行かないでくれよ

味見ごはん

第1話

「一年半で?」


 もっと言いたいことも聞きたいこともあるはずなのに、最初に出た言葉はこれだった。


「そうなんだよ。早いよね。社員のことなんだと思ってるんだろ。無機物の駒じゃないんだわ。」


 本当にそうだ。こいつに限らず一人一人に家族や友人がいて、生活があって、みんな人生を頑張っているんだ。ましてや二文字で表したり手に収まるサイズ感で扱っていいわけはない。


「でもまあ、地元に戻れるのは良いのかも。よく知ってる土地だし、実家帰りやすいからラッキーを撫でてやれる。それはちょっとラッキーだわ。」


 すでに受け止めて決めたように洒落を言う彼女に少し苛立つ。こいつの実家の犬は確かに可愛いが、お前はそんな価値観で生きていないだろ。こいつは数ヶ月前に私の利き手がへし折れたときに夢を成し遂げたかのように幸せそうに笑っていた。

 そもそも普通の価値観を持っているのであれば、ショート動画で見たからって柔道の禁止技を他人に仕掛けたり、同性の私にキスをしない。


「...引っ越しはいつか決まってんの?」


 私も私でこんな普通のことを言わないでほしい。普通のことを言えるなら初語から現在に至るまで真っ当なことだけを言って、大手を振って歩けるような人生を歩めばよかったんだ。


「二週間後。そんなんであの家片付くと思う?」


「絶対無理」


 無理に褒めるなら"空き家にしては綺麗"程度にしか言えない惨状をこいつがどうにかできると思えない。どうにかするための掃除道具があるかも怪しい。


「風呂の端っことかさ、オレンジと黒の間みたいな色になってるんだわ。タワシで擦っても落ちなかった。」


 台所用品と掃除道具の見分けもついてなかった。

 だからこいつの家には一回しか行ってない。


「会社はあんたが今まで与えてきた損害をまとめて返そうとしてるんだよ。じゃないとそんな急に転勤なんて言わない。」


「割と普通じゃない?前に公務員も転勤はそのぐらいって聞いたよ。

人と喋らないでパソコンばっかり触ってるからそんなことも知らないんだわ。」


「うるさい。」


 急にまともなことを言わないでほしい。こんなやつよりものを知らないのかと思って腹が立つから。転勤を受け入れたように見えるから。


「まあ別にいいよ。今日は帰るわ。店が閉まる前にカビキラー買って帰らないといけないんだ。」


カビキラーぐらいは知っていたらしい。




 こいつと出会ったのは半年前。私が1人だけで静かに生活するための家に、窓を蹴り割って不法侵入してきた。第一声は「綺麗な空き家があるなと思って」だったため、手にしたフライパンと110番にあと一押しのスマホを下げることはしなかった。

 だからなのか、聞いてもいない個人情報を名前から住所、勤務地まで全てべらべらと話し、半笑いで許してくれって顔をしていた。

 その後フライパンは下ろし話してみると、おかしくはあるが面白いやつだったので警察は呼ばずに、弁償代金だけ奪い、そのまま帰してやった。そうすると以降は呼び鈴を鳴らすようになり、私も玄関を開けるてやるようになる。


 私の唯一の話し相手だった。


 今、それが失われようとしていてそれが腹立たしい。不法侵入から始め様々な軽〜重犯罪に遭ったが、それらを許してきた身からするとあまりに身勝手に思える。


 足でも折ってしまおうか。骨折した人間に引っ越しの伴う異動を強要することはないだろう。そうすれば1ヶ月は延期になり、その間に次は腕でもへし折ってやり、それを繰り返せばその呪われた内示も取り消されるはずだ。


 そう考え付いてからフライパンを手に取り家を出た。




 深夜で明かりが少ないと言えど、住宅街と言うにはささやかな建物群の中から一度行ったことのある家を探し出すのは容易だった。目印の傷だらけの軽自動車も確認し、アパートに足を入れる。

 人の家の水道もまともに閉めないようなやつが自分の家の鍵を閉めているわけもなく、すんなりと不法侵入に成功した。


 玄関には投函されたチラシがそのまま投げ捨てられて、本来の床が埋まっていたため、躊躇うことなく土足で家に上がる。


 利き手に持ったフライパンを握り締め、寝室がある方に忍び足で近付くと、思い切り鳩尾を蹴り飛ばされた。

 

「...なにしてんの?不法侵入は刑法の1〜9999条のどっかで禁じられてるんだよ。」


 明かりを付けられ半笑いで見下ろされる。あまりの痛みで腹が立たなかった。


「殺してやろうかと思って。」

 

「殺人なんて絶対1〜9条にはダメって書いてるわ。何しに来たの?」


刑法は264条までだし、殺人罪は199条だし、序盤は刑法のルール部分だ。こいつは何も知らない。


「引越しなんてできない体にしてやろうと思って。」


「?私、異動しないよ。給料下がるけど断れるんだよ。本当に社会を何も知らないね。人と話さないでパソコンばかり触ってるからだわ。」





 話をよく聞くとこいつの会社では異動に対しては従うか、少し給料が下がるがエリア社員になりその地に残るかという選択があるらしい。そしてこいつは本来は縁のないここに薄給で残り続けると言うのだ。

なぜ?


「異動先、地元だったんでしょ。なんで行かないの?」


「友達いないし家族とも仲良くないんだわ。地元で私によくしてくれるのラッキーだけだよ。全力の散歩できるからかな。」


 夜な夜なゴールデンレトリバーと半笑いで走り回るこいつは想像しやすい。それは犬も嬉しいだろう。


「こっちにも私しか仲良い人いないじゃん。」


「そうそう。この世で1人だけだからここ以外変わらないよ。でも給料下がるからさ、そっちの家に住ませてよ。職場遠いけど我慢するわ。引っ越しも手伝ってね。カビキラーとたわしは買ってきたし。」


そう言って、半笑いの頼むよって顔を見ると、フライパンを握る手の力が抜けた。

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行かないでくれよ 味見ごはん @oisiito_uresii

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