第1話:有罪判決(恋愛において)
データは嘘をつかない。嘘をつくのはいつも、感情という名のノイズに満ちた人間の方だ。でも今日、僕の理性がシステムダウンを起こした。
◆
「――結論から言うと、この恋愛は失敗します」
冷徹な声が静まり返った会議室に響いた。
声の主は僕、相葉陽太(あいば ようた)。データサイエンス部門が誇る、若きデータアナリストだ。
目の前のスクリーンには複雑なグラフと相関図が映し出されている。
クライアントである大手マッチングアプリ『リンクス』の役員たちが固唾を飲んで僕の言葉を待っていた。
「ユーザーAとユーザーB。AIによるマッチング度は98.7%と極めて高い。趣味、価値観、行動履歴、すべてにおいて理想的なパートナーと判定されています。……しかし」
僕はレーザーポインターでグラフの一点を指し示した。
「過去の恋愛データ、特に『失恋からの回復期間』と『次の恋愛に移行するまでの心理的障壁』の変数を加味すると、このマッチングは成立後三ヶ月以内に破綻する確率が82.4%に達します」
「……相葉さん。それはつまり我々のAIが不完全だと?」
クライアントの一人が不満げに口を挟む。
「いいえ。AIは完璧です。ただ人間が不合理なだけですよ」
僕は淡々と答えた。
そう――
データは嘘をつかない。
嘘をつくのはいつも、感情という名のノイズに満ちた人間の方だ。
◆
会議は成功に終わった。
役員たちは僕の分析に唸り、新たなロジックの導入を即決した。けれど僕の心は少しも晴れなかった。
自席に戻る途中、給湯室から声が聞こえた。
「……またやったらしいわね、氷の分析官サマは」
その声の主を僕は振り返らずとも特定できる。
高橋美咲(たかはし みさき)。
同じプロジェクトチームの同僚。そして僕が社内で最も苦手とする人物。
「人の恋路をデータで切り刻んで、何が楽しいのかしら」
「でも彼の分析はいつも当たるって評判じゃない」
「当たるからタチが悪いのよ。人の心を数字の羅列みたいに語るなんて、デリカシーがなさすぎる」
デリカシー、か。
僕にとってそれは最も非効率で理解不能な概念の一つだった。
僕はわざと大きな音を立てて給湯室に入った。
「――悪かったな、デリカシーがなくて」
美咲は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの挑戦的な笑みを浮かべた。
「あら、聞いてたの? さすが地獄耳もデータ管理されてるのかしら」
「お前こそその口から出る言葉のネガティブ指数を分析してやろうか? きっと測定不能レベルだぞ」
「へえ。やってみなさいよ。あなたのその無感情な分析より、よっぽど人間味のある結果が出ると思うけど?」
バチバチと目に見えない火花が散る。
僕と美咲はいつもこうだ。
仕事の進め方、価値観、昼食のメニューに至るまで何一つ意見が合ったためしがない。彼女は感情論で突っ走り、僕はデータでそれを否定する。
水と油。
N極とS極。
交わるはずのない二つの存在。
そのはずだった。
◆
数日後、僕たちのチームに新たなミッションが下された。
『リンクス』の次期アップデートに向けた地方都市での実地データ収集。期間は二泊三日。
そしてその担当に選ばれたのが――
「……なんで僕と高橋なんだ」
僕は思わずマネージャーに問い質した。
「適材適所だ。君の分析能力と高橋のコミュニケーション能力。二人なら最高のデータが取れると判断した」
「ですが僕たちの相性が最悪なのはご存じでしょう。データ上、共同作業の成功率は17.3%を下回ります」
「なら覆してみせろ。それも君の仕事だろ、アナリスト」
マネージャーはにやりと笑って僕の肩を叩いた。
反論の余地はなかった。
隣の席で美咲が深いため息をつくのが聞こえる。僕も同じ気持ちだった。
二泊三日。
この女と二人きり。
