災厄カウントダウン
そのAaron
第一章 悪意降臨
1-1
「行ってくる。」
「まあ、珍しいじゃない。休日は一日中部屋にこもってるのに、今日はどういう風の吹き回し?」
「じゃ、行ってきます。」
母の問いかけに対し、少年はちらりと振り返っただけで、理由を説明する気もないまま視線を泳がせ、ドアノブに手を掛けた。
「ふぅん……当ててみようか。他の誰かと約束してるんでしょ?」
「……まあね。」
「エスタちゃん?」
その名前を耳にした瞬間、少年はまるで石にでもなったかのように、その場で固まった。
ほどなくして、階段の方から足音が響く。黒い長髪をポニーテールに結った少女が、リビングに姿を現した。
「アスカロン、出かけるの?」
「そうよ。しかもエスタちゃんからのお誘いなんだって。」
「え? エスタちゃん?」
少年――アスカロンより五つ年上の姉は、弟の服装をじっと観察し、やがて眉をひそめた。
「……あんた、その格好で行くつもり?」
アスカロンは自分の服装を見下ろす。無地の半袖シャツにジャージという、いかにも気楽でラフな組み合わせだ。
「ダメ?」
「ちょっと来なさい。」
「でも時間が――」
「待ち合わせは何時? どこ?」
「八時半に、商店街の端の喫茶店。」
「今七時半じゃない! 歩いても十分でしょ!」
姉は弟の腕を掴み、そのまま彼の部屋へと引きずり込むと、クローゼットを開けて外出に使えそうな服を物色し始めた。
「……どうして黒系ばっかりなのよ。」
「考えなくていいから楽なんだよ。」
「……はぁ、もう。」
姉は何着か服を取り出しては、アスカロンの胸元に当て、全体のバランスを確認していく。そうして、どうにか人前に出せる程度のコーディネートを完成させた。
「ここまでしなくてもよくない? 彼女とは昔からの付き合いだし。」
「ただの散歩なら元の格好でも放っておくわよ。でもね! 今回はエスタちゃんと一緒なの。幼なじみだろうがなんだろうが、綺麗な花の隣に枯れ葉は置けないでしょ!」
「……それ、僕のことディスってる?」
「そうよ。ほら、行っていいわ。エスタちゃん、大事にしなさいよ。」
「なんで?」
「だって将来、私たちの家族になるかもしれないんだもの。」
「養子にでもするの?」
姉はしゃがみ込み、アスカロンの鼻先を軽くつまんだ。
「父さんも母さんも、そして聡明で美しいお姉ちゃんも、みんな分かってるの。あんただけが自覚してないのよ。まだ十二歳なんだから、焦らなくていい。今はこの甘酸っぱい気持ちを楽しみなさい。でも――出かける前に一つだけ。」
「『災厄カウントダウン』が発生したら、すぐ避難エリアへ行け、家には戻るな……でしょ? 何回聞いたと思ってるんだよ。」
「何度も聞いてるからこそ、軽く考えちゃうの。ほら、急いでるんでしょ? 大丈夫、今日の礼拝はあんたの分も私が済ませておいたから。主のご加護があって、『災厄』から遠ざかりますように。」
「……あ、うん。」
ここは連合防衛戦線の境界に位置する、小さな街――レゴレイル-003。
今日も太陽は高く昇り、眩しい光と穏やかな熱で世界を包み込んでいる。通りには人々の往来があり、商店もいつも通りに営業していた。街の中心には、レゴレイルを象徴する白亜の大聖堂がそびえ立ち、陽光を反射しながら、祝福を求めて中へと入っていく住民の姿も見える。
要するに、何一つ変わらない日常だ。
だが、この街の人々にとって、その「変わらなさ」は決して悪いものではない。むしろ、このまま続いてほしいと願う、かけがえのない日常だった。
周囲の景色を眺めながら、両親と同じ黒髪を持つアスカロンは、近くの飲料店の軒下で日差しを避けていた。
「主よ……まさか休日にアスカロン君を見かけるなんて。」
「なんでみんな同じこと言うんだよ。僕が外に出るの、そんなに珍しい?」
店主兼店員の女性はそう声をかけながら、彼の前に飲み物を差し出した。
「ん?」
「せっかくのお出かけ記念。今日は奢りよ。」
アスカロンはしばらくカウンターの上の飲み物を見つめたあと、ポケットから財布を取り出した。
