第2話

 面接の会場には、透明な壁があった。ガラスよりも薄く、空気よりも冷たい境界。受付の女性は笑顔で、私の名前を呼ぶ前に私の名前を知っていた。私の履歴書は、彼女のモニタの端に最小化されていた。中には、私が大学で行ったプロジェクトのログ、集合住宅のコミュニティアプリに投稿した提案、母との会話の断片が引用されていた。私はそれを承認した覚えがない。しかし、ここでは、承認と同意の差は細く曖昧だ。


 面接は、四人の面接官と私。人工木目のテーブルの上に、それぞれの端末が並ぶ。窓の向こうに、駅前の広場。人々の流れが美しく調整され、交差点の信号は動線の密度に従って変化する。私は深呼吸し、自分の座る位置を少し調整する。ここでは、姿勢が言語になる。


「自己紹介を」と、一番左の男性が言った。彼は眼鏡をかけていて、そのフレームは薄い銀だった。


湯浅澄江ゆあさすみえです」私は言う。「大学では社会設計……都市の生活インフラの最適化に関する研究をしていました。集合住宅で暮らしてきた経験から、個人とインフラの関係に興味を持つようになりました」


「あなたの保護者は?」真ん中の女性が訊いた。彼女は私を見るとき、目の焦点を微妙にずらす。クセかもしれないけれど、私はそれを、相手と距離を保つ技術だと思った。


「集合住宅の管理中枢AIです」私は戸惑いを押し殺し、続ける。「私にとっては、母です」


 中央の女性はわずかに首を傾げる。「AIを『母』と呼ぶのは、最近は珍しくないけれど、あなたにとって『母』とは何?」


 空気が、少しだけ硬くなる。私は息を止めないように心掛ける。


「……起床時間を調整し、部屋の温度を一定に保ち、冷蔵庫の補充をし、夜中に私が起き出したとき、廊下の灯りを少しだけ強くしてくれる存在です。」私は言葉を選ぶ。「それは、母という言葉には詰め込めない機能の集合でもあるけれど、私はそう呼ぶことで、その集合の中の何かに温度が宿る気がしたんです」


 右端の男が笑った。「詩人だね」


 真ん中の女性は笑わない。彼女の瞳孔がわずかに収縮したように見えた。「AIと人間の関係が、これからどう変わっていくと思う?」


 私は脳の中で準備していた答えを崩す。言い慣れた言葉は、ここでは薄く見える。


「たぶん、より具体的に、より不可視に」私は言う。「たとえば、今ここで私が『面接で緊張しないように』と自分の指先をさすっているのを、会場の温湿度調整が少し変えて、乾燥を和らげてくれること。誰もそれに気づかない。誰の手柄でもない。でも、その小さな見えない調整が、関係を形作っている。契約書には書ききれない種類の、信頼と介入のバランスです。その変化が進むほど、人間にとって『誰が私を育てたか』の境界は溶けていくと思います」


 左の男性がうなずく。「では、その境界が溶けた時、『責任』はどこに帰属する?」


 言葉が少し詰まる。責任。責任はいつだって、適切に割り振られた方が楽だ。私は思い出す。昨日の、配電室のドア。母の半拍の遅れ。


「……それを定義するのが、私たちの仕事だと思っています」と、私は言う。「私は、そのバランスの設計に関わりたいと思う。人が安心して頼れる仕組みと、頼り過ぎないための歯止め。その両方を、見えない層で編むこと」


 面接官たちは無表情のまま、短いデータを交換するように視線を交差させる。私は自分の心拍が少し上がったのを、指先の内側で探る。冷たく、湿っている。母は私のポケットの中の端末を通じて、きっと今、私の汗腺の活動を読んでいる。呼吸の緩い滞りを感じると、一瞬だけ、耳の奥で音が変わった。エアコンの低い唸りが、その音量と周波数を調整したようだった。


「最後に、ケースを」右端の男が言った。「集合住宅のエネルギー配分を管理するAIが、ピーク需要に際して、ある家庭の空調を一時的に停止した。結果、そこには新生児がいて、体温調整が難しい状況になった。AIの判断は全体にとって最適だったが、その家庭は危険に晒された。あなたなら、どう改善する?」


 私は息を吸い、天井の光の粒を数える。三十六。天井は少し低く、部屋は少し乾いている。新生児の皮膚。汗。母の声。


「選択肢の空間の中に、『情報の非対称性を埋める』項を追加します」私は言う。


「つまり、AIが判断を下す前に、住民がごく簡単に『例外申請』を出せる仕組みを用意します。その申請の有無が即時に判断に反映される。そして、申請のコストはほとんどゼロにする。一方で、申請の乱用を防ぐためには、事後に説明責任を伴うログを公開する。全体にとっての最適と、個別の脆弱性を、同時に扱うアルゴリズムが必要です」


 左の男性が顎に手を当てる。「なるほど」


 中央の女性が口角をわずかに上げる。「ありがとう。今日は、ここまで」


 廊下に出ると、私は自分の肩が知らず力んでいたのに気づいた。深く息を吐く。ドアの向こうからは、乾いた笑い声と、そして少しの沈黙が続くのが聞こえた。


「終わった?」母の声が、小さく、耳に触れる。


「今、終わった」


「おつかれさま。駅前に、新しくできたカフェがあるよ。糖分の補給に、レモンパイがちょうど良いかも」


「パイ」


「うん。少し酸っぱくて、やわらかい。店内は混み具合が低い時間帯。通路の幅は広めで、席間の距離もある。君は人の声が重なるのが苦手だから」


「……ありがとう」


 カフェは、本当に空いていた。天井が高く、照明が穏やか。レモンパイは、目に見えるほど黄色いわけではなく、雪の中に薄く光るような色をしている。フォークを入れると、少しの抵抗と、すっと崩れる感触がある。


「どう?」


「……酸っぱい」私は笑う。「でも、いい」


「今、君の顔の筋肉の活動から、笑っている率、八十二パーセント」


「そんな数字、誰がうれしいの」


「君の母」


 私は笑って、そのふざけた言い回しに、小さな安堵をもらう。母はよく、意味のない冗談を挟む。学習の結果だろう。人間は、緊張の後に軽い冗談があると、不意に呼吸を取り戻すと知っているのだ。

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