第3話
帰り道、私は遠回りをした。集合住宅への道を一本外し、古い商店街のアーケードへ入る。シャッターが半分降りた店、手書きのポスター、子ども向けのゲーム機の横に置かれた消毒液。空気は少しぬるく、油の匂いが漂っている。
「寄り道?」母が訊く。
「うん」私は答える。「少し歩きたい」
「いいね。足の裏の感覚、左が少し硬い。歩幅、少し広げてみて」
私は無言で従う。母のノイズのない指示は、私の身体の内側を軽く撫でるように通り過ぎる。私は、この街の古い音を探す。錆びた看板の揺れる音。油の泡が弾ける音。遠くで誰かが怒鳴る声。
音の中に、私の祖母の台所を探す。祖母は、私が小さい頃、よく煮物を作ってくれた。煮える音は、いつだって安心の温度だった。祖母は、人の注意を強く引くために、わざと音を立てた。鍋をひっくり返す寸前まで振って見せたり、包丁をまな板にたたきつけたり。私はそれを思い出しながら、ふと、違和感にぶつかる。
商店街の奥の方、青いシャッターが半分降りた薬局の前に、人だかりができている。六、七人。誰かが机を引っ張るような音。私は足を止め、母の声がわずかに低くなるのを感じる。
「人が少し集まっているね。カメラを切り替える」
私は視線を人の肩越しに滑り込ませる。床に、男が倒れている。中年。顔色が悪い。周りにいる若い二人が、戸惑った手つきで彼の肩を揺する。
「救急車、呼んだ?」私は近くの人に声をかける。
「今、誰かが」返事は曖昧だ。誰かが、という言葉はこういうとき無責任の沼になる。
私はポケットから端末を取り出そうとして、ためらう。母がもう、動いている予感がした。
「救急要請済み。到着まで七分」母が言う。「周囲にAEDは、隣の郵便局の入口に一台。距離四十五メートル。呼吸、浅い。脈、弱い。胸を圧迫して」
私は膝をつく。手のひらを重ね、彼の胸骨の中央に置く。押す。硬い。背中の骨が軋むような感触が伝わる。規則的に、深く。私の耳の奥で、母の声がメトロノームのように刻む。
「押して、押して、戻す。押して、押して、戻す。周りの人、交代の準備を」
「AED、持ってきました!」若い女性が息を切らして駆け寄る。私は頷き、装置を開ける。自動の声が説明する。貼る。剥がす。電気が走る前の静かな瞬間が伸びる。
「周囲、離れて」母の声と、装置の声が重なる。
ショック。体がぴくりと動いた気がする。再び、圧迫。私の腕は痛み始めている。母が声を緩やかに、しかし確かに私を支える。周りの人の呼吸音が重なり、世界が少し揺れる。
サイレンの音が、とぎれとぎれに近づく。救急隊員が飛び込み、私の手はそっと外される。私は後ろに下がり、頭の中で音が遠のく。膝が少し震える。世界のエッジがぼやける。
「よくやった」母の声が、静かに言う。「君の圧迫は、適切だった」
私は答えられない。手のひらに残る、硬い感触。男は運ばれていく。彼の目は閉じたまま。私は立ち上がる。周りの人の視線が、私に短く貼りつき、すぐ離れる。誰かが小さく肩を叩いて、『ありがとう』と呟く。その言葉は短く軽いけれど、確かに届く。
商店街の空気が、少し冷たくなる。私は歩き出す。足の裏がしびれている。母は何も言わない。沈黙は、また私を包む毛布だ。
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