉えた瞬間。
その瞳を、いくつもの感情が嵐のように駆け巡った。恐怖。驚愕。そして拭いようのない罪悪感と羞恥。唇がかすかに「ごめ……」と動いたように見えた。
だが次の瞬間。
西崎の律動がさらに激しさを増す。朱里の体が大きく弓なりになり、その瞳から理性の光が消え失せた。
恐怖も罪悪感も、すべてが脳から追い出され、より強烈な快楽の濁流に飲み込まれていく。彼女の思考が目の前で塗り潰されていくのがわかった。
いや、違う。
彼女は、克樹から目を逸らさなかった。
罪悪感に染まっていたはずの表情は、いつしか蕩けるような恍惚へと変わり、むしろ見せつけるかのように自ら腰をくねらせ始めた。
見られている。
婚約者に親友との交尾を、見られている。
その事実が羞恥ではなく、新たな刺激として彼女の肉体を駆け巡っているのが克樹にはわかってしまった。彼女の肌が粟立ち、指先が微かに痙攣する。
それは、背徳という名の媚薬だった。
克樹の中で、何かが音を立てて砕け散った。
積み上げてきた信頼。
共に描いた未来。
愛という、人間だけが持つと信じていた高尚な感情。
それら全てが目の前の動物的な交わりの前では、何の価値も持たない紙切れ同然だった。
やがて、獣たちの饗宴は終わりを告げた。
西崎が深く息を吐きながら朱里の上に崩れ落ちる。部屋には荒い呼吸音と、粘着質な体液の匂いだけが満ちていた。
永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた沈黙。
西崎が億劫そうに体を起こす。汗で張り付いた髪を無造作にかき上げ、ベッドの脇に腰掛けた。その裸体には朱里がつけた無数の赤い引っ掻き傷が生々しく刻まれている。
彼は、克樹を一瞥した。
悪びれるでもなく、言い訳をするでもなく、ただ、そこにいるのが当たり前であるかのように。
そしてベッドサイドテーブルに放り出されていたティファニーのネックレスを、無造作に指でつまみ上げた。
銀色のチェーンを光にかざし、克樹に見せつけるように弄びながらふう、と深く息を整えている。
怒りよりも、悲しみよりも先に克樹を襲ったのは「理解不能」という巨大な虚無だった。
なぜ? どうして?
そんな陳腐な疑問さえ、浮かんでこない。
目の前にいるのは自分が知っている親友でも、愛した婚約者でもなかった。
それは、人間の形をした、何か別の生き物だった。自分とは全く違う論理と本能で動く、未知の生物。その生態を、ただ観察しているような、奇妙に冷静な自分がいた。
頭の中で、一枚の設計図が燃えていくのが見えた。
ヒメノフーズの社長令嬢と結婚し、いずれは役員になるというキャリアプラン。
天神のタワーマンションの最上階で、福岡の夜景を見下ろしながら送る、完璧な夫婦生活。
子供が生まれ、親友の西崎に「おじさん」と呼ばせて、家族ぐるみの付き合いをするという、幸福な未来像。
それら全てが音もなく、静かに燃え上がり、灰になっていく。
克樹は、何も言わなかった。
いや、何も言うことができなかった。
ただ静かに一歩、後ろへ下がる。
踵を返し、ドアを閉めようとした、その瞬間だった。
最後に目にしたのは満足げに朱里の汗ばんだ髪を優しく撫でる、西崎の手つき。
そして朱里がまるで飼い慣らされた猫のようにその逞しい胸に頬をすり寄せる姿だった。
完全に終わったのだ。
カチャリ。
軽い金属音が自分の世界と、獣たちの世界を隔てる断頭台の刃が落ちる音のように冷たく響き渡った。
振り返ることなく、リビングを横切り、玄関のドアを開ける。
自分の靴を履き、外に出た。
マンションの廊下の、蛍光灯の白い光がやけに目に染みる。
エレベーターを待ち、乗り込み、一階へ。
外の空気は、ひどく冷たかった。
見上げた福岡の夜空には星ひとつ見えない。ただ、街の光が反射して、鈍く光る雲が広がっているだけだ。
つい数時間前まで、あの光の一つ一つが自分の輝かしい未来を祝福してくれているように見えた。
だが今は違う。
あの光は、ただの虚構だ。表層を飾り立てるだけの、中身のない光の集合体。
その下で、人間は獣のように交わり、本能のままに生きている。
克樹が信じていた「人間」がいま目の前で崩壊していった。いや、あるいは、最初からそんなものは存在しなかったのかもしれない。
ただ、自分だけがその滑稽な幻想を信じ込んでいただけだったのだ。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
取り出して画面を見ると、ディスプレイには『朱里』の二文字が光っている。
克樹は無表情にそれを見つめると、通話ボタンではなく、電源ボタンを長押しした。
やがて画面は暗転し、ただの黒い板と化した。
克樹はそれを、まるで汚物でも見るかのような目で見下ろし、躊躇なく道端の側溝の鉄格子へ、叩きつけるように投げ捨てた。
ガシャン、と虚しい音が響く。
もう何もいらない。
あてもなく、潮の香りがする方へ。
博多埠頭へと続く夜道を、亡霊のように歩き出した。
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