「いくら?」
「奢りだって言ったでしょ。」
「それで儲かるの?」
その一言に、店主は額を押さえて大きくため息をついた。アスカロンは、その反応が理解できず、眉をひそめる。
「はぁ……一杯分で破産するほど、うちは貧乏じゃないわよ。」
「そこまで言うなら、ありがたくもらうけど。」
「ちょっと、からかってる? ほんと可愛げないわね。そんな調子じゃ、将来お嫁さん見つからないわよ。」
「でも店長さんは――」
「黙れ。それ以上は言うな。」
行き交う人々を眺めながら、飲み物のカップを握る両手に、ひんやりとした感触が伝わってくる。
よく考えてみれば、この当たり前の日常を壊すきっかけを作ったのは、他でもない自分なのかもしれない。
一口すすり、ミルクと砂糖、そして茶の風味が溶け合う味を確かめる。冷たさは食道を伝って胃へ落ち、やがて全身へとゆっくり広がり、真夏の暑さを和らげていった。
飲料店の軒下でさらに数分立っているうちに、アスカロンはカップを軽く揺らし、飲み物がすでに半分ほど減っていることに気づく。
冷たさが残っているうちに一気に飲み干すべきか、それともこの涼を少しでも長く楽しむべきか――そう迷っていたところ、少し離れた場所から自分の名を呼ぶ声がした。
声のする方へ目を向けると、向かいの歩道から一人の少女が横断歩道を渡り、アスカロンの前へやって来る。
「まあ、そういえば。もう奥さん候補がいるんだったわね。いつになったら聖堂で、二人の結婚を見届けられるのかしら?」
「そんな関係じゃない。」
「ふぅん~、そうなの……?」
白いトップスに深い青のロングスカートを身にまとった少女は、茶色の長い髪を揺らしながら近づき、群青色の瞳でアスカロンの服装を眺めると、彼の上着の裾を軽く引いた。
「その格好、暑くないの?」
少女に指摘され、アスカロンは改めて自分の服装を見直す。灰色なのはシャツだけで、パーカーも長ズボンも黒。誰が見ても暑苦しい組み合わせだ。
「黒って、人混みの中では目立つようで目立たない色だって、知らないの?」
「他に色のある服、持ってないの?」
十二歳の子供同士が、アスカロンの服装を巡って言い合いをしているのを見て、背後の店主は眉をひそめ、舌打ちをした。
「はいはい、もういいから二人とも行った行った。これ以上ここでいちゃついて、私をいじめないでちょうだい。主よ、どうか私にも早く結婚のご縁を……」
「え? いじめ?」
「はいはい、好きに解釈していいわ。主のご加護を。」
飲み物のカップの外側に結露した水滴が滑り落ち、石畳の上に、少し濃い円を残す。その跡をまたいでいくのは、少年と少女の足取りだった。
やがて数分もすれば、その水滴の跡も熱気の中で蒸発し、まるで何事もなかったかのように消えていく。
「待ち合わせ、八時半だったよね? アスくん、どれくらい待った?」
「そんなに。」
「もう……アスくんが遅刻嫌いなの分かってるから、わざわざ十分早く来たのに。なのに、もう来てるなんて信じられない。」
歩道を並んで歩きながら、アスカロンの隣にいるエスタは、幼なじみの少し大げさな行動に不満をこぼす。
「それで、今日はどうして俺を呼び出したんだ?」
「どんな答えが聞きたいの?」
「今度はどんな答えを用意してるんだよ。」
エスタは右手を顎に当て、考え込むふりをする。もちろん、アスカロンにはそれが演技だと分かっていた。
「うーん……アスくんと一緒に出かけたかったから、っていうのはどう?」
「……それでいいよ。少なくとも、俺の勉強を邪魔して、また学年一位を守るためとかじゃなくて。」
「ふふ~ん。アス、ずっと私のこと見てくれてたんだ。やだ、恥ずかしいじゃない。」
エスタの反応に、アスカロンは呆れたように視線を逸らす。それを見て、エスタはくすくすと笑った。
だが実際、エスタの目的は彼女の言った通りだった。ただアスカロンと一緒に出かけたかった、それだけだ。朝に合流してから昼までの間、二人はほとんど商店街を歩き回っていた。
