【ざまぁ】婚約者と親友に裏切られ五島列島へ逃げた俺。すべてを失い追ってきた元カノが見たのは、過去とは決別して新しい人生を生きる、彼女の知らない男だった……。

ネムノキ

第1話

 磨き上げられたガラス窓の向こう、福岡・天神の夜景は幾億もの光の粒子を撒き散らしていた。


 地上20階のフレンチレストラン。その窓に映る自分たちの姿を、大久保克樹は満足げに見つめていた。


 隣には婚約者である姫野朱里。


 彼女が楽しそうに笑うたび、シャンデリアの光を受けて、その耳元のピアスがきらりと揺れる。計算され尽くした光の反射は、まるで彼女の幸福そのものを証明しているかのようだった。


「ねえ、克樹。このソース、隠し味にシェリービネガーだけじゃなくて、少しだけ醤油麹を使ってないかな? すごく味がまろやか」


 朱里が首をこてんと傾げる。


「ああ、たぶんね。最近のトレンドだよ。フレンチやイタリアンに日本の伝統的な発酵調味料を合わせるのが流行ってる。特に福岡は醤油の産地も近いし、料理人の意識も高いから」


 克樹は、ワイングラスを軽く回しながら得意げに蘊蓄を傾けた。


 食品卸「ヒメノフーズ」のエース営業マン。それが彼の現在の肩書だ。食のトレンド、原材料の産地、製造工程から市場のデータまで、彼の頭には膨大な「知識」が詰まっている。それが彼の武器であり、プライドだった。


 朱里は、こくりと頷いて、子猫のようにソースを舐める。


「さすが克樹。物知りなんだから」


 その無邪気な賞賛が克樹の自尊心を心地よく満たしていく。


 だがその完璧な笑顔の裏で、彼女の瞳が一瞬だけ、ほんのわずかに退屈の色を滲ませたことに克樹は気づかなかった。


「そうだ、朱里」


 克樹は窓の外、きらめく街の灯りを指さした。


「あのクレーンが見えるだろ? あそこに新しいタワーマンションが建つんだ。最上階の角部屋、もう仮押さえしてある。新婚生活にぴったりだろ?」


 彼が信じる「完璧な設計図」の一片。その言葉に朱里は今度こそ心からの笑顔を見せたように思えた。


「ほんと? 嬉しい!」


 仕事も、恋人も、未来も、すべてが完璧な設計図通りに進んでいる。


 窓の外で明滅する無数のネオンサインがまるで自分たちの未来を祝福しているかのように克樹の目には映っていた。


 *


 平日の克樹は、週末の甘い顔を脱ぎ捨て、冷徹なビジネスマンの仮面を被る。


 この日、彼が対峙していたのは県内大手のスーパーマーケットで青果部門を統括する、狸のように目の細いベテランバイヤーだった。


「大久保さん、また難しい話を持ってきたねえ。この『博多千両なす』、確かに味はいい。皮が薄くて瑞々しい。けど、値段がね……。普通のナスの倍じゃ、お客さんは手を伸ばさんよ」


 商談室の長机を挟んで、バイヤーは腕を組む。値引き交渉に持ち込むための、いつもの揺さぶりだ。


 だが克樹は動じない。手元のタブレットを滑らせ、グラフを表示させる。


「部長、こちらのデータをご覧ください。これは、昨今の健康志向の高まりと、可処分所得における食費の割合を示したものです。特にコロナ禍以降、消費者は多少高くても『家で美味しいものを食べたい』というニーズが顕著になっています」


「理屈は分かるけどねえ」


「それだけではありません。この『博多千両なす』の生産者は、土壌改良に一般的な鶏糞ではなく、魚のアラを発酵させた有機肥料を使っています。これにより、アミノ酸含有量が通常のナスに比べて約1.5倍。この『旨味』は、科学的なエビデンスに裏打ちされた付加価値です」


 克樹の口からは、よどみなく言葉が紡がれる。


「さらに御社の客層データと照らし合わせると、このエリアの40代から50代の女性顧客は、健康情報や食の安全性に非常に敏感です。そこで、我々が用意したのがこのPOPです」


 彼はもう一枚の資料を提示する。「アミノ酸1.5倍!」「土が違う、旨味が違う。」といったキャッチーな文句が踊っていた。


「単に『高級なナス』として売るのではなく、『健康と美味しさへの投資』として提案するんです。生産者の顔写真とストーリーを添えたリーフレットもご用意します。SNSでの発信も弊社でバックアップしますので……」


 一時間後、克樹はバイヤーからの満額での発注書を手に商談室を後にした。


 彼にとって、食とは「情報」だった。物語を付与し、データを駆使して価値を最大化させるゲーム。そのナスがどんな太陽の下で、どんな人間の手によって育てられたのか。


 その生産現場に宿る汗や土の匂い、あるいは自然の厳しさといった「本質」には彼は驚くほど無関心だった。


 彼が扱うのはあくまで「商品」それ以上でも、それ以下でもなかった。


 会社のロビーに戻ると、自販機でコーヒーを買っている同期の男がいた。


「お、克樹。お疲れ。顔見りゃ分かる。また一本、デカいの獲ってきたんだろ」


 人懐こい笑顔で話しかけてきたのは西崎宗叡だった。


 *


 週末の午後。大名にあるお洒落なカフェのテラス席で、三人はテーブルを囲んでいた。


 克樹と朱里、そして西崎。


「それで、引き出物の話なんだけどさ」


 克樹が切り出すと、西崎は待ってましたとばかりに身を乗り出した。


「おう! 任せとけって。最高のリストアップしてやったから」


 西崎宗叡。克樹の同期入社であり、唯一無二の親友。


 大学時代、俺がプロジェクトで追い詰められていた時、徹夜で資料作りを手伝ってくれたのは西崎だけだった。こいつのためなら何でもできる。克樹は心からそう思っていた。


 誰とでもすぐに打ち解ける明るさと、それでいてどこか掴みどころのない飄々とした雰囲気を併せ持つ男。克樹は、自分の持たないその天性のコミュニケーション能力に密かな憧れさえ抱いていた。


