戦争花嫁八十八号

山南こはる

プロローグ

【1: それが皇帝陛下のご命令だから】

 暗闇から、静かな波の音と共に聞こえてくる声がある。

『いいかい、ヤエ。この【力】を、決して誇示してはいけないよ』

 温かくて穏やかな、内海の波の音。

 ヤエは言った。

「誇示って? 使っちゃいけないの?」

『そうじゃない。必要ない時に、みだりに使ってはならない、ということだ』

 それが皇帝陛下のご命令だから、と声は続く。

『僕たちはね、忠義の死をもって勝利に貢献しなくてはならない。だから僕たちに、戦後の生活はない。この国の――大東亜帝国の勝利は、僕たちの死の先にある』

 それが皇帝陛下のお望みだから。それが皇帝陛下の御為だから。

「でも、もし帝国が戦争に負けてしまったら? もう皇帝陛下はわたしたちに、ご命令を下さらないかもしれない」

 声の主が顔を上げる気配がする。穏やかな波が、自分たちの足元のすぐそばまで来ていた。

 彼は微笑んで静かに首を振る。

『ヤエ。変なことを言ってはダメだよ。この国は勝つ。陛下は現人神あらひとがみでおられるのだから。そして僕たちは陛下の御為に、この国の英霊になる。分かるかい?』

 ヤエは『違う』と言いかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。

 穏やかな波が足にかかり、足首、ふくらはぎと、水かさが増してくる。皇帝陛下のご命令が欲しいのは彼だけではない。他でもないヤエ自身こそ、陛下のご命令が欲しいのだ。

 ――皇帝陛下のおっしゃることは、何でも聞かないと。わたしはそのために生きているのだから。

 波が激しい濁流に変わる。ヤエも声の主もたちまち飲み込まれ、鮮明だった『夢』はたちまち黒塗りになっていく。



 目が覚めると、白い陽光がヤエの顔を照らしていた。

 ――またいつもと同じ夢。

「ふわぁ……」

 あくびをし、耳元でチュンチュン鳴いていたスズメを追い払う。まぶたをこすると現実が見える。寝床に屋根はあるが壁はない。古びた高架下には無数のむしろが敷いてあって、そこにたくさんの若い女が浮浪者として寝泊まりしているのだ。

 筵を這い出ると、刃物のような冷気が全身を突き刺してくる。

 早起きな数人はもう身支度を整えている。朝日の中、モゾモゾと動く筵もあれば、全く動かないものもある。

「いい天気」

 冷たい空気の中に、悪臭が漂っていた。この臭いを、ヤエは戦場で何度も嗅いでいた。

 死臭だ。

 ――誰か亡くなったのね。

 まだ目覚めない筵を観察し続ける。やがてすぐ隣の筵が、先ほどから全く動かないことに気づいた。

「おはようございます。朝ですよ」

 ヤエは筵をめくる。昨日まで何とか生きていたはずの女は死んでいた。

 ――仕方ない。この人、梅毒だったみたいだし。

 筵を戻す。皇居のある方に跪拝きはいしてから、ヤエは昇る朝日を見つめた。

「お腹すいた……」


 皇暦二六〇五年、八月十五日。我ら大東亜帝国は世界中を巻き込んだ戦争に負けた。

 それから五年、帝国の社会はまだ、敗戦から立ち直れずにいる。

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次の更新予定

2026年1月16日 21:00
2026年1月19日 21:00

戦争花嫁八十八号 山南こはる @kuonkazami

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