通学路でもあり、普段からエスタが隣を歩いている通り。それなのに、状況はいつもと何一つ変わらないはずなのに、今はなぜか、これまでにない感覚が、アスカロンの胸の奥――高足杯のような器を、静かに満たしていく。
昼食後、最初の目的地は街の境界近くにある展望台だった。
レゴレイル-003は防衛戦線の端に位置しており、その展望台からは外の世界を一望できる。砲台や戦車に遮られない、唯一の景色であり、建物が立ち並ぶために聖堂の姿が見えなくなる、数少ない場所でもあった。
そしてそこは、二人が初めて出会った場所でもある。
道中、二人はまた、あまりにも見慣れた光景を目にする。
「ま、待ってくれ……お、俺には世話をしなきゃいけない家族が――」
「世話ならもう必要ない。ここに居座り続けるつもりなら、いずれこの街の人間全員が、お前と一緒に葬られることになる。」
「や、やめろ……! どうして俺なんだ……どうして俺が、使者なんだ……!」
完全武装した数名の兵士が一人の男を取り囲み、手錠をかけると、そのまま隣に停めてあった装甲車の後部にある金属製の箱へと乱暴に押し込んだ。
突然の出来事に、周囲の人々は足を止め、ひそひそと噂話を交わし始める。エスタとアスカロンも耳を澄ませ、その会話に聞き入った。
「うーん……また『禍の使者』らしいね。印は腕に出てたとか。前の『災厄』が終わってから、この街では何人目だっけ?」
「確か……四人目だったはず。結構多いよな。明日も聖堂で祈らないと。」
「使者が出るたびに、目撃者全員がああなるんだよ。『災厄』の種に感染する可能性があるとかで。」
『災厄』の種――それは、レゴレイルの住民なら誰もが幼い頃から聞かされてきた言葉だ。だが、『災厄』に関する研究はレゴレイルの中央城区周辺でしか行われておらず、一般市民が『災厄』や『禍の使者』がどのように生まれるのかを知る術はない。
「まあ、『災厄』の発生地から遠ざけるために、あの人も相当遠くへ流されるんだろうけど。」
「……だろうね。」
「前の『災厄』のときさ、アスくんは避難エリアの隅っこで、ガタガタ震えてたよね。」
「……おい。」
いつも通りの光景だ。予想外というわけでもないのに、実際に目の当たりにすると、やはり外出の気分は多少なりとも削がれてしまう。
装甲車が街を離れ、地平線の向こうへと消えていくのを見届けてから、二人は気持ちを切り替え、再び展望台へと向かって歩き出した。
境界に近づくにつれ、空気の流れがはっきりと感じられ、焼けつくような暑さの中にも、わずかな涼が混じる。展望台に足を踏み入れた瞬間、果てしなく広がる草原、山々、そして都市の廃墟が一望できた。背後にそびえる威圧感に満ちた軍事施設と比べ、目の前の景色は心が洗われるようだ。正面から吹き抜ける風に乗って運ばれてくる清々しい香りが、まるで自分が景色の一部になったかのような錯覚を与える。
正直に言えば、今回のエスタの誘いは、アスカロンを勉強地獄から解放し、心をかなり軽くしてくれていた。
「先に言っておくけど、将来ここで他の女の人にプロポーズなんてしたら、覚悟しなさいよ。」
「今の一言、雰囲気ぶち壊しなんだけど。」
アスカロンのツッコミに、エスタはくすっと小さく笑うだけだった。
「アスくんは、将来何になりたいの?」
「急すぎない? それとも、その質問をするためにここへ連れてきたの?」
「いいから答えて。」
アスカロンは足元の木の床板を見つめながら、世の中にある様々な職業を思い浮かべ、自分の性格や興味に合うかどうかを一つ一つ考えていく。
「……もし、『ティフォン』に入りたいって言ったら?」
「レゴレイルの国民なのに、『災厄』に近づこうだなんて。おじさんやおばさんに叱られない?」
「もし、って言っただけ。仮の話だよ。じゃあエスタは? 『分からない』みたいな曖昧な答えはナシだから。」
顔を上げたエスタは空を見上げ、すぐに答えを返した。
「ふーん……私は『ノア』に入るかな。あっちの人たちと一緒に、『災厄』を解決する方法を探すの。」