「こういうセンスは西崎に任せるのが一番だ。いつも助かるよ」


 克樹が素直に礼を言うと、西崎は克樹をからかうように笑った。


「だろ? 仕事一筋のお前にはこういう女心をくすぐるチョイスは難しいと思ってな」


 西崎はそう言うと、ごく自然な仕草で朱里の肩に手を回した。


「そこでだ。これ。糸島の有名なハム工房の詰め合わせ。それから、こっちは八女の高級玉露と和菓子のセット。あと、明太子専門店の最高級ラインのやつ」


 西崎がタブレットに表示する商品を、朱里が楽しそうに覗き込む。


「わあ、どれも素敵! このハム、美味しいよね。でも、明太子も福岡らしくていいなあ」


「だろ? 朱里ちゃんの友達向けには見た目も可愛いこっちのスイーツ系もいいかもな」


 西崎は、克樹の前では決して見せない、ねっとりと甘い視線を朱里に送る。朱里もまた、それを真正面から受け止め、挑発するように唇の端を吊り上げた。


「そういえば朱里ちゃん、この前の海で日焼けした肩、もう大丈夫?」


「え? 海に行ったのか?」


 克樹の問いに二人は一瞬だけ視線を交わす。


「ああ、うん。友達とね」


 朱里は悪びれもせずに答えた。西崎が満足げに口の端を歪める。


「まあ、克樹は仕事人間だからな。朱里ちゃんが寂しい時は、この親友である俺がいつでも相談に乗るからさ」


 そう言って、西崎は克樹の肩をバンと叩く。冗談めかした口調だがその目は『お前ではこの女を満たせない』とでも言いたげな、獰猛な光を宿していた。


 その時だった。


 克樹がテーブルに置いたスマホの着信に気づき、「ごめん、会社からだ」と断って席を立った。


 ほんの数十秒、テラスの端に移動して、部下からの簡単な報告を受ける。


 そして何気なく振り返った瞬間、彼は見てしまった。


 テーブルに残された朱里と西崎。


 西崎がテーブルの下で、朱里のむき出しのサンダルから伸びる脚に自分の靴先をそっとこすりつけていた。


 朱里は、それを拒むどころか、快感に耐えるように小さく息を呑む。そして克樹の目を盗んで、西崎にだけ見えるように恍惚とした笑みを微かに浮かべた。


 克樹が席に戻ると、二人は何事もなかったかのように披露宴で流すBGMの話を始めていた。


「……どうかした、克樹?」


 朱里が怪訝そうに彼の顔を覗き込む。


「いや、なんでもない」


 克樹は、胸に突き刺さった鋭い棘の痛みを、無理やり笑顔で押し殺した。


 考えすぎだ。親友と婚約者だ。仲が良いだけだ。そう自分に言い聞かせなければ、立っていることさえ困難だった。


 *


 その夜、克樹は朱里を彼女が一人で暮らすセキュリティのしっかりしたマンションまで送っていった。


 エントランスの自動ドアの前で、朱里が振り返る。


「送ってくれてありがとう」


「じゃあ、また明日」


「うん。明日、うちの両親に挨拶、よろしくね。お父さん、克樹のことすごく気に入ってるから、大丈夫だと思うけど」


 朱里は、完璧な笑顔を浮かべている。今日、カフェで見たあの表情がすべて克樹の勘違いだったのだと思わせる、一点の曇りもない笑顔だ。


「ああ。おやすみ」


「おやすみなさい」


 ガラスのドアが閉まり、彼女の姿が見えなくなるまで見送ってから、克樹は踵を返した。


 自分のマンションへ戻り、シャワーを浴びる。だがカフェでの光景が脳裏に焼き付いて離れない。何かを確かめなければならない。そんな焦燥感にも似た衝動に駆られていた。


 その時、デスクの上に置きっぱなしになっていたファイルが目に入った。二次会の招待者リストの最新版だ。


「……そうだ、これを届けないと」


 口実ができたことに克樹は安堵している自分に気づいて愕然とした。


 電話をかけてみるが西崎は出ない。


 《あいつのマンション、ここから歩いて十分とかからない距離だしな》


 時刻は午後11時過ぎ。克樹は、ファイルを掴むと、部屋を飛び出した。


 西崎の住むマンションのエントランスはオートロックだが克樹は以前に教えてもらった暗証番号を知っている。


 目的の階でエレベーターを降り、彼の部屋のドアの前へ。インターホンを鳴らす。


 ……応答がない。


 やはり寝ているのか。だが胸のざわめきは一向に収まらなかった。ドアノブにファイルを挟んで帰ろう。そう思いながら何気なくドアノブに手を触れた。


 カチャリ、と軽い金属音がして、ドアがわずかに開いた。


 鍵がかかっていない。


 不用心なやつだ、という呆れよりも先に「まさか……」という最悪の予感が背筋を駆け上がった。


 リビングの明かりは消えている。静かだ。


「西崎? いるのか? 入るぞ」


 声をかけながら親友の部屋に震える足で踏み入れた。


 その瞬間、鼻腔を突き刺したのは男の一人暮らしの無機質な匂いではなかった。


 朱里がいつもつけている、甘ったるいガーデニアの香水の匂い。


 汗の酸っぱい匂い。


 そして……覚えのある西崎のコロンの匂い。


 三つの匂いがどろりと一つに溶け合って、獣の寝ぐらのような熱気となり、克樹の思考を殴りつけた。

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