第11話 エルデナの崩壊



――その日も、空は穏やかだった。


高地特有の澄んだ風が、白の塔(ホワイトスパイア)の尖塔をなぞり、

校庭の魔光花をやさしく揺らしていた。


朝の鐘が鳴る。

寮の窓を開けたリヴィアは、いつものように冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。


「今日も……いい天気」


高く広がる青。

自分の世界は、この塔と、この空と、この街で完結している――

そう信じて疑っていなかった。


窓から中庭を覗くと、見慣れた光景が視界に入る。


芝生の上で寝転がり、両手を頭の後ろで組んだセリウス。

その足元には開きかけの魔導書が数冊、無造作に散らばっている。


その横で、腕を組んで説教モードのグレイ。


「お前な、講義始まるぞ」

「分かってるって。朝の日光は魔力循環にいいんだよ、知らないの?」

「その理屈、先週も聞いた」

「事実なんだから仕方ないだろ? 俺、光属性だし」


呆れたように溜息をつくグレイ。

そのやり取りに、リヴィアは思わず口元を緩めた。


(いつもの朝……)


胸の奥で、ペンダントが小さく触れ合って鳴る。

不思議と、それさえも“日常”の一部だった。


彼女は本を抱え、塔の階段を駆け下りる。



不穏の影


午後、歴史の講義が終わり、生徒たちがざわざわと教室を出ていった頃。


白の塔の一角、魔導工学の実習室では、

エイデン教授がひとり、薄暗い機器の前に立っていた。


部屋のカーテンは半分閉ざされ、外の光はわずかしか差し込まない。


机の上には、エルデナのものではない、

見慣れぬ黒光りする魔導装置と、帝国式の制御符。


エイデンの眼差しは鋭く、どこか焦りを含んでいた。


「……こちらエルデナ。内部観測終了。予定通り――」


小さな通信具に囁く声。

耳を澄ませば、どこか遠くのノイズが返る。


「次段階に移行して構わない……と?」


エイデンの唇が、わずかに歪んだ。


その瞬間、背後で扉が軋む音がした。


「先生?」


振り向くと、グレイが立っていた。


「どうした、グレイ君」

「講義に教本忘れて……取りに来たんですけど。今の、通信ですか?」


エイデンは一瞬だけ指先を止め、それから何事もなかったかのように笑う。


「ただの装置試験さ。帝都の最新式を参考にしていてね。

ほら、これは帝国式の制御符なんだが――」


帝国式、という単語にグレイの目が細くなる。


(帝国式の制御符……? どうして学院内に?)


「……そんな顔をするな。魔法も工学も、よそから学ばねば停滞する。

これはあくまで“研究”だよ、“兵器”ではない」


言い方が、どこか引っかかった。


だが、グレイが更に踏み込もうとした、その時。


――ドンッ、と、塔全体が揺れた。


続いて、重く長い音。


エルデナ王国建国以来、誰も聞いたことのない――非常鐘の音だった。



ディナシア帝国襲来


空が……暗くなった。


教室からも、廊下からも、生徒たちが一斉に窓際へ駆け寄る。


「なに……あれ……?」


白い高原の空を覆うように、

十数隻、いや二十隻を超える飛行船団が迫ってくる。


艦体側面には、鋼の双翼の紋章――ディナシア帝国軍の証。


「嘘……中立条約は……?」

「エルデナに戦争なんて、あり得ないはず……」


誰かが震える声で呟く。


艦首から、青白い魔導炉の光が漏れ、その下部にずらりと爆弾投下口が並ぶ。


王都全域に、魔法拡声器を通して伝令の声が響いた。


『王都南部、帝国軍飛行艦隊を確認ッ!!