「それだって、『災厄』に近づくことじゃないか。」
エスタは小さく笑い、その問いには答えずに受け流した。今に始まったことでもなく、アスカロンはため息をつくしかない。
「じゃあさ、アスくんが本当に『ティフォン』になりたいなら、『ノア』にも入って、私を守ってくれたら?」
「君、僕が守らなくても大丈夫だろ。『ノア』には強い人がいっぱいいるはずだ。」
「えー、アスくんだって強いじゃない。前に一対三で、あっさり勝ってたでしょ。」
「あの後、丸一週間外出禁止にされたんだけど。それに、手のひら一発で都市を吹き飛ばすような化け物と戦えって? 冗談だろ。まあ、そのうち考えるよ。」
「それなのに『ティフォン』に入りたいって言うの、矛盾してない?」
「言葉尻を取るなよ。」
アスカロンの返答が気に入らなかったのか、エスタは両肘を手すりに乗せ、遠くの景色を眺めた。
風に揺れる茶色の髪、髪色よりも少し紅みを帯びた肌、そして整った横顔に宿る、遠方を優しく映す青い瞳――それらが重なり合い、思わず息を呑むほどの美しさを作り出している。
自分の視線が気持ち悪いと自覚したのか、アスカロンは慌てて顔を背けた。ちょうどその時、エスタもこちらを振り返る。
「なに、あなたも景色を楽しんでるの?」
「……近い。」
どれだけ距離を取ろうとしても、エスタは構わず近づいてくる。二人の鼻先の間隔は、わずか五センチほどになっていた。
「お姉さんの言う通りね。アスくんって、たまに反応が面白い。」
「もういいから。次はどこに行くんだ?」
「あ、次は映画を観に行くよ。」
「どれ?」
「さて、どれだと思う?」
ときどき、アスカロン自身も不思議に思う。どうして自分は、こんなにも長い間エスタと一緒にいられるのだろうか、と。
「はいはい、冗談よ。映画館に着いたら教えてあげる。」
「いやいや、映画館に着いた時点で逃げたら手遅れだろ。」
「あら、逃げる気だったの?」
エスタはアスカロンの腕をぐいっと掴み、展望台を後にして商店街へと戻り、レゴレイル-003市街区に唯一存在する映画館へと歩き出す。
「ねえ、手、繋いで。迷子になりそう。」
「冗談だろ。何回も通ってる道じゃないか。」
「ケチ。」
そう言い終えるや否や、エスタはそのままアスカロンの腕に絡みついた。最初は振りほどこうとしたアスカロンだったが、なぜかエスタが急に力を込め、強引に引き離すこともできない。二人はそのまましばらく歩き、道中、知り合いたちの生温かい視線を一身に浴びることになった。やがて、エスタの方から腕を離す。
同じ通り、同じ景色、隣を歩くのも同じ相手。変わらないように見える日常は、いつだって予想もしない形で、最も衝撃的な出来事を連れてくる。
意外と明日――どちらが先に訪れるかなど、誰にも分からない。
軽やかな足取りで歩道を進むエスタに引かれ、アスカロンも歩く。目の前の角を曲がれば、もう映画館はすぐそこだ。
その瞬間、エスタの足が止まった。直後、アスカロンも。
――いや、違う。この通り全体、この街全体、いや、この世界にいる人々の動きが、ほんの数秒、完全に止まったのだ。目の前に現れたものが、本当に現実なのかどうかを確かめるために。
アスカロンは瞬きをする。視界に映る情報は幻覚ではない。だが、“それ”は現実世界には存在しないはずのものだった。まるで脳内に直接流し込まれた映像が、網膜に投影され、視覚として認識されているかのように。
[00:20:00]
[00:19:59]
[00:19:58]
再び時間が動き出した瞬間、地面が激しく揺れ始めた。アスカロンもエスタも、そして通りにいた人々も、一斉に我に返り、全力で走り出す。
「う、嘘だろ……!」
「今までなら……最低でも一日、悪くても半日はあったのに……!」
「に、二十分……! 一番近い避難エリアは――」
「こ、今回の『災厄』、どうなってるんだよ!」
通りは瞬く間に人で埋め尽くされた。ビルの中から、住宅から、元々人のいた場所はすべて、あっという間に人影を失い、代わりに人々が駆け抜けた痕跡だけが残る。反対に、普段は広く感じられる通りも、今や身動きが取れないほどの混雑で、まるで祝祭日に行われる大規模なパレードのようだ。
