第9話 余裕

#9余裕


やがて、二階は目尻に数本、しわを寄せた。


それが笑みだと、有珠が理解するまでに、少し時間がかかった。


「さあね、お嬢ちゃん」


穏やかな声だった。


だが、その響きには、どこか諦めにも似た余韻があった。


有珠は、静かに問いかける。


「あなたがこの仕掛けを思いついたのは、保管庫に忍び込んだ後ですか? それとも前ですか?」


二階は、肩をすくめる。


「それが、そんなに重要かい?」


有珠は、まっすぐに答えた。


「犯行の時間帯を誤認させる目的は、疑惑を分散させるためのものだと考えられます。──はっきり言えば、罪をなすりつける計画があったかどうかです」


そして、少しだけ声を和らげた。


「それによって、あなたの人物像は大きく変わります。もし訴えられたとしても、罪が軽くなる可能性があります」


その目線は、真っ直ぐで、どこまでも素直だった。


しかし、二階は教師の方を見て、ゆっくりと口を開いた。


「どうだろうね。そもそも軽犯罪だろうし、この塾がそんなことを公表するかな?」


教師は、視線を逸らした。


軽犯罪において、動機や心情が深く掘り下げられることは少ない。

せいぜい、反省の意思があるかどうかが問われる程度だ。

それに、塾側も経営を考えれば、大事にはしたくないだろう──

そんな空気が、場を覆っていた。


そのとき、男子生徒が突然、声を荒げた。


「おいおい! 人に罪をおっ被せようとしたくせに、おとがめなしかよ!」


二階は、静かに答えた。


「勘違いしてはいけないよ。君が疑われたのは、別室にいる“彼”のせいだろう?

……まあ、彼と私の二人、かな」


その口調は、思わせぶりだった。

まるで、幸と自分が共犯であるかのように。


有珠も教師も、それが狂言であることを理解していた。


だが、男子生徒の表情には、疑念がじわじわと広がっていくのが見て取れた。


教師が場を収めようと、退出を促しかけたその瞬間──


有珠が、二階を呼び止めた。


彼女は、手に一枚の紙を掲げて言った。


「これ、なんて読むか、分かるかしら?」

その声は、静かだった。



…幸は、誰もいない部屋の中で、不安にさいなまれていた。


──この扉の向こうで、一体何が話し合われているのだろう?


いや、分かっている。

あの天才少女が、自分を犯人に仕立て上げようと、あらゆる謀略を張り巡らせているに違いない。


ふいに、両親の悲しそうな顔が脳裏に浮かんだ。


──ごめんよ。


胸の奥が、じわじわと締め付けられる。


幸は、明らかに追いつめられていた。


そして、こんな考えが浮かぶ。


──そうだ。今すぐ親に電話をかけよう。そして、弁護士に相談してもらおう。


突拍子もない、というには、あまりにも遅すぎる判断だった。


幸はすぐにスマートフォンを取り出し、母親の番号を探す。

指先が震える。


だが、発信ボタンを押そうとしたその瞬間──ふと、考えがよぎる。


(“部屋から出るな”って言われているけど……電話は、かけていいのかな?)


しばらくの間、幸は悩み続けた。


画面の光が、静かな部屋の中で、妙に冷たく感じられる。


しかし、意を決して、指を動かそうとしたその瞬間──


扉が、静かに開かれた。


その音は、まるで判決を告げる鐘のように、幸の鼓膜を打った。

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