第4話 あの日のことは忘れられない

 人が溢れかえる五条坂の交差点から清水坂の細い道を通って、ホテルに足を向けた。ひんやりとした秋の夜気が二人を包み込む。毅は奈緒美の肩を抱くことも手を握ることもしなかった。

観光バスが離合するのがやっとという道幅の両側には、民芸品店、工芸品店、八つ橋店、菓子店、陶磁器店、刃物店、仏具店、扇子店、陶人形店、茶店、漬物店、七味唐辛子店、食事処、喫茶店、地酒店、焼饅頭店、土産物店、和装小物店などなど夥しい店々が軒を連ねている。

「この辺り、わたし、大好き。量販店やモール街やショッピングセンターには無い個性的な小さな専門店やお土産屋さんが沢山在って、昔の日本の街ってこんなんじゃ無かったのかな、って気がするの」

毅は清水坂の麓を侵食しているコンビニやスーパーを指し示して言った。

「今や簡便さと気忙しさの世の中だからね。時間と金と効率が全てを支配していて、専門の小売店が個性的にやって行ける余地なんか段々無くなりつつあるのさ」

「東京と同じね」

「いや、爆買いに象徴される消費に頼って、自らの生産性や創造性や建設性を忘れてしまった此方の方がもっと酷いよ」

二人はぎこちなく坂下の角に立っていた。

奈緒美がホテルに至る坂道の通りを見上げて何か言おうとした。

「そう言えば、あの時・・・」

「止そう、昔の話は。もう過ぎたことじゃないか。遠い昔の物語だよ」


 だが、毅の脳裏には、嘗て東京神田の同じような坂下で、雨に濡れながら腕を組んでいた自分たち二人の姿が蘇っていた。あの時、肌まで沁み通って来る雨をもものともせず、靴を踏みしめて、二人は神田の書店街を抜け、坂の上のホテルに通じる長い道を登って行ったものだった。

 アフガニスタンの取材から帰って来る毅を奈緒美は心待ちしていた。殺戮と死の凄絶な戦争の呪縛から心身を解き放つ為に二人は求め合った。

あの日のことは忘れられない。

蠅のたかる死体の散乱するカンダハールの街から遥か遠く離れた雨の東京で・・・二人は丸二日間ホテルに閉じ籠った。そして、様々な誓いを交わし、将来を語り合った。笑い合った。食事を摂った。愛し合った。耳を聾する空爆の爆音から遠く離れた東京の一角で・・・。

 

 毅は身体を前に進めることが出来なくなった。両手をポケットに突込んだまま立ち止まって、彼は話の継歩を捜した。

「ご主人はどうして居るんだい?」

「別れたわ、あの人とは」

毅はまじまじと奈緒美の顔を見た。

「悪かった。俺はてっきり・・・でも、彼はとても良くしてくれる、って君は言いていたじゃないか」

「ええ、そう。でも、私が彼を辛く苦しめたの、結果的には」

奈緒美は眼を逸らした。

不意に風が立って、店の前の幟がはためいた。

「あの人の紹介と引き立てで私はテレビ界に入り、スターになった」

「その美貌が大いに役立ったと言うわけだ」

「皮肉は言わないで」

奈緒美は続けた。

「でも、それが返ってあの人の辛苦の基になったのよ。スターキャスターを妻に持つと言う境遇があの人には重荷になったのね。或る時、突然に転職して・・・それから次々と職を変えるようになった、それをみんな私の所為にして。世間の誰もが私のヒモの如くにあの人を見るようになった。それが決定的だったみたい。いつしか酒に溺れるようになって、とうとう或る日、荷物を纏めて出て行ってしまったの」

「優しそうな男だったのに、な」

東京で初めてその男に会った時のことを思い出しながら、毅は自分の思いとは裏腹なことを言った。

熱っぽい、野望に燃えるような眼をした若々しい顔の男だった。その夜のパーティーで奈緒美に付き纏って離れない彼を観て、何かしら危ういもの、自分たち二人の将来を脅かすような気配を感じたことを毅は憶えている。その男はプロデューサーだと言って、奈緒美に、テレビ界で仕事をしてみないか、としつこく誘った。これほど美人で有能で勤勉な女性なら成功間違い無しだ、と口説いたのである。

眼の前を通り過ぎるタクシーを見ながら奈緒美が言った。

「優しそうではあっても、優しくはなかったわ」

「君だってそうだった」

「ええ、私もそうだった」

すると、毅の頭にアフリカの取材から三週間ぶりに戻ったあの日の記憶が甦った。

 

 羽田空港からタクシーを飛ばして二人のマンションに駆け戻ると、奈緒美の持ち物が一切合切消えていた。衣類や化粧品から、タオルやティーポットまで全て消えていた。彼女の本も書棚から引き抜かれて、跡には歯の抜けた櫛のように隙間が出来ていた。その時も呆気無いほど簡潔な書置きが残っていた。

翌日、毅は友人から奈緒美の番号を聞き出して電話した。

慎重に言葉を選び、逸る感情を抑えて彼女と話した。

「戻って来てくれないか」

「ご免なさい。わたし、思い切ってこうするしかなかったの。わたしにとってはとても重要な選択なの。一生で一番重要な選択かも知れない。わたしがあの人に巡り合った、と言うか、あの人が私を見つけてくれたのかも知れないけど、これを機会に新しい道に進んでみたいのよ。新しい仕事を始める心算なの、テレビの世界で自分を試してみようと思って」

「顔や姿の映るテレビの方が君の美貌を引き立たせると言うのか?」

彼女はそれには答えずに、続けた。

「ご免なさいね、真実に。もしかすると、わたし、間違った選択をしているのかも知れないけど、でも、兎に角やってみなきゃ、間違っているかどうかも判らないしね」

要するに、そう言うことだった。

一方的で突然の別離。受話器を置いた時、毅は、奈緒美が去って行く・・・もう東京には居られないな、と思った。奈緒美が新しい男、あの熱っぽい貪欲そうな眼をした下らない男とこの街に、然も、そう遠くも無い目と鼻の先に、住んでいるのを知りながら、此処に住み続けることなど出来っこない。毅は生まれ育った故郷の京都に戻って活動の拠点を関西に移した。それ以後、唯の一言も奈緒美と話さなかったし、それっきり、今日まで逢うことも無かった。


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