ただ一つ違うのは、そこにあるのが笑顔ではなく、極度の恐怖と焦燥に歪んだ表情ばかりだということ。
人混みの中を進むたび、全身に激しい衝撃と圧迫が加わる。アスカロンは腕と体の一部で、四方八方から押し寄せる力を必死に受け止めていた。
だが、ふと振り返った瞬間、体格の細いエスタが、人波に押され、次第に自分から遠ざかっていくのが見えた。
「ア、アスくん……」
「ま、待って……!」
数秒も経たないうちに、エスタの姿は完全に視界から消えた。
――きっと、無事に避難エリアに辿り着ける。
そんな楽観的な考えが、一瞬だけ頭をよぎる。だがすぐに、人々の不安に満ちた叫び声が、再び耳に飛び込んできた。
「む、無理だ……間に合わない! 前のやつら、何してるんだよ! 俺たちを外に閉め出す気か!」
「お願いだ、早く……! あ、あと十五分しか……! し、主よ……!」
街に渦巻く負の感情は、濃度を増しながら不安を急速に拡散させていく。その重苦しい空気が、アスカロンの思考までも侵食していった。
レゴレイル-003市街区にある避難エリアの位置を、必死に思い出す。自宅のすぐ近くにも一つあるため、家族の身はおそらく大丈夫だろう。だが、この付近にある二つの避難エリアは、平時なら徒歩十分圏内とはいえ、今の状況は、祝日ごとに起きる大都市の渋滞そのものだ。カウントダウンが終わる前に辿り着けるかどうかは、もはや運に近い。
人の流れに逆らわず進みつつも、アスカロンは一歩進むごとに、わずかに左へと位置をずらしていく。やがて、通りの反対側――エスタが押し流されていそうな方向へと辿り着いた。
人混みをかき分け、通り沿いの店に飛び込み、階段を駆け上がって二階のバルコニーへ出る。そこから通り全体を見渡した。
上から見ると、人々はまるで、地面に落ちたクッキーの欠片に群がる蟻の群れのようだ。そして、彼が探している存在――
見つからない。
黒一色の人の波の中では、茶色の髪をした少女は、なおさら見つけにくい。加えて、視界に重なって消えない、触れることもできないカウントダウンが、ひどく邪魔だった。それが、アスカロンの心をさらに焦燥へと追い立てていく。
自分の感情が不安定になっていることに気づいた瞬間、アスカロンはぎこちなく呼吸を整え、十二歳の頭を無理やりフル回転させた。
「……もっと後ろにいるってことは、ないよな……」
[00:12:09]
残された避難時間を目にし、なおかつ街を埋め尽くす緩慢な人の流れを見ていると、耳に入ってくるのは、見たこともない“主”にすがる祈りの声ばかりだった。
主が本当に人々を救ってくれるかどうかはさておき、現実的に考えれば、今回の「災厄」を無事に生き延びる望みはほとんど残されていない。
よく考えてみれば、今回の「カウントダウン」は明らかに異常だった。
アスカロンがこれまでに経験してきた数度の「災厄」の中でも、最短の部類に入る。
いや、それはきっと――
他の人たち、もっと年上の人たちにとっても同じことなのだろう。
避難区に辿り着けないと分かってしまった以上、自分が取るべき行動は――
「……建物沿いに、移動するしかない、か……」
アスカロンはバルコニーに腰を下ろし、下から響いてくる、混乱に染まった悲鳴の数々を聞きながら、少しだけ目を閉じようとした。
しかし、目を閉じてもなお、あのカウントダウンははっきりと見えてしまう。
さっきまで人混みの中にいれば、避難区に入れる可能性はあったのだろうか。
そもそも、なぜ自分はこんなにも無計画に飛び出してきてしまったのか。
「……彼女が、人波に流されるのを見たから、か……」
たぶん、そうなのだろう。
今となっては、もう深く考える意味もない。
終点へ向かって刻一刻と迫るカウントダウンを視界に捉えながら、アスカロンは再び目を閉じ、「災厄」の到来を待った。
――もしアスくんだったら、どんな遺言を残すの?
