第9話 余裕
#9余裕
やがて、二階は目尻に数本、しわを寄せた。
それが笑みだと、有珠が理解するまでに、少し時間がかかった。
「さあね、お嬢ちゃん」
穏やかな声だった。
だが、その響きには、どこか諦めにも似た余韻があった。
有珠は、静かに問いかける。
「あなたがこの仕掛けを思いついたのは、保管庫に忍び込んだ後ですか? それとも前ですか?」
二階は、肩をすくめる。
「それが、そんなに重要かい?」
有珠は、まっすぐに答えた。
「犯行の時間帯を誤認させる目的は、疑惑を分散させるためのものだと考えられます。──はっきり言えば、罪をなすりつける計画があったかどうかです」
そして、少しだけ声を和らげた。
「それによって、あなたの人物像は大きく変わります。もし訴えられたとしても、罪が軽くなる可能性があります」
その目線は、真っ直ぐで、どこまでも素直だった。
しかし、二階は教師の方を見て、ゆっくりと口を開いた。
「どうだろうね。そもそも軽犯罪だろうし、この塾がそんなことを公表するかな?」
教師は、視線を逸らした。
軽犯罪において、動機や心情が深く掘り下げられることは少ない。
せいぜい、反省の意思があるかどうかが問われる程度だ。
それに、塾側も経営を考えれば、大事にはしたくないだろう──
そんな空気が、場を覆っていた。
そのとき、男子生徒が突然、声を荒げた。
「おいおい! 人に罪をおっ被せようとしたくせに、おとがめなしかよ!」
二階は、静かに答えた。
「勘違いしてはいけないよ。君が疑われたのは、別室にいる“彼”のせいだろう?
……まあ、彼と私の二人、かな」
その口調は、思わせぶりだった。
まるで、幸と自分が共犯であるかのように。
有珠も教師も、それが狂言であることを理解していた。
だが、男子生徒の表情には、疑念がじわじわと広がっていくのが見て取れた。
教師が場を収めようと、退出を促しかけたその瞬間──
有珠が、二階を呼び止めた。
彼女は、手に一枚の紙を掲げて言った。
「これ、なんて読むか、分かるかしら?」
その声は、静かだった。
*
…幸は、誰もいない部屋の中で、不安にさいなまれていた。
──この扉の向こうで、一体何が話し合われているのだろう?
いや、分かっている。
あの天才少女が、自分を犯人に仕立て上げようと、あらゆる謀略を張り巡らせているに違いない。
ふいに、両親の悲しそうな顔が脳裏に浮かんだ。
──ごめんよ。
胸の奥が、じわじわと締め付けられる。
幸は、明らかに追いつめられていた。
そして、こんな考えが浮かぶ。
──そうだ。今すぐ親に電話をかけよう。そして、弁護士に相談してもらおう。
突拍子もない、というには、あまりにも遅すぎる判断だった。
幸はすぐにスマートフォンを取り出し、母親の番号を探す。
指先が震える。
だが、発信ボタンを押そうとしたその瞬間──ふと、考えがよぎる。
(“部屋から出るな”って言われているけど……電話は、かけていいのかな?)
しばらくの間、幸は悩み続けた。
画面の光が、静かな部屋の中で、妙に冷たく感じられる。
しかし、意を決して、指を動かそうとしたその瞬間──
扉が、静かに開かれた。
その音は、まるで判決を告げる鐘のように、幸の鼓膜を打った。
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