全住民は直ちに避難経路へ! 繰り返す――』


街に悲鳴が満ちる。


兵士たちが誘導し、子供を抱えた母親が走り、

老人たちが杖をつきながら門を目指す。


「セリウス!!」

中庭へ飛び出したリヴィアが叫ぶと、

彼は既に空を見上げていた。


「……嫌な予感、当たっちまったか」

「どういう意味?」

「最近、帝国の偵察船、多かっただろ? あれ、ただの偵察じゃなかった」


横からグレイが駆け込んでくる。


「教官たちは避難優先。戦線は王宮魔導師団が張るそうだ」

「俺たちは?」

「白の塔は、ここに留まって状況待ちだ……本来は、な」


セリウスは唇を噛み締めた。


その時、空が閃光で染まる。


飛行船から、一斉に爆弾が投下された。


エルデナ全域が、爆音と光に飲まれた――。


だが、爆炎は地上には届かない。


透明な半球のような光の壁が王都全体を覆い、

砲撃を受けるたびに水面のような波紋を広げていた。


「……結界が、守ってる」

リヴィアは息を呑む。


「さすがエルデナ。防御結界だけなら、世界最強だな」

セリウスは笑おうとしたが、その目は笑っていなかった。


「南門、封鎖完了! 市街の避難率、七十パーセント!!」

遠くから魔導通信の声が聞こえてくる。


一瞬、希望が生まれかけた――その時だった。



魔力無効化装置


「……南門の魔導陣、反応がおかしいぞ!」

「魔力炉の出力、急激に低下――いや、これは……奪われている……?」


南門地下の制御室で、魔導技師が叫ぶ。


地面に刻まれた巨大な魔導陣が、ゆっくりと黒く染まっていく。


次の瞬間――


「結界、南部区画、消失ッ!!」


王都を守る半透明の光の壁が、南側だけ“抜け”た。


途端に、飛行船から放たれた砲撃が、

何の抵抗もなく王都南部へ突き刺さる。


炎と破片が空を舞う。


「帝国歩兵、南門突破!!」

「戦車型魔導機兵確認!! 数、不明!!」


重い地響き。

鉄と油の匂いが、澄んだエルデナの空気を汚していく。



王宮防衛戦


「全魔導師団、迎撃配置! 絶対に王宮を抜かせるな!!」


王城前広場。

エルデナ王宮直属の魔導師たちが陣形を組んでいた。


白いローブが一斉に翻る。


「“フレイム・ランス”!」

「“アイスバインド・サークル”!」

「“サンダークラウド・レイド”!!」


数百の魔法が一斉に放たれ、

帝国軍の前衛部隊を焼き、凍らせ、貫いていく。


「な、なんだこの火力は……!!」

「兵が……一瞬で……!」


帝国側の将校が青ざめる。


わずか数百の魔導師が、数万の兵士を押し返していた。


――だが。


空から、黒い箱のようなものが、王宮周辺にいくつも投下された。


地面に触れた瞬間、静かな光がふわりと広がる。


「……また、魔力の流れが――」

「詠唱が……繋がらない……!」

「魔法が、消える……!!」


次々と魔導師たちの術式が霧散し、

防御も攻撃もできないただの“人間”へと変わっていく。


「撃てぇええ!!」


無防備な魔導師たちに、帝国歩兵の銃弾と砲撃が降り注ぐ。


白いローブが次々に血に染まり、

王宮前広場は一瞬で地獄に変わった。


魔力炉に繋がるメインラインも“無効化”され、

王都全体を覆っていた防護壁が、完全に消える。


飛行船の大砲が、今度こそ無抵抗の王都へ降り注いだ。



白の塔への火の手


白の塔全体が、轟音と共に揺れる。


教室の窓が粉々に砕け、天井から石片が降ってくる。


「きゃああッ!!」

「外へ出ろ! 廊下に集まるな、崩れるぞ!!」


教師たちが必死に学生を避難させていく。


リヴィアは本棚の下敷きになりかけたティナを咄嗟に押し退けた。


「大丈夫!? ティナ!」

「っ、うん……リヴィア、ありがとう……!」


「外の様子を見てくる!」

セリウスが窓から身を乗り出す。その瞳が大きく見開かれた。


「街が……燃えてる……」

「うそ……」

リヴィアの喉が乾く。


白い石造りの街並みが、

あちこちで黒煙と炎に包まれている。


遠くで、王宮の塔がひとつ、崩れ落ちるのが見えた。


「避難命令だ!」

アーヴィングが杖を掲げる。

「戦えない者は北門へ! 教師が護衛に付く!

……特待課の諸君は――」


その言葉を、セリウスが遮った。


「戦えるやつは、俺と来てくれ!!」


教室が揺れる。


「逃げろなんて言ってられない。ここは俺たちの家だ!」


その言葉に、胸を掴まれるような痛みを感じたのは、リヴィアだけではなかった。


ティナが震える唇で言う。

「……わたしも、行く……。

ここは……あたしたちの……“帰る場所”だから」


ルーカスが眼鏡を押し上げ、杖を握る手を強くした。

「どうせ帝国は……逃したところで追ってくる。

なら、ここで一発“やり返す”のも悪くない」


「バカ言わないで」

ウィノナが毒づきながらも、杖を手放さなかった。

「……勝手に一人で死なれたら、ムカつくから。あたしも行く」


グレイは一度だけ目を閉じ、深く息を吸う。


(……本来なら、ここで全員を止めるべきなんだろうな)


だが、

彼らは皆、自分と同じ“孤児”であり、“家族”だった。


「……行くなら、俺も行く」

「セリウス一人に英雄面させてたまるかよ」


リヴィアは、己の震えた指を見下ろした。


怖い。

ただただ、怖い。


だが――


「私も、行く」

声は驚くほど、はっきり出た。


セリウスが振り返る。

一瞬だけ、柔らかく笑った。


「……ありがとな」



白の塔の戦い


学院南側の丘を越えた先――

そこは地獄だった。


崩れた家屋。

泣き叫ぶ子供。

倒れた兵士。

黒煙に霞む帝国の旗。


「来たぞ!! 学生だ!!」

「魔導学院の連中だ!! 先に潰せ!!」


帝国兵が銃口を向ける。


セリウスが一歩前に出る。


「“天哭(てんこく)”!!」


空が一瞬、真昼のように白く輝き、

続いて無数の光の矢が降り注いだ。


地面を穿ち、

帝国兵達の列をまとめて貫き、

後列の魔導砲の砲座さえも飲み込む。


「な、なんだこの……」

「ガキの魔力量じゃねぇ……!」


リヴィアの周りに、影が濃く集まる。


(怖い……けど――)