それは僕にとってエラーとバグに満ちたシステムの中で、たった一人でデバッグ作業をさせられるようなものだった。
◆
出張当日。
新幹線の車内は気まずい沈黙に支配されていた。
僕はノートPCを開き分析作業に没頭することで、隣の存在を意識から追い出そうと試みた。カタカタとキーボードを叩く音だけが響く。
不意に隣から声がした。
「……ねえ」
「……なんだ」
僕は視線をPCから動かさずに答える。
「あんたってさ、本当に恋愛とか興味ないの?」
「興味がないわけじゃない。非合理的なのが嫌いなだけだ」
「非合理的、ね」
美咲はつまらなそうに窓の外を眺めた。
流れていく景色が彼女の瞳に映り込んでいる。
「誰かを好きになるとかドキドキするとか、そういうの全部ノイズだって思ってるわけ?」
「……まあそうだな。感情は判断を鈍らせる。最適な選択を妨げる最大の要因だ」
僕の脳裏にふと過去の記憶が蘇る。
『陽太は私のこと、好きじゃなかったの?』
涙ながらにそう問い詰めた元恋人の顔。
僕は何も答えられなかった。
好き、という感情の定義が分からなかったから。
「……へえ。じゃあさ」
美咲が不意にこちらを向いた。
真剣なそれでいてどこか挑発的な目で、僕をまっすぐに見つめてくる。
「誰が好きとか、もうそういうの疲れたんだ」
思わず本音がこぼれた。
僕が本当に分析したいのは他人の恋愛データじゃない。あの時答えられなかった僕自身の心の正体だ。
「へえ。データでは人間、7年周期で恋愛観変わるらしいけど?」
美咲が皮肉っぽく笑う。
「うるさいな。お前に僕の何が分かる」
「分かるわよ。あんたがただの臆病者だってことくらい」
「……なんだと?」
カチンときた。
僕が最も言われたくない言葉。
「図星でしょ? 失敗するのが怖いからデータっていう鎧を着込んで感情から逃げてるだけ。本当は誰よりも傷つきやすい癖に」
「……黙れ」
「本当のことじゃない。恋愛で失敗してそれがトラウマになってる。だから他人の恋愛まで失敗するって決めつけて安心したいのよ。違う?」
「黙れって言ってるだろ!」
僕は立ち上がった。
その拍子に網棚に置いていた資料の山がバランスを崩して崩れ落ちてきた。
「あっ……!」
美咲が小さな悲鳴を上げる。
僕は咄嗟に彼女をかばうように腕を伸ばした。
バサバサと大量の紙が僕たちの周りに降り注ぐ。
そして――
気づいた時には僕と美咲の顔は数センチの距離にあった。
彼女の驚きに見開かれた瞳。
シャンプーの甘い香り。
触れそうなほど近くにある柔らかな唇。
時間が止まった。
思考が停止する。
データも理論も分析も、すべてが意味をなさない。ただ目の前の存在にどうしようもなく惹きつけられていく。
「……あなたの理性、もう少し誤作動してくれない?」
美咲が震える声で囁いた。
それは挑発か、それとも懇願か。
「誤作動って……人間やめろってこと?」
僕の声も掠れていた。
心臓がうるさい。
これはエラーだ。
バグだ。
僕のシステムが経験したことのない異常を検知している。
けれど――
その異常を僕はなぜか心地よく感じていた。
どちらからともなく顔が近づく。
あと1ミリ。
その距離がゼロになった瞬間、僕の理性はついにシステムダウンを起こした。
柔らかい感触と甘い香り。
それが僕のすべての思考を上書きしていく。
これは恋じゃない。
ただのバグだ。
そう自分に言い聞かせながらも、僕は唇を離すことができなかった。
窓の外では夕日が世界を赤く染め上げていた。
まるで僕たちの未来を暗示するように。
有罪判決。
もしこの感情に名前をつけるとしたら、それ以外にないだろう。
僕は恋愛という名の法廷で、今確かに有罪を宣告されたのだから。
(第一話 終)
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