2 あの日の記憶

「今すぐ、きみ、を、た、す……、……」


 見えていた景色が、急に変わった。


(ここ、俺の)


 部屋だ。見えてるの、部屋の天井だ。


 暖房を少し効かせた自室の、ベッドに仰向けで寝ていた、らしい。寝ぼけて、天井に向かって手を伸ばして、どれほど寝ぼけていたのか、声まで上げていたらしい。

 つまり、今のは。


 今のは全て、〝あの日の夢〟だ。


「ッ!」


 気づいた瞬間、凪咲なぎさは身を固くして息を詰めた。

 自分の顔から血の気が失せていくのを感じ、それによって目元や頬が濡れていること──本当に泣いてしまっていたことまで認識した。


 凪咲は慌てて寝間着代わりにしているジャージの袖で涙を拭い、部屋の外へ耳をそばだてる。

 物音を立てないように気をつけ、念を入れて明かりも点けずに、薄暗い部屋の中でスマホを開いて諸々を確認する。


 三月三十一日、午前の五時前。

 五時に設定しているアラームより前に起きたことは、別にどうでもいい。

 むしろ都合が良い。

 アラームは切っておく。


 両親は、二人とも家に居ないままのようだった。

 帰ってきた、帰る、だから何かを、そういった連絡は入っていない。


 入ってきていた連絡は、確認事項、まとめておくこと──二人の代わりにやれること。

 いつも通りのメッセージ。

 それらのおかげで、両親がスケジュール通りに仕事をしていると分かる。


 部屋の外から〝実際の音〟や〝実際の声〟などは聞こえてこない。人が居る気配もない。


 そこまで確認して、凪咲は少しだけ、体の強張りがほぐれていくのを感じ取る。


(けど、まだ)


 思い直して、気を引き締めた。


 薄暗い部屋の中で、手早く最低限の身支度を整えていく。


 百均の鏡を見ながら、雑に拭った涙をティッシュで全て拭き取る。

 薄暗くてもまぶたが腫れぼったくなっていると把握し、把握してから、泣いたせいで目元が少し熱いと自覚した。


 髪も、鏡を見ながら百均のヘアブラシを一応通す。

 寝グセはそれほどついていなかった。


 服は中学のジャージだから良いだろセーフだ、それよりもと、凪咲は家の中を素早く確かめていく。


(誰も、居ない、な)


 どの部屋も無人、出入りの形跡もパッと見はない。

 確認し終えて、ようやく凪咲は安心できた。


 浅くなりかけていた呼吸を整えつつ、朝の身支度のため──泣いてしまった顔をマシな顔にしないといけないし──誰も居ないと確認した洗面室に入り直して、照明を点ける。


 外でも当たり前に、家の中でも人が居る時に「必要のない」涙を見せたりわめいたりなど、あってはならない。


 しかも今回、泣いてしまった理由は〝あの日の夢〟だ。

 両親の機嫌を絶対に損ねる。


(俺、やらかしたばっかりなのに)


 だから今日からまた『別邸』で暮らすのに、やらかしにやらかしを重ねたら、両親の機嫌を損ねるし迷惑をかけてしまう。

 両親にも、誰にも。


(迷惑かけてないっぽくて、良かった)


 安堵しながら、顔を洗う。


 両親の友人知人、仕事関係者だったりが、家に来ることもよくある。

 彼ら彼女らは、両親へ伝えずに家へ上がっていることも結構な頻度である。

 両親も基本的にそれを許す、許可しているから、彼ら彼女らは家に入れる。


(誰か来るとか、来てるとか)


 連絡がなくても、全部の部屋が「無人」だと分かるまで、完全に安心はできない。

 あの日の夢で、自分のことで。両親にこれ以上迷惑をかけたくない。


(でも、夢に見るのは、まだ時々あったけど)


 泣くほどまでいくのは久々だな。


 あんなに生々しい夢なのも、久々だ。


 最近聴こえて助けることができた〝声〟の誰かや何かも、そんなに危険な状況じゃなかった。

 そのおかげもあって、みんな無事に、誰にも迷惑をかけずに助けられたのに。


 あの日の君は〝存在しない〟と、何度も確認した事実を、少し前にも再確認したばかりだったのに。


(逆効果だったかな)


 行かなきゃ良かったかな。


 凪咲は思いつつ、洗ったことで少しはマシになっただろうかと、大きな鏡に映る自分の顔を見返す。


 目元の腫れぼったさも熱も、泣いた跡も。

 思ったより消えていて、凪咲はホッとした。


 ホッとして緩んだ表情になった、鏡に映る「彼」へ思う。


(何笑ってんだよ、お前)


 黒髪黒目、幼く見える顔、細身で肌も白いほう、身長は163cm。

 成人まであと少しだと思えない「少年」のような見た目の自分に、鏡の向こうから「良かった」と言いたげに微笑まれた。

 見た目だけは両親と似ているのに、中身は「両親のようになれなかった」自分に微笑まれ、凪咲は苦笑する。


 自分に、松崎まつざき凪咲へ『こんなふうに』笑いかける存在は、松崎凪咲だけ。

 しかも「両親にこれ以上の迷惑をかけずに済んで良かった」と、笑いかけた。


(やらかしたんだぞ、俺は)


 高校二年の終わり、昨日のように思える十日前、春休み直前の日に。

 なのに、どこをどう見て「これ以上迷惑をかけずに済んだ」と言うのか。


 それに今回の「やらかし」は、いつもの──それでもここ数年はやらかさずに済んでいた「やらかし」と種類が違う。


 いつもの「やらかし」は、実際の声と違って心に届く様々な存在の〝声〟が聴こえた結果、両親へ個人的な不利益をこうむらせてしまう「やらかし」だけど。


(あの「やらかし」は)


 両親に社会的な不利益をこうむらせてしまった、両親の仕事関係での「やらかし」だ。

 両親のようになれず、それでもと自分なりに頑張っていたけど、自分勝手な理由で招いた「やらかし」だ。


「……早く『別邸』行かなきゃだろ、俺」


 凪咲はあえて声に出し、真面目な表情になって鏡越しの自分を見つめ返す。

 声変わりしても「両親似の容姿に似合う」高い声の自分は、だというのに「両親のように」生きられない。


 あの日の夢を見たのも、罰かもしれない。

 もう二度と、あんな「やらかし」をするなと、自分が自分へ伝えようとして見せたのかも。


 なら、どうすれば良かったのか。


 すぐには答えが出てこない。

 出せない。

 両親のようになれない自分だから。


(だから)


 行くんだろ、俺。

 両親のために、自分のためにも『別邸』へ。


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