彼女は目を閉じかけたまぶたをぐっと持ち上げ、

目の前の現実を見据えた。


「黒閃(こくせん)――!!」


レイピアが闇の軌跡を描き、

その一閃は、帝国兵の隊列を纏めて裂いた。


鎧ごと断たれた兵たちが、音もなく崩れる。


「リヴィア……!」

誰かが息を呑んだ。


グレイは渦中に飛び込む。

大量の帝国兵が殺到してくるその中心へ、大剣を突き立てた。


「“アーク・バースト”!!」


地面に走る亀裂。

その隙間から、焦げたマグマのような炎が噴き上がり、

瞬く間に火柱となって帝国兵を飲み込んでいく。


「熱っ――!!」

「離れろ、炎が広がる!!」


学生たちも各々の魔法を放つ。


ティナの赤い魔法陣からは、

炎の渦巻きが帝国兵の前線を吹き飛ばす。


ウィノナは幻惑魔法で敵の視界を乱し、

ルーカスは精密な雷撃で狙撃兵を狙い撃つ。


「やれないことなんて、何もない……!

俺たちが、エルデナなんだ!!」


誰かの叫びに、学生たちは呼応した。


帝国兵の列が崩れ始める。


「撤退しろ!! あいつら、化け物だ!!」

「音を上げるな! ただのガキだぞ!!」


だが、帝国軍にとってそれは“ガキ”ではなかった。


――“エルデナが世界各地から拾い集め、育てた兵器”。


皮肉にも、その通りだった。



代償


どれほど時間が経ったのか、もう分からなかった。


炎の色は知らぬ間に夕暮れと混じり合い、

空の端は赤とも黒ともつかない色に染まっていた。


「……はぁ……はぁっ……」


リヴィアの呼吸は荒く、足元はふらついていた。


使いすぎた。

魔力が、枯れていく感覚。


「まだ……まだいける……!」


そう言い聞かせて、前に出ようとした瞬間――


視界の端で、ティナが崩れた。


「ティナ!!」


駆け寄ると、彼女のローブが赤く滲んでいた。


「……平気、だよ……リヴィア……

ほら、ちゃんと、やり返して……やった、でしょ……?」


笑おうとした顔が、うまく動かない。


「喋らないで!」

リヴィアは必死に回復魔法を試みるが、

魔力が空回りするだけで、傷は塞がらなかった。


矢が飛ぶ。

次に倒れたのは、ルーカスだった。


「ルーカス!」

「ごめん、メガネ……割れちゃった……」

「そんなのどうでもいいわよ……!」


帝国兵の銃撃が止まらない。


魔力切れの仲間たちは、もう防御すら満足にできなかった。


「撃てぇ!! 今だ、魔力切れだ!!」


銃声が鳴り響くたびに、

白の塔で一緒に笑っていた声が、ひとつずつ消えていく。


「やめて……やめてよ……!!」


リヴィアは、震える手で防御結界を張る。


セリウスも、グレイも、その隣で必死に魔力を絞り出していた。


「来いよ帝国!!」

セリウスが叫ぶ。

「俺たちエルデナは、簡単には死なねぇ!!」


「セリウス、無茶だ……もう魔力が……」

グレイの声も、掠れていた。


エルデナの希望だった特待クラスの子供たちは、

一人、また一人と、静かに地に伏していく。


気付けば、

周囲に立っているのは――


リヴィア。

セリウス。

グレイ。


三人だけだった。



終焉


膝が、勝手に折れた。


「っ……」


地面に手をついたリヴィアの視界が、霞んでいく。


瓦礫。

炎。

血。


そして、見慣れた制服の色。


(やだ……やだやだやだ……)


「リヴィア!! まだ終わってない!!」


遠くで、セリウスの声が聞こえた気がする。


でも、身体が……重い。


(みんなで……

一緒に卒業して……

一緒に未来を――)


思い描いていた未来が、砂の城みたいに崩れていく。


その時――


風が、吹いた。


さっきまでの熱風とは違う。

どこか懐かしく、胸の奥に触れてくるような、

あたたかい風。


(……この感じ)


小さな頃に、

誰かに抱きしめられて感じたような、そんな温度。


「……あの日の……風と、同じ……」


リヴィアは、重たい瞼をようやく閉じた。


遠くで、白の塔が崩れ落ちる音がした。


炎の中で、

彼女の胸元のペンダントだけが、

かすかな光を宿していた。


それは――

十年後、彼女が再び剣を握る理由へと繋がる、小さな灯火だった。

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