エスタがそばにいたなら、きっとそんな問いを投げかけてきただろう。
そして、それに対するアスカロンの答えは、おそらくこうだ。
「……できるだけ、苦しまないで死ねたらいいな……」
やはり、怖い。
やはり、不安だ。
何度も「災厄」を経験してきたとはいえ、死はどこか遠いものだと思っていた。
だが、こうして自分自身が「体験」する立場になって初めて、死神がすぐそこまで迫っていることを、肌で感じる。
もし、あの時。
エスタの冗談に付き合って、彼女の手を取っていたら。
今ごろ自分の隣には、話し相手がいたのだろうか。
[00:05:31]
時間は、もうほとんど残されていない。
アスカロンが再びバルコニーの外へ目を向けると、避難区の外に取り残された数百人のレゴレイル-003区画の住民たちも、次第に足を止め、互いを押し合うことをやめていた。
誰もが分かっている。
もう、間に合わないのだ。
「……あいつ、今どうしてるんだろ……」
[00:01:43]
霧が出てきた。
視界は次第に薄いヴェールに覆われ、はっきりと見えるのは、あのカウントダウンだけだった。
聖堂での礼拝の際、教師が言っていたことを思い出す。
「災厄」は、必ず霧を伴って降りてくるのだと。
当時は、クラスの誰かが「災厄もホラー映画の撮り方を分かってるんだな」なんて冗談を言って、笑いが起きたものだ。
今思い返すと、まるで笑えない。
寒い。
いや、これは錯覚だ。
恐怖で身動きが取れなくなっているせいだ。
もう、避難区の入口は閉じられているだろう。
アスカロンは、街の人々と共に、カウントダウン最後の三秒を見届けた。
「……どうか、彼女が……生き延びられますように……」
主よ、お願いします。
[00:00:02]
[00:00:01]
[00:00:00]
「もし……あの時、手を繋いでいれば……」
カウントダウンは、すべての人の視界から消え去った。
その直後に訪れたのは、天地を揺るがす激震。
続いて、無数の悲鳴と、逃げ惑う足音。
――見たくない。
――外で何が起きているのか、知りたくない。
アスカロンは口元を押さえ、部屋の隅へと後ずさった。
次の瞬間、濃い色をした巨大な柱が天から降り注ぎ、地面に叩きつけられた。
騒然としていた人の声が、一気に半分以下になる。
「……っ」
やがて、その柱はゆっくりと持ち上がった。
その動きによって、アスカロンはそれの正体を知る。
根元からは、四本の管のようなものが伸びていた。
大量の血と肉片が、無惨にも地面へと降り注ぐ。
その光景を目にした少年は、恐怖のあまり、呼吸の仕方さえ忘れそうになった。
「……こ、ここを離れないと……」
頭では分かっていても、脚が言うことを聞かない。
アスカロンは右拳で何度も太腿を叩き、ようやく立ち上がった。
一階へ戻り、軒下を伝うようにしながら、血に塗れた光景を視界に入れないよう、壁際を進む。
再び地面が轟いた瞬間、彼は慌てて足を止めた。
今いる場所からは、顔を上げれば、通りの向こう側の上空が見渡せる。
アスカロンはゆっくりと視線を持ち上げた。
そこにあるのは、濃霧だけ。
その向こうに何があるのかは、まったく見えない。
次の瞬間、黒い何かが霧を突き破って姿を現した。
それは、あらゆるものの「頭部」を寄せ集めたかのような形をしており、根元には首のようなものが繋がっている。
それが、アスカロンのいる通りの先を、じっと見据えていた。
そして、自身の身体を支えるかのように、先ほど血と肉にまみれていた“手”が再び降りてきた。
