第4章 贖罪
第22話 中谷秀夫と長野理沙の出逢いと別れ
中谷秀夫は大学三年になる春休みに詩誌「ながれの会」の主幹である若本千鶴子の自宅で長野理沙を紹介された。四月号発行の原稿が締切りに間に合わなくて自ら届けに出向いた千鶴子宅で、丁度新入会の手続きに来ていた理沙と知り合ったのである。
「ながれの会」は自由詩を創作し評し合う同人の会で、会員数は学生や若い社会人など男女合わせて三十人程の人数だった。主幹の若本千鶴子は三十八歳になる京都在住の自由詩人で、少しは名の知れた存在だった。
「秀さん、此方、今度新しく誌友になった長野理沙さん」
千鶴子が秀夫と同じ歳くらいの学生風の若い女性を彼に引き合わせ、直ぐに向き直って、今度は女性に秀夫を紹介した。
「此方は一年先輩の中谷秀夫さんです」
「中谷です。宜しく」
秀夫は軽く会釈して自らを名乗った。
「長野理沙です。どうぞ宜しくお願い致します」
理沙は丁寧に腰を折って頭を下げた。
長い黒髪を肩まで垂らし、涼し気な切れ長の眼が知的な印象を秀夫に与えた。同じ国立大学の文学部で英文科に在籍していると言う。
「僕は仏文科で近代文学を学んでいます。同じ学部なら一年違っていても構内の何処かでお逢いしているかも知れませんね」
秀夫は理沙と知り合った後、「ながれの会」の合評会で毎月顔を合わせ、その後の懇親会や二次会で親しく話す機会が増すにつれて、彼女のことが妙に頭から離れなくなった。何の脈絡も無しに彼女の顔がひょいと浮かんで来る。寝る前にベッドで本を読んでいても不意に理沙のことを考えてしまう。大学に居てもそれとなく彼女の姿を捜し求めて居たりする。
三か月程が経った梅雨の或る日、秀夫は理沙を大学近くの小さなマンションまで送って行った。マンションへの暗い道で理沙が、ふと、言った。
「ちょっと寄って温かいお茶でも飲んで行かない?」
「えっ、良いの?・・・真実に?」
「コーヒーは直ぐに沸くし、明日は土曜日でしょう」
理沙は淋しくて仕方が無いという気持ちで、後のことはどうなっても良い、との思いが胸の中に在った。心の何処かでそういう風に崩れ行く気持に必死に逆らう思いも無くは無かったのだが・・・。
それから二人は唯の友人ではなくなった。
秀夫は理沙をひたすら求め、理沙に執着した。初めての女ではなかったが、それにも拘らず、何故か秀夫の心は理沙に執着し、彼はそういう風に彼女に執着して行く心に、他人には無意味に見えるかも知れないそんな自分の心に、自分を委ねた。
秀夫のそうした理沙への執着はやがて然るべき時期を迎えた。が、然し、それは結婚と言う形には結びつかなかった。
大学を卒業した秀夫は出版社に就職し、翌年、理沙は私立女子高校の英語の先生になった。
十代向けの雑誌の芸能記者として、毎日毎日、不本意な無味乾燥した砂漠のような時間をすり減らした秀夫は、結婚という或る種の晴れがましさへ入って行く気持の弾みを全く持てなかった。友人たちは同じような環境の中でも、見つけた仕事に自分の心を次第に馴染ませて行き、やがて結婚して家庭も作った。だが、秀夫は彼等のように身を処することが出来なかった。その頃の秀夫は、毎日、何の張り合いも無く意味の見出せない時間を送りながら、その一方で、いつも漠然と、いつか自分は現在の生活の全てから抜け出して何か別の新しいことを始めるのだと言う想念に捉われていた。彼は自分の周りで進んで行く現実の生活の全てから目を背けて、ただ自分の内に在るその想念一つに関わり続けていた。
秀夫は理沙と最後に会った時のことを思い出した。
それはある夏の昼下がりの喫茶店の光景だった。冷房ばかりが効いて冷たく濁った空気が店内に澱み、不機嫌に黙り込んだ理沙が視線を頑なに逸らせて、秀夫の前に座っていた。理沙はその日、秀夫に、妊娠した、と告げたのだった。
秀夫は呟いた。
「信じられない」
「だって、そうなんだもの」
理沙はそう言うと、それ以上は何も言おうとしなかった。
二人のような性交渉の在る恋愛関係であれば、それは有って不思議の無い話であった。そのことを秀夫が気遣わなかった訳ではない。が、秀夫はいつもそういうことに気を配って居られるほど精神に余裕は無かった。それは全く理沙に任されていた。そして、理沙が誤算をしたとしてもそれを責める訳には行かなかった。
暫くの沈黙の後、理沙は、立ち上がった。
「もう一度、勤め先の学校へ戻らなければならないの」
秀夫にも売り出し中の少女スターのインタビューが待っていた。
その夜、秀夫は暑さでぐったりした身体を引き摺ってマンションへ帰り、そのままベッドの上に寝転がった。
秀夫は思った。
一体これはどういうことなのだ?理沙に子供が出来る、これは一体何なのだ?二人に子供が出来る、これは一体どういう事態なのだ?
然し、そうした問いの無意味さは秀夫にも解っていた。それはそういうことであり、それだけのことであり、そして、どうしようも無いことであった。その対処の仕方は二つに一つ、産むか産まぬか、その何れかだけであった。秀夫はその先を考えることは止めた。
理沙は昼過ぎに秀夫のマンションにやって来た。後ろ手にドアを閉め、その扉に寄りかかったままの姿勢で、彼女は言った。
「あれ、間違いだったわ」
それを訊いた瞬間、張り詰めていた身体から一瞬、空気が抜けて行くような虚脱の感覚が秀夫の心に拡がった。それは全く予期できなかった深い空虚な感覚だった。ただひたすら何も無い眩暈のするような空虚さの感覚だった。そして、秀夫はその空虚さの中で、唯、あぁ殺さずに済んだ、と思った。
理沙は疲れ切ったように立ち尽くして、もうそれ以上何も言おうとはしなかった。
その後、程無くして二人は別れた。理沙は「ながれの会」からも脱退して秀夫の前から姿を消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます