第21話 亜紀、心機一転、東京へ赴く

 漸く恋の痛手から立ち直って落ち着きを取り戻した亜紀が「純」にやって来たのは、それからまた一月ほどが経ってからだった。

既に看板の後で、店には純子ママだけしか居なかった。入って来るなり座りもせずに亜紀が言った。

「水割りを一杯飲ませて下さい」

純子ママは言われるままに水割りを作った。

「あの人に子供が生まれるんですって。それも既に妊娠六ヶ月なんですって・・・」

「えっ、慎ちゃんに子供が出来るの?」

「ええ」

「もう?」

「馬鹿にしているわ、全く!」

純子ママは亜紀と並んでカウンターに座った。

「どうして判ったの?」

「上田さんがうっかり喋ったのを私の友人が聞いていたんです」

「そうなの・・・」

慎一に子供が出来たとは純子ママも初耳であった。慎一も上田も店に何度も来ていたがそれらしいことは一言も言わなかった。

「じゃあ、隠していたのね、あなたに」

慎一が結婚して、未だ四カ月余りである。既に妊娠六カ月と言うことは結婚する前から肉体の交渉が在ったと言うことになる。然も婚前に既に身籠っていた。それを隠して亜紀と交際っていたという訳である。

「人を沽券にして!・・・馬鹿にして!・・・」

亜紀は腹の底から怒っているようだった。

「でも、もう済んでしまった人のことだからね、いつまでも引き摺って居ちゃ駄目よ」

「ええ、それは解っています。でも、真実に忌々しくて腹立たしいんです、わたし」

亜紀の怒りは暫く収まりそうになかった。

純子ママは水割りをもう一杯作って彼女の前に置いた。

亜紀は怒りを酒に溶き解すかのように、ゆっくり時間をかけてそれを飲み干した。

「ママ、帰ります」

亜紀が立ち上がった。

「そうお、もう遅いから、気を付けてね」

「ママに話して少し気持が落ち着きました」

亜紀は漸く顔に微笑いを作った。

 それから一週間後、再び亜紀が純子ママのマンションへやって来た。昼過ぎに電話があって、一時間後に京銘菓「仙太郎の最中」を持って現れた。

「明日、東京へ行きます」

会うといきなり言った。

「東京?」

「わたし、これからもう一度やり直します。今の契約事務所から、専属契約にする代わりに東京への赴任を言い渡されたんです。スタイリストとして需要の多い東京で精一杯やってみようと思います。兎に角、頑張ってみます」

「じゃ、此方は全部引き払って?」

「マンションは解約して、荷物も全部昨日送りました。向うで落ち着いたらまたお便りします」

余りの早業に純子ママは呆気にとられた。

「それで、今度彼がお店に現れたら、これを返しておいて欲しいんですが、預かって頂けますか?」

「これは?」

「彼の叔父さんが置いて行った手切れ金の三百万円です。お言伝してすみませんが、宜しくお願いします」

亜紀は丁寧に頭を下げた。

「返すだけで良いのね?」

「はい」

「じゃあ、彼にはもうこれっきりね?」

「ええ、あの人はもう何のも関係も無い人ですから」

「そう・・・」

「色々お世話になりました、有難うございました」

「じゃ、今夜はあなたの門出を祝って祝盃を挙げなきゃあね」

「わたし、お店には伺いません。万一、彼に出くわすと嫌ですから」

「それもそうね。じゃ、私たちだけで祝っておくわ」

「有難うございます。それでは、どうぞお元気でお過ごし下さい」

亜紀はそれだけ言うと、ドアを閉めて帰って行った。

 そして、一カ月後、手紙が届いた。

「前略、京都ではいろいろとお世話になりました、有難うございました。東京で何とか頑張っています。東京は京都に比べて雑誌社の数やショーの機会が多く、スタイリストとして独立するには絶好のチャンスだと思います。今のところは事務所の仕事の傍ら、近くに在る洋装店でデザイナー兼売り子としてアルバイトをしていますが、そのうちに力を着けて独立し、目下のワンルームマンションからリビングダイニングの在るマンションへ移る心算です。慣れない初めての土地で不便を囲っていますが、恋や愛に煩わされず、すっきりした気持で張り合いを持って、前を向いて頑張っています」

そして、最後に、もし慎一が聞いても東京に居ることは言わないで下さい、と書かれていた。それでも万一のことを警戒してか、「東京にて」というだけで住所は書かれていなかった。

勝気で頑張り屋の亜紀らしいと思いながら、純子ママは「しっかりやりなさい」と手紙に向かって声を掛けた。苦しみ悩みながらも挫けずに、前に向かって進む態度が小気味良かった。

純子ママは独り心の中で呟いた。

もう終わったのよ、亜紀の恋も、それから、慎一の甘えて居られる時節も、もう終わったのよ・・・

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