アスカロンのすぐそば――およそ三メートルの距離に。
動く勇気を失ったアスカロンは、望まなくとも視界の大半を、灰色と黒が混ざり合った、まるで象の皮膚のようにざらついた巨大な腕に占領されていた。
(……動かなければ……それで……)
心の中の言葉が最後まで形になる前に、身を隠していた建物は根こそぎ引き剥がされる。
ちぎれた鉄筋や大小さまざまなコンクリート片が噴水のように舞い上がり、落下して地面に叩きつけられる轟音が鼓膜を蹂躙した。
建物を破壊した“それ”が、いったいどんな存在なのか。
アスカロンは知りたいとも思わなかった。
本能に突き動かされるように、彼は即座に駆け出し、通りを逃げ始める。
だが、そう長くは続かなかった。
先ほどのあの腕が、「落ちて」きたのだ。
ちょうど、彼の目の前に。
その衝撃でアスカロンは地面に叩き倒される。そして――見てしまった。
自分へ跳びかかってくる怪物の姿を、あの腕の“持ち主”の正体を。
二体の怪物の頭部はいずれも人間に似た構造をしていたが、どこかが欠け落ちていた。
目前に迫った中型の怪物は、右半分の顔の皮膚がほとんど崩れ落ち、糊のように粘ついた肉が滴り落ちている。眼球はわずかな筋肉によって、かろうじて眼窩に繋ぎ留められているだけだった。
他の部位の皮膚は血のような濃い赤に染まり、背中では本来脊椎であるはずの骨が異様に突き出し、肋骨も肉を突き破って露出している。
一方、遠方にいる超大型の怪物の顔は、「虚ろ」と表現するほかない。
常に開きっぱなしの巨大な口の中には歯も舌も存在せず、眼窩の奥は闇に沈んでいる。それでも、その最奥では赤い眼のような何かが蠢いているのが見えた。
骨格もまた異様だったが、何よりも奇怪なのは、背中一面に広がる黒い影が霧の中に溶け込み、その全貌を掴ませないことだった。
――だが、そんなことはもうどうでもよかった。
中型の怪物が顔を近づけてくる。
腐臭を放つ皮膚の悪臭でさえ、アスカロンの胸を満たす恐怖には遠く及ばない。
二つの視線が交錯する。
顎も、四肢も、止めどなく震えているのが分かった。
目を閉じて現実から逃げ出したくても、瞼は痙攣するばかりで、脳の命令を聞いてくれない。
予想外だったのは、その怪物が彼を一撃で肉塊にしなかったことだ。
怪物は右腕を隣の建物へ突き刺すと、そのまま空へ向かって力任せに振り上げた。
瞬間、三棟の民家が元あった場所から消え失せ、砕け散った破片となって空へ舞い上がる。
先ほどの何倍もの瓦礫と断片が、雨のように降り注ぐ。
意識と視界が瓦礫と石に覆われる直前、怪物が発した奇妙な音が聞こえた気がした。
よく耳を澄ませてみると、それは果たして高らかな笑い声だったのか、それとも悲嘆に満ちた泣き声だったのか。
建物の残骸はアスカロンの身体を打ち、腕を砕き、脚を潰し、胸を貫き、頭部を打ち砕いた。
区画内にあった聖堂も、もはやその姿を留めてはいない。
いつものように白く清らかなまま立っているのか、それとも既に「災厄」によって破壊されたのか。
――まるで、自分が十年間信じてきた信仰そのもののようだ。
視界の光は次第に薄れ、やがて完全な闇へと沈んでいく。
思考もまた、ゆっくりと霧散していった。
最後に壊れかけの脳裏に浮かんだのは、家族でも、友人でもなく――
ただ、一面の黒い影だった。
「……あ……」
◇
刺激。
ほんの、わずかな刺激。
瞼が震え、やがて黒い瞳が再び光を宿す。
見上げた先には、澄み切った青空が広がっていた。
地面に横たわっていた少年は上体を起こし、周囲を見渡す。
破壊された街並みと建物以外、何も残っていない。
アスカロンは右手を伸ばす。
本来なら、既に肉片と化しているはずのその右手で、自らの胸に触れた。
――鼓動している。
心臓は、まだ動いている。
アスカロンは、生きていた。
ただし、それを「生」と呼べるかどうかは、別の話だ。
彼は胸元の衣服に空いた円形の穴を見下ろす。
その下にあるのは、肌の色ではない。
光を一切反射しない、完全な黒。
慌てて服をめくった瞬間、アスカロンは凍りついた。
思考も同時に停止する。
「……う、嘘だろ……」
本来なら鉄筋に貫かれているはずの胸の傷口には、黒い異様な刻印が浮かび上がっていた。
形は六芒星に似ているが、星のような輝きはなく、ただ純粋な闇だけがそこにある。
そしてこの刻印を、アスカロンは初めて見たわけではなかった。
礼拝の場で語られた話の中でも、そして――防衛連盟の軍に連行され、追放された人々の身体にも、同じような印が刻まれていた。
刻印を持つ者は、すなわち「禍の使者」。
「災厄」のカウントダウンが終わるとき、使者のいる場所が「災厄」の最初の出現地点となる。
そして「災厄」を解き放った後、使者の役目は終わり、やがて消滅する。
信仰を何より重んじる国、レゴレイルにおいて――「災厄」に関わる一切のものは、人々から最も忌み嫌われる存在だった。
つまり、自分は、この国で生まれ育ったにもかかわらず、最も忌み嫌われる存在となり、そして次の「災厄」のカウントダウンが終わるその時までしか、生きることができないのだ。
アスカロンは脚に力を込めて立ち上がり、かつて自分が暮らしていた町の中を、あてもなく歩き回った。
そして最後に辿り着いたのは、あの瞭望台があったはずの場所だった。そこに残っているのは、無数の木材の破片だけ。
振り返ると、防衛戦線に配備されていた軍事兵器の数々も、ところどころが破損している。
先ほどの突発的な「災厄」は、軍にとっても想定外だったに違いない。
これまでの「災厄」避難の記憶を辿る。
住民たちは避難区へ収容された後、レゴレイル内部の仮設居住区へと移送され、元の居住地が整備されるまで、そこで生活することになる。
――しばらくの間、家族には会えそうにない。
エスタが無事なのかどうかも、確かめる術はない。
「……いや、違う」
家族のことを思い浮かべたその瞬間、アスカロンは思い出してしまった。
自分はすでに「禍の使者」なのだ。
――帰る場所など、もうない。
「……できるだけ、遠くへ行かないと……」
後始末を担当する部隊が到着する前に、この場を離れなければならない。
そうでなければ、良くて流刑。最悪の場合、その場で銃殺だ。
瞭望台の外へ、あと一歩踏み出せば――そこは、レゴレイル-003の外。
だが、どれほど意識しても、アスカロンはその一歩を踏み出すことができなかった。
十数年を過ごした故郷を、どうしても離れられない。
一度外へ出てしまえば、もう二度と、彼らに会うことはできない。
――そして、出なくても、結末は同じだ。
ならばいっそ、アスカロンの死をこの町の現実として受け入れてもらう方が、正しい選択なのかもしれない。
微かに震える右脚を見つめながら、アスカロンは拳を握り、何度も太腿を叩いた。
そして、数え切れないほど深く息を吸い、吐き――
ようやく絞り出した勇気で、彼はレゴレイル-003区画の外へと、一歩を踏み出した。
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